神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 74 鳥取城兵糧攻め

2022年11月25日 16時51分47秒 | 貧乏太閤記
「おおー それは難儀なされたのう、しばらくはここにてゆるりとされるがよい、お屋形様に相談して、出兵することになりましょう」
豊国は用意された屋敷に入ると安心したのかぐっすりと寝たという
その後も秀吉は秀長と話している
「おかしなものじゃ、先の荒木と言い、山名と言い家来を捨てて城から脱出するとは、二人はそれぞれ事情は違うが城主が城を捨てたことは同じじゃ」
「荒木殿の場合は別として、山名殿のことを思えば、やはり殿様と言う者は家臣を制する御する力がなければいかんのお」
「その通りじゃ、そもそもその力があるから殿様になれるのじゃが」
「やはり世襲大名は弱いのかのう」
「それは言えまい、お屋形様とて世襲じゃ、また見事に腹を切った別所長治殿も世襲であるが家臣に慕われる立派な殿であったぞ」
「うむ、やはり人それぞれの資質であるのじゃなあ」
「そうよ、われらも家臣の扱いには気を付けていないと寝首をかかれることもおこるやもしれぬ」
「そのとおりじゃ、家臣は大切にしないといけんのおお」

秀吉からの連絡を受けて信長は鳥取城を再度落とすべく「出兵せよ」と秀吉に伝えて来た、秀吉はさっそく手を打った、黒田官兵衛も話を聞くと医師が止めるのも聞かず姫路に戻った。
鳥取城の様子を聞くと、城主が居なくなったことに気づいた家臣たちは慌てた、頼りない豊国であったが彼に代わって城を守る気概ある家臣がいないのである
困って因幡、伯耆を支配する毛利三家の吉川氏に相談した、すると一族の吉川経家(きっかわつねいえ)を城主として送って来た。35歳の冷静沈着な立派な大将である。

 さて鳥取城攻めを任された秀吉は、またしても兵糧攻めを選択したのである
翌天正9年に入るとまずは稲刈りのタイミングで蜂須賀正勝、家政親子に因幡から伯耆あたりまで米を相場の倍以上で買い取らせた、金に目がくらんだ毛利方の兵も内緒で兵糧米を商人を偽った織田方に売却した。
更に正式な堺や大阪商人を使って毛利領で大口のコメ購入をさせて、飢饉で相場が高い関東に売るよう指示した。
気が付けば鳥取城の米蔵の米は予想以上に不足した、これはさすがの経家も気づかなかった、籠城すれば数か月後には無くなる量だ、春になり気づいたときには後の祭りであった、もはや買い戻そうにも領内の米問屋の倉も空っぽだったのだ、それでもいざとなれば伯耆の吉川家に頼めば何とかなると思っていた。

同じ年6月には秀吉は2万の軍を率いてゆうゆう鳥取に着陣、鳥取城を包囲した、毛利軍も吉川の兵を救援に送ったが、秀吉の軍は付城や砦を幾重にも築いて守りを固めたので、毛利軍は攻め込めない
救援米を海上から運び込もうとしたが、海上も織田水軍がびっしりと守っていて、運搬船を攻撃して沈没させたので、鳥取城には一粒の米も届かなくなった
秋の収穫をあてにしていたが目の前で秀吉は収穫直前の米を織田軍に必要なだけ刈り取り、あとは焼却した。
飢え死に寸前の城兵は次々と飢えて死んでいった、食えるものはすべて食い尽くした、再度吉川軍が兵糧の運び入れに向かったが、織田に味方した伯耆の羽衣石城の南条氏に遮られて失敗した。
ついに見かねた城主吉川経家は切腹を条件に降伏を願い出た、経家のあまりに立派な覚悟を見て、秀吉は助命をすると言ったが、経家はそれを拒んだ
「この城で満足に飯を食えずに悲惨な死を遂げた部下に申し訳ない、すべてはこの儂に責めがあるのだ、生きてはおられぬ」と言うのだ
ついに秀吉も諦めた、酒肴を贈って門出とした、こうして因幡、伯耆も織田領に組み込まれた。
それにしても、こうした戦いが行われているのに、毛利方はなぜ備前から播磨に攻め込もうとしなかったのか
それがまことに不思議である、備前の宇喜多は秀吉の兵を借りずに美作の毛利の城を攻めていたし、このあと秀吉軍は備中(びっちゅう)に攻め込むことになるが、いつも毛利は受け身で積極的に秀吉軍を攻めようとしない、これが謎である、危機感がなかったのか?戦意がなかったのか?
一方で織田軍は秀吉が鳥取城を攻めているのと同じくして、織田信雄を大将に伊賀に攻め込んでいる。
だから10月には因幡と伊賀が同時に織田の手に落ちている。
この時点で毛利は美作の一部、備前の一部、伯耆の一部、備中、備後、安芸、周防、長門、伊予、筑前の一部、出雲、石見8か国と十数郡を持っているが、沿岸部以外は山地が多く総石高は200万石ほどである、織田の4分の1程度だ、しかも軍団制をとっていないので、各々が自分の領地を守るという旧式の専守防衛スタイルだから大戦などはできない。 武田軍や上杉軍、徳川軍と比べてもその兵制は稚屈であった、さらに大国に築き上げた毛利元就の死後、元就の遺言で「領土を護り、撃ってでてはならない」を守って平和が続いていたため、好戦的な織田に対抗する術が失われていたふしもある、これでは癌細胞に体が侵されていくように織田に侵略されていく運命であった。
信長から見ても、織田家を常に脅かした武田は宿敵であり決して許せる相手ではない、しかし毛利は向こうから織田家に戦を仕掛けてきたわけではない
逆に織田が毛利を侵略しているのだった
それゆえに武田に対するような憎しみはない、本願寺に手を貸したことと、足利義昭を匿っていることを除けば無垢ともいえる
それは秀吉も感じている、それゆえにできれば毛利とは平和裏に徳川家康同様に従ってもらいたいと思っている

