
今日、やっと初詣。朝早かったんで、スムーズだったけど、それでも、次から次へと、参拝客は絶えなかった。
鶴岡八幡宮の親分の、石清水八幡宮にも、今回の旅では行ったので、後日報告予定。
お楽しみに。
石清水も、八の字は、鳩が二羽向き合ったデザインなんだよね。
ヨドバシにも寄ったけど、凄い人。三が日は、ゆっくりこたつでなんて死語だね。

高鴨神社からは、ちょうど約1時間に1本の臨時バスの時間がぴったりだったので、隣駅の伏見までバスで移動。
500円で、一日乗り放題のチケットの有効活用。
この伏見の地名も、そのまま京都に残っている。
このバスの時刻表は、通常日のもの。
こちらも、1時間に1本ぐらい。

伏見から、伏見八幡神社へ向かったが、かなりの坂。
途中、桜を見下ろせる望観地があった。もちろん、今は、季節ではないが。

やっと八幡神社にたどり着いた。今から、考えると、まだ序の口だったのだが。
葛木の道コースを紹介した地図には、この八幡神社と、菩提寺は、紹介されているが、敢えてコースには入れていない。
その理由は、後に明らかになった。

やっと神社が見えてきた。

素朴な拝殿。
説明板には、
大和盆地を南から見下ろす景勝の地にある。三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の本殿と一間社(いっけんしゃ)流造の摂社二棟が、本殿を中央にして一段高い基壇上に横一列に並び、群を成す社殿の景観を形成している。
いずれにも後補(こうほ)は、随所に見られるがものの、安土桃山時代の社(やしろ)建築の特徴を残している。奈良県下においてはこの時期の遺構は稀で、意匠や細部様式の変遷を知りうる上でも貴重である。
本殿の身舎(もや)は三間×一間で、木階(きざはし)を正面一間に配置するのみとするのは、扉口(とびらくち)が一口であったときの名残とみられ、内陣も一室で古式である。建物全体に極彩色を施しており、彩食・文様もかなり古式である。内陣から棟札(むなふだ)が発見され、最も古いものは天正(てんしょう)四年(1575)と記される。なお、現行の正面扉の内側には鷹や花の日本画が描かれており、池田雅辰の銘がある。
摂社天児屋根命(あめのこやねのみこと)社本殿(右殿、向かって左)の身舎柱は両取角柱で、他の二社が円柱に対して簡素である。向拝(ごはい)の虹梁形頭貫(こうりょうがたのかしらぬき)先端の木鼻(きばな)の繰形(くりがた)、花や葉などの植物をあしらった彫刻木鼻、身舎組物を舟肘木(ふなひじき)とするのはいずれも大和の特徴をいえ、古式である。
摂社天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)社本殿(左殿、向かって右)は、肘木が、禅宗様であること、向拝(ごはい)桁に反り増しがあること、木鼻に発達した絵様があることから、建立年代は右殿より少し下がる可能性がある。
とある。

手作り感あふれる案内。

そして、伏見八幡の近くにある菩提寺へ。
案内板には、
伏見山菩提院 菩提寺
菩提寺は、奈良時代の高僧・大僧正行基菩薩が留まり、仏法を弘められた。この地に建てられた「菩提院」の跡である。先仁天皇は、仏教興隆の為に、勅して当郡の田三町を、施入せられている。白山の秦澄大法師・高野の弘法大師もこの寺で、参籠修行をされたと伝えている。往時は、伏見寺千軒を称せられ子院三十余坊が並び立っていた。
十一面観音菩薩を本尊としておまつりし、秘仏毘沙門天・仁王さんは、近在の信仰をあつめ、法起菩薩・神変大菩薩等の仏像を存して、諸願成就・諸人快楽を願う寺であるという。
とある。
それにしても、行基様の活躍振りはすごい。

網でうまく撮れなかったが、仁王様。

山門の仁王像は、まずまず迫力あるものの、寺院は、小規模。
案内板によれば、十一面観音菩薩が祀られているというが。