かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

奈良京都 空白を埋める旅その15 石清水神社

2014年01月17日 | Kyoto・Osaka・Shiga ( Japan )

ちょっと長くなっているが、いよいよ?3カ目。



最終日は、朝もはよから、京都郊外の石清水八幡宮へ。
JR奈良から一旦京都へ出て、近鉄で丹波橋へ。そこから、京阪で八幡市駅へ。
大きな神社は、かなりお参りしてきたが、石清水八幡宮には、まだ来れてなかった。
電車だと、ちょっと乗り換えが多い。
いつもお世話になっている、鶴岡八幡宮も、元は、石清水八幡宮だ。
八幡市駅から、歩いても登れるが、男山ケーブルカーが便利。



登ったら、神社の裏手に着くので、そこから、京都市街を見下ろしながら、正面に回り込む。
木津川、宇治川、桂川の三川が合流し淀川になるところにあり、天王山と対峙する場所にあることがわかる。
途中、谷崎潤一郎の記念碑があった。
関東大震災の後、関西に移住し、数多くの名作を残した。



男山には、多くのクスノキがあるが、楠木正成によって建武元年、1334年に植えられたものと伝えられている。樹齢、600~700年の大木だ。



そして、正面に着いた。
ちょうど七五三で、着飾った家族が、多く参拝に訪れていた。



石清水八幡宮は、古くから都の守護、国家鎮護の社として、篤い崇敬を受けてきたという。
中央に、応神天皇、西に比(口偏に羊)大神(ひめおおかみ)(宗像三神を指す)、東に神宮皇后を祀る。
860年、清和天皇の時代、宇佐神宮から勧請され、建立されたという。特に、源氏が武神として信仰し、頼朝は、鎌倉に鶴岡八幡宮が勧請された。
伊勢、加茂と並び、日本三社の一社であり、宇佐神宮と、福岡の宮筥(はこ)宮と共に、日本三大八幡宮の一社でもある。



冬の文化財特別公開ということで、中に入ることができた。
金色の樋があったが、信長が参拝した時に、樋が木造で古かったので、黄金の樋と寄進したという。
また、左甚五郎作とされる猿の浮き彫りがあるが、毎晩、その猿が、悪さをするので、目に釘が刺され、それ以降、猿の悪さは止まったという。目貫の猿と呼ばれている。
重文に指定されている建物だけあって、その彫刻類は、すばらしい。



灯篭が並んでいるが、その奥の塀は、信長塀と呼ばれている。これも、織田信長が1580年に寄進したものという。



この部分だけ、石垣が斜めに切られているが、鬼門封じのためという。牛の角を持ち、虎の毛皮をまとった鬼が来る方向にあたるという。



これは、おがたまの木という。

説明には、

「招霊の木」とも言われ、古くから霊力の宿る御神木として多くの神社にうえられています。その実の形から「神楽鈴」が作られたとの説もあります。※一円硬貨の表面に描かれています。

とある。
なぁるほど。



ということで、参拝が終わり、やはり特別公開中の1991年に見つかった古神像を。
昨年の国立博物館で展示されていたものと、甲乙つけがたいご神像もあり、びっくり。
来年も公開されるかわからないが、一見の価値あり。



ちょっと下りたところに、エジソンの記念碑がある。
説明書きにはこうある。

西暦1879年にトーマス・アルバ・エジソンが灯火の革命ともいえる炭素白熱電球を発明しこの石清水八幡宮境内に生えている竹が電球の命ともいえるフィラメントの材料として最も適していることを知り電球発明の翌年から十数年もの永い間この竹を使ってたくさんの炭素電球を造り世界の人々に伝統のありがたさを知らされました。つまり、この八幡の竹が炭素発熱電球の実用化に大きな役目をつとめたのです。
そこで、1929年に電灯発明50年を記念して世界各国で電灯黄金祭が催された時、日本もこれに加わり記念事情の一つとして電球の発明と切っても切れない関係にあるこの土地に記念碑を建てエジソンの功績を永久に伝え讃えることになったのです。
最初に建てられたのはこの境内北側に続く場所でしたがエジソン彰徳会の手で昭和33年にここに移され更に昭和59年10月に現在の姿に再建されました。

日本の竹とは知っていたが、石清水八幡宮の竹とは知らなかった。
シカゴ時代、フォードミュージーアムで、エジソンの実験室が移築されていたのを、思い出した。



一ツ石。いろいろいい伝えがあるようだが、元は、走馬の出発点だったらしい。



下におりると、下院があるが、時間が押していたので、割愛。



八幡市駅への道は、風情がある。
ということで、石清水八幡宮を満喫。

コメント
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