 織田家の軍事組織は日本国中誰もしたことがない兵制である、まずは兵士すべてが足軽まで職業軍人である
農民と軍人を完全に分離した日本初の軍隊である、他国は足軽の多くが農民であり、無理やり連れてこられた者たちであるから戦意に乏しく、戦闘能力も低い、しかも田植え、稲刈り時期には戦に出られない
だから戦は田植えあと、稲刈り後に限定される、だが織田軍は一年中戦ができる組織だ、それをできるのも豊富な財政があるからだ
特に信長が目を付けた直接の南蛮貿易と、信長が許可した大商人、貿易商からの税金や海外貿易許可料の収入が莫大だ。
 小商人には無税で商売させて城下を発展させ、大商人や寺社からはたくさんの税金をとる代わりに応援もする、信長ならではの経済政策も素晴らしい。
だから家臣たちも豊かである
 天正9年の信長の重要家臣は以下のとおりである

織田信忠 軍事総大将 嫡男 与力も含めた石高200万石 最多動員力6万人 
柴田勝家 北陸方面軍団長 130万石 4万人
明智光秀 畿内官房長官 130万石 4万人
羽柴秀吉 中国方面軍団長 140万石 4万人
この4名がもっとも力を持った者たちであった、このほかにも摂津、河内、和泉など各地の中堅クラスの国人を都度動員できる
信長自身はもはや先頭に立って戦場には出向くことがなくなったが、へいぜいは馬廻り衆、小姓衆が身辺にあって、出陣となれば光秀軍団や近江、伊勢あたりの兵を率いたであろう。











健康診断 異常あり

2022年11月25日 06時11分26秒 | 病気と健康
 健康診断から1か月以上たったが結果がなかなか送られてこない
妹夫婦に話したら「それは何も異常がないから、すぐ検査が必要な人から優先的に送ってくる」と笑い飛ばした。
「なるほど、それは一理ある」と納得
この歳まで入院と言ったら「盲腸」だけ、血圧も120前後だし、健康には自信がある、
  過去にさかのぼって自分が健康診断や医者に言われたことを思い出すと「心臓に不整脈らしき気があるようだ」「白内障の気があるが当分は大丈夫」この二つを20年くらい前に言われた、が・・今日まで何もなかった。
最近は視力はよろしくないので、来年あたりは検査するかもしれない
で、今回は心電図で引っかかった、「不完全右脚ブロック」の所見
なんだこりゃ? 右足を出してみたが? 最近は良く歩けるし、以前正座ができない時期があったが今は平気で正座ができるようになった。
調べてみた 右脚と言うのは足ではなく心臓内部の血管のことだった
それの血流が慢性か一時的かわからないが流れが悪いということだ。
検査ではコンマ何%~1%くらいの割合で出るという、慢性的あるいは以前より心臓に問題なければ一時的な結果であることが多いから、それほど深刻にならずに再検査するようにと言うことのようだ。

 だが父も晩年は心房微細動の不整脈で検査入院したりしたことがある、結局それは知らぬ間に終わったが。
ともあれ、近くかかりつけに相談してみようと思うが、インフルエンザ注射、肺炎球菌注射とかもしたいし、4回目コロナは???だが検討事項であるし
70過ぎると何かと医者は必要になるようだ。

 

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 73 お気に入り光秀 

2022年11月24日 17時04分43秒 | 貧乏太閤記
 明智光秀は京の常駐を命じられて、朝廷や寺社相手に動いて居た
織田家臣団で一番の教養人と言えば長岡藤孝であろう、そして朝廷相手の一番の外交官と言えば明智光秀だ
この二人の因縁は深い、越前で足利義昭を真ん中に二人は出会った、そして光秀も義昭のために奔走した
やがて二人は義昭を見限って信長の家臣になった、共に信長に重宝されて、今は国持大名になっている
二年前には藤孝の嫡男忠興と、光秀の娘,珠が結婚して二人は親戚になった
両者の縁は深まるばかりである。 藤孝は歌に優れ、その弟子は朝廷にも多い、そんな関係で関白にまで認められて朝廷にも頻繁に出入りし、帝にも目通りを許されて謡ったこともある。
そんなことで、藤孝によって光秀も朝廷の公家衆と面識ができた
ある時、光秀は関白に呼び出された、何事かと緊張して出向いた
「日向守殿、そなたは織田殿の腹心で目をかけられていると聞いたが真であろうか」
「ははー たしかに天主様には何かとご恩をいただいておりまする」
「それそれじゃ、その『天主様』じゃよ、御神(天皇)をもないがしろにするような物言いでおじゃる、御神も憂いておられるのじゃ、あまりにも織田殿が南蛮人に傾倒しておることにな」
「ははー」
「このままでは神武天皇以来続く神国であるこの国が、南蛮教徒に乗っ取られるのではないか、織田殿がその走狗(そうぐ)になるのではないかと危ぶまれておられる、日向殿の息女さえ南蛮教の信徒になられたとか」
細川忠興に嫁いだ珠も熱心なキリスト教徒になっていたのである、それに導いたのは高山右近であった。
「申し訳ありませぬ、某(それがし)の手抜かりでござりまする」
「このまま見過ごすことはできませんぞ、早々に畿内から南蛮人や南蛮教を排除するよう織田殿にそなたから伝えてもらいたい」
「それは・・・」
「できぬと申されるか、そなたは武家と御神、どちらが尊いと思っておるのか」
「もちろん、帝にございます」
「それならば、御神の言葉を信長に伝えよ」
「ははー」
とはいえ、光秀は困った、とんでもない難題である、これより凡そ300年後に、同じようなことが起こるとは光秀が知る由もない
江戸時代の末期の攘夷がそれである、大の異人嫌いの孝明天皇が徳川幕府に攘夷(外国人排斥)を命じて、それが明治維新へと発展していった。

  光秀は同じようなことを佐久間が信長に直訴したことで罷免されたことを噂で聞いている、だからとても信長には言えない
光秀は板挟みになって困った、ほおっておいたが、またしても「どうなった」かと催促された、いよいよ窮した光秀は意を決して信長を訪ねた

「いかがした急な用件とは」
信長は退屈気に池を泳ぐ鯉に餌をやっていたが光秀をみると縁側に腰かけて、光秀を招いた、光秀が立っていると
「そなたもかけよ」と促された、互いの顔を見ることができず、池の方を見ながら話すのも気が引けたが
「実は関白様に呼ばれまして」「うむ」
「恐れ多いことでございますが、天主様のことについて『主に伝えよ』と」
「うむ なんじゃ」
光秀は緊張して、生唾を飲み込んでから
「まことに言いにくいのですが、『天子様(帝)と天主様、まことに紛らわしき言い方ゆえ天主様には一歩譲って、天主様の呼び方を控えてもらえぬか』と」
しばし間があった、その間が恐ろしい、たちまち癇癪を起こすことは良くある
信長が口を開いた
「うむ そのようなことであるか、ならば今まで通りお屋形にもどすか」
「ええー?」光秀は絶句した
「ロドリゲスが、そう申すから皆に申したが、儂も天主堂は良いとして、われを天主と言うのは、いささかむず痒い感じがしたのじゃ、帝のおっしゃることには逆らえぬ、光秀、そなたの名前で皆に今のことを伝えよ、明日から儂のことは今まで通り『お屋形』でよいぞ」
「ははぁ、早速にそういたしまする」
「それより光秀、先般筑前を中国方面軍団長に命じたが、そなたにも役を与える、塙直政を山城守護にしておったがあえなく討ち死にして空白になっておった、守護はそのまま空白としておくが、それに等しい役目をそなたに与える、丹波亀山城を居城として、丹波、山城を本貫に大和衆、丹後衆を与力とせよ、戦はそなたが直接たたかう敵はないが、羽柴、柴田、信忠の後詰、そして儂の出陣には大将として与力せよ。 また日頃は洛中の政務を今まで通り続けよ」
「ははあ、ありがたき幸せもったいないお言葉、忠勤いたしまする」
光秀が与えられたのは直轄領2か国50万石、与力大名2か国である、最大動員数は3万になる。
「光秀よ、そなたと秀吉、滝川の近年の働きは抜群である、そなたらが競って働けば、この国の平定が早くなる、儂の気持ちはすでにルソンからタイ、明国へと飛んでいるのじゃ、早く儂に広い世界を見させてほしいものじゃ、励め!」
光秀は追放覚悟で具申したが、あまりにも簡単に信長が受け入れたので驚いた、そのうえ畿内の守護に匹敵する役目まで与えられた
信長に対する忠誠心が深まった、(儂は、このお屋形に命をささげることができる)、秀吉が信長に持っている気持ちと全く同じであった。

 秀吉は姫路城に戻っている、黒田官兵衛はかなり回復しているが片足はもはや役に立たない、杖を頼りに歩くしかない
今もまだ都の名医のもとでリハビリ中である、秀吉は半兵衛を失い、官兵衛も傍にいないので話し相手に不自由して退屈していた
そこに、「殿! 秀長さまが見えられました」家臣が伝えた
「おお、秀長、ちょうど退屈していたところじゃ」
「兄者、珍しい御仁をお連れしましたぞ」
「ほう? 誰であろう」
「どうぞ、お入りなされ」秀長が呼びかけると、入ってきたのは山名豊国であった
「これはまた珍しや、さあさ、こちらへどうぞ」
山名豊国は先般、秀吉が進軍した敵方、因幡の鳥取城主であった
豊国は戦わずして、あっさり降参した、秀吉は喜んで「われらにお味方くだされば、この城を接収しませぬ」と言って、豊国に城を安堵して帰国したのだった、その豊国がやって来た。
「面目ござらぬ」と豊国が言った
山名豊国は、かって応仁の大乱の一方の旗頭だった山名宗全の一族である
宗全は中国地方6か国の守護を兼ねた大大名だったが、豊国の時代になると因幡をようやく保つほど落ちぶれていた。

「何と申された?」秀吉は不審におもって聞いた
「兄者、山名さまは鳥取城から逃げてきたのじゃよ」
「なんと!いかがなされた」
「実は、筑前殿が戻られた後、家老たちが儂ににじり寄って『なぜ、織田に降ったのか、長年の毛利様への御恩を忘れたか』と迫り居る、儂は『いまや時勢は織田家に傾いた、お家大事であれば織田家につくことが肝要じゃ』と申したが納得せず、儂を押し込めてでも毛利に味方するという、場合によれば殺される危機も出て来たので、闇夜に紛れて腹心の家来と共に竹田城まで逃げたのでござる、どうか城を取り返していただきますよう、恥ずかしながらやってまいった次第でござる」

 秀吉は3月、2万ほどの軍を率いて備中に侵攻した、備前(岡山)の宇喜多勢も共に出陣しているが、総大将の宇喜多直家はいよいよ病が重くなり城中にとどまっている
秀吉は預かっていた嫡男八郎を元服させて、自分の名の一字を与え、宇喜多秀家と名乗らせ、岡山城に帰した。
その時、秀吉は初めて直家の奥方「ふく」に会った
秀吉好みの、ふっくらとした美人であった、まだ30代らしい、直家とはかなり歳が離れている
直家も気が付いたのか、秀吉が見舞いに来るとそっと耳元で言った
「某の命尽きた時は、秀家とふくの面倒を筑前殿に見ていただきたい」
秀吉はドキッとして唾を飲み込んだ
「いかにも、いかにも儂が良きようにいたす、あとのことは心配なさるな、安心して休むがよい」
翌年早くに直家は死んだ、葬儀と49日を済ますと秀吉は秀家を岡山城に残し、ふくは姫路城に住まわせて戦場に疲れると姫路に戻り、しばしの逢瀬を楽しんんだ、現地妻として、ふくは申し分なく秀吉を癒してくれた。

 その備中である、備前と備中の国境に近い備中高松城は毛利の国人の中でも勇将として名高い、清水宗治(しみずむねはる)が守っている
立地と兵数、城の堅固さ、宗治の力量と城兵の士気などを推し量ると、この城が容易には落ちないことが一目でわかった
さりとて毛利の本拠地も近く、立地を見れば兵糧攻めも難しい、しばし官兵衛と戦略を練ったが、暇にもしていられないので姫路と備中の間の山道を整備させることにした
ヒントは武田信玄が甲府と信濃の間に作った「棒道」であった、それは今で言えば高速道路で騎馬軍団が並列して駆け抜けることができる規模である。
いずれ信長に出陣を頼むつもりなのである、それと内心、姫路のふくに少しでも早く会えるようにと言う下心もなくはなかったようだ
ところが、道路整備のそれが後日幸いすることになる。

 毛利の重臣に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)という僧形の武将がいる、主に毛利家の外交を引き受けており、交渉に長けている温和な人である
秀吉は宇喜多直家から安国寺を引き合わせてもらい、以後和平の道を探っているが、毛利には毛利のプライドもあり、なかなか進展しない
毛利三家、毛利元就の長男隆元(元就に先立って病死、子の輝元が継いでいる)毛利本家と次男隆景(たかかげ=小早川家を継ぐ)、三男元春(もとはる=吉川家を継ぐ)は元就の教訓を守り仲良く力を合わせている、特に本家の長男が早世したので、後を継いだ輝元を叔父の二人がしっかり補佐して毛利家を守って来た。
輝元は凡庸だが本家らしい大らかさがある、小早川隆景は心広く人心の掌握に優れて温和な気質である、吉川元春は気性激しく戦闘的だが隆景には頭が上がらない。
因みに今相撲界の人気力士、若隆景、若元春、幕下の長男、若隆元の三兄弟のしこ名は毛利三兄弟からもらったようだ、また大関貴景勝は上杉景勝からもらったらしい(貴景勝が上杉景勝のファンだとかどこかで聞いた気がする)

そんなわけで秀吉はなんとか小早川隆景を掌中にしたいと考えている。
毛利が好戦的でないと言っても、奥に行くほど毛利の抵抗は強まるから早くても5年、下手をすれば10年以上かかる、その間に何が起こるかわからない戦国の世である、できれば平和裏に早く終わらせたいと思っている
毛利と北条が従えば、もはやこの国に織田の敵は居なくなる、そうすれば足利義満以来の統一日本が訪れる。





大金星 日本! ドイツを破る

2022年11月24日 00時15分46秒 | サッカー J1 J2
誰だか「期待を込めて2-1で日本の勝利」と昨日、テレビで言っていた
その通りになった。
前半0-2になったところで「やっぱりだめだ、レベルが違う」とあきらめてテレビを消した。 前半はやられっぱなしだった
しかし「2点目はオフサイドじゃないか」という気はしていた
しばらくたってまたテレビをつけたら、後半何分かだったが得点は0-1に代わっていた、「やっぱりオフサイドだった」と見る気が出た。
そして堂安、浅野が決めた 得点の度に私は声を上げた
コスタリカに勝って、勝ち点6上げればベスト16が見えてくる、「がんばれ!」
スペイン、ドイツが居る「死の組」で勝ち抜け出来たら「こりゃえらいこっちゃ」
今夜のワインはうまい!

「俺しかいないと思っていた!」堂安

浅野


しかしキーパー権田、猛攻を何発も良く守った
後半のスタミナと強気の攻撃、素晴らしかった
サウジが優勝候補アルゼンチンを破った大金星に続き
アジア勢の活躍が目立つ

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 72 佐久間親子追放 

2022年11月23日 17時03分01秒 | 貧乏太閤記
 頑固者と言えば、本願寺の受け取りに失敗した総大将佐久間信盛もそうだった
信長は最後まで仕事をやり遂げず、このような事態を起こしたのは信盛だと、二条城に呼びつけて叱責した
ところが佐久間は、「10年にもわたり、某が苦労を重ねてようやく開城したのでござる、いかほどの苦労だったか褒められても叱られるいわれはありませぬ」と口答えした、それでも信長は老臣ゆえ耐えて聞いていた、すると
「そもそもお屋形様は・・」
「佐久間殿、天主さまでありますぞ」と森蘭丸が言うと
「無礼者! こざかしい若造が何様のつもりじゃ、わしはお屋形様に諫言申し上げているのだ、だまらっしゃい」
「無礼とは、どちらでござるか」詰め寄ろうとする蘭丸を信長は制止して
「続けるがよい」
「はは、天主などと南蛮人にかぶれていかがいたしますか、我が国には我が国の神道もあれば仏教もござる、それなのに寺社をないがしろにして洛中まで南蛮寺を作らせて、ようも平気でおられまするなあ、帝も朝廷も腹の底では泣いておりまするぞ、家中の心あるものも怒っております、高山右近などデウス教にかぶれる馬鹿者さえ出てきて、この国はいったいどうなりましょうや、この前のお屋形様の南蛮の装いを見て、情けなくて涙が出ましたぞ」
「いうことはそれだけか、佐久間」
「いえ。まだ・・・」と言いながら信長の目を見た
佐久間はぞっとした、悪魔の目とはこれなのかと思った、背筋が凍った
そして何も言えなくなった
「帰るがよい、ひと月以内に本願寺を接収せよ、できぬ時は覚悟を決めよ」

 その翌日、今度は信長の背筋が凍ることが起こった
それは秀吉が満面の笑顔で訪れて話し始めた時であった
「天主様、お喜びください」「おお、いつ戻ったいったい何事じゃ」
「黒田官兵衛が生きておりましたぞ、なんと伊丹城の地下の狭い水牢で、溜水と藻と昆虫を食べて生きておりました」
「なんと、水牢じゃと」
「はい、高さは4尺ほど、幅も一間×一間の岩に囲まれた湿気だらけの暗い牢でありました」
「それでは裏切りではなく、捕えられていたのか」
「そうです、もう少し長引けば命はなかったかと」
「そうかすまぬ、わしが・・・」
「いえそうではありませぬ、あまりにも官兵衛が軽はずみであった故、叱っておきました」
「取り返しがつかぬ、儂は官兵衛の息子を罪もないのに殺してしまった」
「ご安心ください、息子の松壽丸は生きております、儂が天主様の命に背いて寺に預けて僧として匿いました、どうか拙者をお手討ちにしてくださいませ」
「なんと!生きて居ったか 手討ちなどバカを申すな、誰がそのようなことをできるのだ、筑前この通りじゃ、お前にいくら感謝してもしきれぬ、おかげで官兵衛に顔向けができる」
「なんともったいない、お顔を、お顔を上げてくださいませ」
「官兵衛には都にて名医をつける故、こちらに運んでまいれ、そしてすぐにも息子に会わせてやれ」
「ははあ、早速に手配をいたします」

 しかし官兵衛が監禁されている間に秀吉にとって起こった痛恨事、竹中半兵衛の病死である
以前より寝込むことが多くなり、秀吉は戦場を離れてゆっくり養生せよと言ったが半兵衛は「拙者は畳の上では死なぬと決めております、いくさばで死ぬれば本望でござる」そういって戦場から離れず、ついにそこで死んだ
救い出された官兵衛にも伝えた、信長の命に背き、官兵衛の息子の松壽丸の命を救ったのが半兵衛だと聞かされると官兵衛は人目はばからず大声で泣いたという
「わしは自分が天才策士とうぬぼれていたが、半兵衛様の前では大人と子供ほども差があった、ずいぶんといろいろ教えられた、これからは儂が半兵衛さまに変わって殿様をお助けしなくてはならない」

各地の戦線が織田に有利なまま停滞している
何といっても信長本人が戦に飽きてきたことが大きい、今、日本で盛んに戦が行われているのは九州と奥州であろう、それ以外は織田と国境を接する者が多いから織田が動かねば戦線も動かない
秀吉はじめ、織田の指揮官も多くは安土城内の屋敷に戻っている
 ようやく8月になって本願寺問題は解決した、教如が再三の説得に応じてようやく石山を去ったのだ、ところが織田家臣が本願寺に入ってみて驚いた
伽藍の所々が憂さ晴らしのように破壊されていたのだ
当然、信長は怒った、そのままの姿で引き渡す約束になっていたからだ
しかし教如は既にいずこへ去ってわからなかった
、割を食ったのは蓮如であった、教如が余計なことをしなければ新天地での寺院建立を全額織田家もちでする約束が、教如の違反で無くなってしまったのだ。

 そのようなことがあって間もなく佐久間信盛のもとに上使(信長の使者)が訪れた、親子共にかしこまって上意を受けるようにとの沙汰である
使者は佐久間信盛の不手際や不忠を、古いことでは何十年も前のことまで読み上げた、そして地位も財産もすべて取り上げて高野山への追放を命じたのである、一切弁解は聞かず、即刻立ち退きを命じたので裸同然で織田家から追放された、このことは信長の近年の奇行を批判していた家臣を黙らせるには充分であった。 織田家の一二の地位にある古参の家臣を信長は簡単に切り捨ててしまったのだ。

「佐久間は信秀様からの古参であることを鼻にかけて、天主様が自分に遠慮があると勘違いしていたのだ、それでいい過ぎて逆鱗に触れた、それだけのことである」秀吉は長浜に束の間戻って留守居の浅野長政に語った
長政の妻は、秀吉の妻ねねの妹だから、二人は義兄弟と言うことになる
長政は34歳まだ中堅の武士であるが、秀吉は将来自分を支えるものとして手ごたえを感じている。
戦場にある姫路城に比べて、ここ長浜城は風光明媚であるし周辺には戦の匂いが全くしない、久しぶりに緊張感がほぐれて気持ち良い
信長が言うように、この国から戦が無くなれば毎日がこうなるのか、だが「これではいかん」と思う、そうなれば朝倉や今川と同じになって、また新たな戦好きの餌食にされてしまう、やはり武士である以上、虎となって毎日爪を研いでいなければならぬと思うのだった。
そう思うと戦場を世界に広げようとしている信長には尊敬の念がわいてくる、本願寺との戦も無くなり、信長が臣従を求めるのはどの大名なのか、考えてみた。
まずは力の衰えが著しい越後の上杉、信濃と甲斐の武田、徳川は同盟者であり北条は信長と戦う気はないであろう、そうなればその先の佐竹か、あとは四国の貧しい大名たち、これはすぐにも臣従するだろう、やはり難敵は毛利だ、九州は北半分は既に同盟者になっていて、残るは日向の伊東、薩摩の島津くらいか
ずいぶんと大名の数も減った気がする、それはそうだこの20年で弱者は滅ぶか強者に吸収されたのから
こう考えると、もはや敵対するのは毛利だけとも思える、武田さえも信長に尻尾を振ってきたのだという、だが信長は武田勝頼を生かしておかないだろう、抵抗しそうな大名への見せしめにする気なのだ。
毛利を制すれば島津も抵抗を止めるはずだ、案外日本の平定は近いかもしれない、織田家の領地は既に、越中半国、加賀、能登、越前、若狭、丹後、丹波、但馬、近江。山城、伊勢、美濃、尾張、摂津、河内、和泉、播磨、大和の17か国半にもなっている、その石高たるや600万石にもなる
これに徳川、宇喜多の同盟者のものも加えれば国内の半分を占めたようなものだ、織田家独自の兵の動員可能数も20万になる。
しかも南蛮渡来の大砲、鉄砲、鉄甲船と日本で最も進んだ兵装だから向かうところ敵なしだ、これで武田を滅ぼせば、信濃、甲斐、飛騨、駿河も手に入ってくる、それから上杉を滅ぼす、また越後と越中と佐渡の完全支配となる
こうなれば毛利も佐竹も屈するしかあるまい、奥羽については全く敵にならぬであろう。








3年ぶりに友と会う

2022年11月23日 09時21分17秒 | yottin日記
昨夕は3年ぶりにA町のボランティア仲間Dさんに招かれて、わが町との中間のB市の小料理屋で途切れていた旧交を温めた
向こうからは男3女性1、私は男2と女性3を誘って10人の夕餉となった
もう13年くらい続く年一回のお楽しみなのだ
今回は新しい仲間に真宗大谷派の僧侶も加わった、御堂で子ども食堂のボランティアを定期的に行っているのだそうだ。
6時から9時までたっぷりおいしい料理をいただき、私も久しぶりに初めから終わりまで熱燗をいただいた。
帰りの電車の中で、これまたE町の連中に会って、下りるまでの小一時間話に花が咲いた
なんか懐かしい人たちに一度にあえて、ちょっとおしゃべりすぎたかな?







空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 71 対本願寺10年戦争終結

2022年11月22日 22時42分29秒 | 貧乏太閤記
 驚くも何もない、信長の姿は未だかって誰も見たことがないものだったからだ、ただスペイン人たちだけは家臣の驚く様を見て笑っている
「みなのもの、これが南蛮人の甲冑である、まことに丈夫で動きやすくできておる、佐久間着てみるか?」
いきなり名指しされて、この保守的な男は慌てた「と とんでもありませぬ、拙者には無用でござります」
「ははは、頭の固い老人には無理であろう」
「なんと、ご無体な」と言う佐久間を無視して信長はつづけた
「外を見よ」指さした方には黄金色の天守が光っている
「ユーロペには大小30もの国があるという、それぞれの国に帝がいるという、だがユーロペの国は、我が日本二百余州に散らばる国とはわけが違う、ユーロペの国とは小さな国でも、この日の本すべての広さに匹敵するそうじゃ」
「なんと!」座がざわめいた
そして、それぞれに帝がいる30余国の上に、法王と呼ばれる天子がおるそうじゃ、その者は神デウスの代理人で誰も侵すことができないという
そして、法王が祈りをささげる場所を天主堂と言う、そうじゃなロドリゲスよ」  ロドリゲスがうなずく
「よって、余もあの金色の塔を天守と名付けた、そして儂も今日より神の代理人である法王となる、皆はこれより、余のことを「天主様」と呼ぶのだ、今後わが家臣で許されて城を築く者は、すべて三層の天守を築くことを許す、そこに上って毎日安土を拝むのだ、改修に際しても許す、他国の大名と織田家の違いを世の者すべて知らしめようぞ」
「よいか、日の本の戦は早々に無くすのだ、二百余州の大名に余に従うよう働きかける、それに従わないものは攻め滅ぼす、そしてこの国の大名すべてを動員して明国まで押し出すのだ
明国は今、乱れておるという、われらが20万の軍を持ってスペインと共に攻め込めばいかに明国が大きくともわれらに従わざるを得ないのだ、よいかこの小さな島の中で勝った負けたという時代は終わりじゃ、大船を作って遥か南まで進んで交易をするのじゃ、これまでとは問題にならぬほど国が富む、どうじゃわかったか」
「ははーぁ」一同揃って平伏した、しかし佐久間をはじめ多くの者が腹の中で(お屋形様はどうされたのじゃ?気が狂ったのか?)と思った。
さすがに光秀となると(お屋形様は南蛮人に感化されて誇大妄想の癖が出たのではないか、南蛮人には気を付けねばなるまい)と警戒した。
しかし秀吉は違う、壮大な夢物語を聞かされて感動した(これはまた、お屋形様は二回りも三回りも大きゅうなられた、南蛮人相手の交易と言い、大船構想と言い、明国征服といいい、どれもこれも壮大な素晴らしいお考えじゃ、儂などには想像もつかなんだ、これはますます働き甲斐がでてきたわ)
徳川家康の腹のうちはいかに?、歳を経て家康はますますその口が重くなっている。

9月、各地で動きがあった
前にも述べたが光秀が攻めていた丹後の守護、一色氏(いっしき)が織田に恭順した
同じころ、伊勢では手柄を焦った織田信雄が伊賀に攻め込んで、なんと大敗を喫して、信長は激怒、勘当されるところであった
 何よりも大きい出来事は、荒木村重が家族家臣を有岡城に置き去りにして、わずかな家臣と包囲を潜り抜けて、尼崎城に脱出したことである
それからも二か月間家臣たちは織田の猛攻に耐えたがついに兵糧尽きて降参した
だが、信長は許さず、城兵から女中までことごとく首を刎ねて皆殺しにし、村重の妻子は磔にして殺し晒して、村重に見せしめとした。
これで邪魔なのは三木城だけとなったが、これもまた飢餓に苦しんで開城まじかであった。
城主別所長治の叔父らが何とか動ける城兵を率いて、苦し紛れの奇襲を敢行したが、秀吉は備えていた、そして一気にこれらを殲滅させたので落城が早まった。
 それから使者を送って降伏を促すと、戦う気力もうせて動くこともできない衰弱者ばかりであったから、交渉はたちまち成立した
 城主長治と一族の代表が切腹して、城を明け渡した、外に出てから安堵したのか死ぬ兵が多かったが、秀吉の軍はほとんど犠牲を払わずに三木城を落したのであった、天正8年(1580)正月であった。
この時、織田信長46歳、秀吉43歳、光秀52歳、徳川家康37歳、柴田勝家50歳、佐久間信盛52歳である

 信長の日本国統一の目玉であった「話し合いによる信長への臣従作戦」は各地で実行された。
三木城の別所氏は抵抗期間が長く、毛利家の被官であったからこれは切腹開城となったが、荒木村重の謀反は最初から原因がよくわからないこともあり、信長も村重を許して城だけ接収する気でいたのだ、過去にも松永久秀を二度も許している信長だ、ところが置き去りにされた村重の家臣代表と滝川一益の間で降伏調印がされたにもかかわらず、一人尼崎城に逃げ出した村重は降参しなかった、そのために多くの命が奪われたのであった。
また美作では宇喜多が単独で攻めて、いくつかの城を開城させた。秀吉も遠く因幡(いなば)まで攻め上って、鳥取城の山名豊国を交渉だけで降伏させて、城は任せたまま戻った。

 信長にとって「和平作戦」が成功した最大の成果は本願寺であった、10年にもわたる長い戦いは、信長の厭戦気分と海外への目移りで簡単に解決した。
和平条件は本願寺と石山の現状のまま譲り渡し、その一点だけだった
兵糧も武器も尽きかけ、周囲は織田軍ばかりになり、毛利の支援も受けられなくなった本願寺顕如にとって渡りに船であった
武家のように城主の切腹に代えて、などと信長は言わない、顕如および共に去っていく者たちの身の安全も保証した、4月顕如は石山を去って紀州に向かった。
ところがである、顕如が去ったあと寺を受け取りに織田の兵が行くと、門は堅く閉じて矢を射かけて来た
なんと顕如の息子、教如(きょうにょ)が降伏を拒んで閉じこもったのだった
もはや顕如のあずかり知らぬことである。
それにしても相次ぐ反織田勢力の衰退をもっとも憂いたのは毛利領、鞆(とも)で鞆幕府を自称して暗躍していた足利義昭であった
「ううむ、どいつもこいつも頼りない、もはや頼るのは九州大名だけなのか」

教如の反乱を聞いた秀長は
「これでは昔、兄者から聞いた、大国主とその息子のタケなんとやらの話そっくりじゃのう、あがいても無駄じゃというに、いつの世も未練タラタラの頑固者は居るものじゃ」秀長の言葉で秀吉は頑固一徹な佐久間信盛の顔が浮かんだ










月日の経つのは早い

2022年11月22日 09時49分15秒 | ライフスタイル
 世間では「コロナだ」「世界戦争だ」「核戦争だ」「ワールドカップだ」と様々に騒いでいるが、自分の日常は物価高に嫌な気分を感じる以外、なにも変わらない毎日。
 引っ越して7か月がたった、DIYなどで少しずつ住居らしさを取り戻しつつあるが、まだまだである。
それでも少しずつ家の中が明るくきれいになって行くのは楽しい、なにしろ築60年はたった家だから、所々に古臭さが見える
いずれこれもカラフルに換えていくつもりだ、金をかけずに人力で。
家の造りは大工さんが自分のために建てた家だから問題ないが、昔は沼田だったらしい地盤が問題で、我が家の通りの家はことごとく傾斜があるか、それを直すために地盤改良に金をかけている。
 ともあれ、新たな家を求める余裕は私の残りの人生の中では無理が決定したから、これで我慢するしかない。
家自体はまずまずの広さだから工夫して暮らせば、どうにかなるだろう
今は家の中に花をあちらこちらに飾り、家の中じゅう風が巡るような工夫をしている、エアコンの風と違い、自然の風は味も香りも違う。
我が家の後ろ半分は隣家と小庭同士がつながっているだけで自然が見える、南側は開けていて低い丘陵地帯の森に続いているから、以前住んでいた家より自然環境は良い。縁側に半日、日が差すのが良い。
以前の家は小庭さえなかったから、今の家は花を育てる楽しみがある
老後の住まいには悪くない、この先どうなるか?
私の人生そのものが確定していないので何とも言えないが、考えても仕方ないことは考えない、「一日一番に集中します」のお相撲さんじゃないが「一日一日を有意義に過ごす」ことが大事だと思う。




空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 70 徳川信康切腹

2022年11月21日 18時48分17秒 | 貧乏太閤記
 秀吉の正月は吉報が舞い込んだ、なんと宇喜多直家が自ら秀吉の居城、姫路城に密かにやってきたのだ
しかも6歳の嫡男八郎を連れてきて人質に差し出した、秀吉は大いに喜び本領安堵を約束した、そして八郎を長浜に送り、ねねに預けて「わが子のように育てよ」と言った。
この八郎は後に岡山60万石の大身となり豊臣5大老の一人となる宇喜多秀家である。
これを聞いた直家は喜び、戦国を逞しく生きた梟雄(きょうゆう=策謀を得意として裏切りや反逆を繰り返して出世した武将)らしくない真顔になって涙を流して
「筑前殿、儂はこのように見えるが実は死病に罹っておるのじゃよ、もってもあと3年が良いところであろう、医師にも見放されたわ、心残りは八郎が幼いことである、儂が死ねばこの戦国の中で生き抜くのは難しいであろう、儂の兄弟は儂と違い真面目なものばかりじゃよ、だが岡山30万石を守るには力が足りませぬ、八郎を筑前殿のお子として育てていただければ、そして元服の暁には宇喜多を継がせてもらい後援してもらえば安心して死ぬることができる、儂は織田家と筑前殿に我が家の命運をお任せしたい」と言った
秀吉は直家の手をしっかり握りしめて「お任せくだされ、安心してくだされ、儂が必ず八郎を立派な宇喜多の後継ぎといたしますぞ」
「かたじけない、儂もこれでいつ死んでも良い」
「バカなことを申すではない、気力でござるよ、気力を持てばそなたなら100までも生きられよう」
こうして備前の半分が織田家の勢力範囲に入った、しかも宇喜多は1万近く動員できる強力な味方となる、信長にとっても良いお年玉になったのだ。
宇喜多軍は5月に美作の毛利方の城を攻め落として秀吉に献上した、これで明らかに毛利との手切れを宣言したことになる。

 そんな頃、徳川家康の嫡男信康に嫁いでいた信長の娘、徳姫が帰って来た
すでに理由は家康から信長に伝えられていた
摂津に出向いていた信長は秀吉と佐久間信盛に「家康め、思い切ったことをしたものじゃ」と独り言のように言った
「何事でございますか?」佐久間が訪ねると
「うーむ うーむ、わしに気兼ねをしたのか?」とわからぬ言葉をつぶやく
「どうされました? 何があったので」佐久間が再度聞いた
「三河(家康)が徳姫を返してよこした」
「なんですと、裏切りですか!」
「違う 違う違う! その反対じゃ、せがれの信康を殺したそうじゃ」
「うえー」素っ頓狂な声を上げた「これ! 慎め!」信長が諌めた
「文によれば、『信康に謀反の疑いあり』とのことである」
「それはまた、何故に?」「知らぬ」
その後の使いで全容がわかって来た
 徳川家康は少年時代から今川の人質となって駿府で暮らし、そこで元服して今川の武将となった
そして今川の重臣、関口某(なにがし)の娘を娶ったが、これが我儘で気位が高く、いつでも家康を下に見ていた、それは家康が独立して大名となった後でも続いたので、家康もうっとおしくなって岡崎城を嫡男信康に渡し、ついでに妻の築山も岡崎城に置いて、自分は浜松城に入ったのだった。
 やがて信康は信長の娘、徳姫を娶った、夫婦仲は良かったが、築山はいつもの調子で徳姫に何かとつらく当たる
そのため徳姫と警固の武士が、築山に一泡吹かせようと粗さがしを心掛けていた
築山は主家の今川が、織田に滅ぼされたことで、その娘につらく当たることで腹いせしていた
折も折、武田勝頼の密命を受けて岡崎城に信康の家臣となって潜入していた武士が築山に近づいた。
すぐに築山のお気に入りになって、言われるままに男に徳川の秘密を漏らすようになっていた
信康は、それに気づいたがもう築山がしでかした罪は死を免れないほどになっていた、信康は悩んだが、夫に去られた女の無念にも同情したし、信康にとって母はかけがいのない人だった、それで信康は目をつぶった
そこを間者の男に付け込まれてしまった、だが徳姫と取り巻きはそれを見逃さなかった、時間をかけて調べ上げ、やがて男も捕えて口を割らせた
そして徳姫の名で、信長にありのままを知らせた
信長は直ちに浜松城に遣いを出して、家康に事実を調べるように申し渡した
家康は寝耳に水のこの一件を知らなかったことを恥じ、激怒した
生真面目なことを言えば、家康の右に出る者はいないほどである
直ちに岡崎に遣いを出し「信長公に言われる前に自裁せよ」と切腹をほのめかした、築山には浜松に出てくるよう申し渡した
己を恥じた信康は潔く腹を切った、まだ20歳であった、築山は道中の途中で家康に命じられた刺客によって惨殺された。
そして始末が終わった旨を信長に知らせてきたのだった
落ち度のない嫡男、家中でも評判が良く、家康の後継者として不足がない資質を持っていた、それを失うことになった家康の胸中は誰にも計り知れない。
世間では「信長が自分の息子の信忠よりも、家康の息子の信康の方が優れていたために、後ち後ちを危ぶんで難癖付けて切腹させたとか、家康が北条と手を結んで織田に反抗するのでは」という噂が立った。
事実、越後の争乱で、武田と北条の同盟が敗れたため、北条は徳川と同盟を結んで、武田、佐竹に対抗する姿勢を見せた。
武田は佐竹、上杉と同盟を結び、関東甲信の相関図は大きく様変わりした。

 ついに安土城の天守閣が完成した、全体の城郭は壮大過ぎてまだまだ工事中の個所はあちらこちらにある
天守は、この頃にはあちこちの城にもあるが、それは天守館といった方が良い、本丸に建てた三階か四階の建造物の最上階を天守というが、それは一階、二階の延長で物見やぐらの役目だ
安土城の天守は物見もできるが、それ自体が美術品と言って良い、とても戦のための物見櫓ではない
そもそも形状が筒形に似せてユーロペの城に似ている、しかもそれは黄金色に輝き反射しているのだ、高さも国内随一である
五層七階の天守なのだそうだ、室内は豪華な狩野派の絵師によってさまざまな空想の珍獣や松竹梅が襖に描かれているとか
 信長は盛大に式典を開催した、今や織田領内深くまで攻め寄せる大名はいない、多くの兵士を敵の前に置いておけば信長がいる京、安土、岐阜は安全地帯である
主だった織田家の重臣、武将、それに朝廷からも帝の代理として関白などが招かれてきた
南蛮商人のロドリゲスやイエズス会の代表者も招かれた、しかしここに招かれた日本の僧侶は信長が特に目をかけた少数しかいない。
大手門から二の丸に続く石畳の参道の左右は広く、主だった武将のための安土屋敷が建てられた、柴田、丹羽、佐久間、明智、林らの宿老、秀吉、滝川、池田、森、堀、前田、徳川家康の屋敷もある
天守下には信長の屋敷、信忠、信雄、信孝ら一門衆の大きな屋敷がある
招かれた者たちは信長の御殿大広間に集められた。
「天主様のおなり~」小姓頭の森蘭丸の甲高い声で居並ぶ50数名は平伏した
(天主様?)誰もが不審に思った
「おもてをあげよ」信長の声も高く野太い、顔を上げた皆が一斉に驚きの声を上げた「おー 何じゃあれは」
「驚いたか」信長が満足そうに言った



大混戦!大相撲後半戦

2022年11月21日 09時48分38秒 | 大相撲
 八百長はもちろん、無気力相撲が協会の強い意志で禁じられて以後、この数年若手を中心に本気相撲の熱戦が増えて、相撲が面白くなった。
立った瞬間、勝負がつく相撲は見ていて面白くない、貴景勝や阿炎、高安のような激しい突っ張り合い、若隆景、若元春、豊昇龍、霧馬山のような、がっぷり四つでの技の掛け合いはたまらなく面白い。
 一人一人を見ると、どれも1敗、2敗で優勝できそうに思えるが、そんな力士が充満しているから結局5分5分の成績になる、それくらい実力が伯仲している
だから優勝した力士が翌場所は負け越すパターンがお決まりになっている、横綱、大関が優勝できないのも同じ理由だが、今は関脇以下が大関より強いとはっきり言える。
 変な言い方すれば、大関は弱くても1場所おきに8勝7敗の成績が続く限り、大関の給料は引退までもらえることになる。
過去の大関は八百長もあったのだろうが、今の大関みたいに1場所おきにカド番を何度も続けることはなかったと思う
今の大関は銀星配給係に落ちてしまった、大盤振る舞いだから、もう希少価値はない円安同様、価値感が落ちている
大関破って「おめでとうございます」なんてインタビュールームで言われても、勝った平幕力士の顔が迷惑そうに見える、優勝を争っている横綱、大関に勝った時だけでいいのじゃないかと思う。
昔は9勝6敗の大関は「くんろく大関」と軽蔑されたが、今は9勝したら褒められる成績だ、1年6場所合計で優勝1回、55勝以上できなければ自ら大関返上した方がかっこいいかも。ちなみに貴景勝は最近6場所50勝29敗11休 準優勝2回、正代は43勝47敗 御嶽海47勝35敗8休 優勝1回、正代は大負けしても休場しないのは立派だが・・・
先場所は御嶽海が大関陥落、今場所は正代が何度目か忘れたけどカド番、お互い4勝4敗でピンチだ、御嶽海は後半を6勝1敗でいかなければ大関復帰は無くなり、大関復帰の特別ルールも来場所からは無くなる。
正代も4勝3敗以上でなければ大関陥落だ、でもはっきり言って、こんな弱い大関は必要ない
元気な若手のために座をあけ渡した方が面白くなる、今場所は王鵬、琴ノ若の若手大型力士が実力を発揮してきた、まだ下位だから来場所どれだけやれるか楽しみだ。
若手とは言えないが翔猿、阿炎、若隆景、若元春も元気が良い、誰が優勝するか全く予測がつかない戦国時代
こんな中で二場所連続で12勝以上上げる力士が次の大関になるのだろう、それは誰だろうか、フィーバーしても糖尿や骨折などで突然ダメになる力士も多い、阿炎はそれを克服してきたから期待できる。
照ノ富士が一人横綱で、復帰は難しそう、大関は貴景勝だけが力があるだけで、実質ゼロ横綱、一大関と言って良い、これだけ実力者がつぶし合う現状では貴景勝の横綱はあるか疑問だ、ただ彼はまだ若いから気持ち次第で横綱もありえる
こんな中で、大関をクリアして横綱になる候補者は誰か?
私の予想では、王鵬、琴ノ若の大型若手二人、霧馬山、豊昇龍のモンゴル勢、間もなく復帰する朝の山、大化けしたら若元春、この中から出てくるのではないかと思うが、いかがでしょうか?。