かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

奈良京都 空白を埋める旅その14 祟道神社・鴨都波神社

2014年01月15日 | Nara ( Japan )


葛城の道を、曲がりなりにも、一通り、制覇して、ちょっと気を抜きながら、御所駅を目指して歩きだしたら、いきなり神社遭遇。
その名も崇道神社。



小さな神社だが、名前からして、いわくのありそうな神社。

説明書きには、祭神は崇道天皇とあり、以下

崇道天皇は、早良親王に与えられた追写である。早良親王は、父、光仁天皇(49代)と母、高野新笠との間に生まれ、兄は桓武天皇(50代)である。はじめ出家したが、父、光仁天皇が即位すると親王となり781年(天応1)、兄、桓武天皇の即位と同時に皇太子となった。桓武天皇にはすでに皇子があったのであるから、おそらく父、光仁天皇の意思によったものであろう。
このため桓武天皇と弟、早良親王との間は、あまり円満でなく、天皇の親任厚い、藤原種継とも人事問題が絡んで不和だったようである。
784年(延暦3)長岡遷都がおこなわれたが、翌年主唱者の藤原種継は暗殺された。
事件の首謀者として、大伴継人、大伴升良や前月病死した大伴家持などがそれぞれ処刑されたが、早良親王も関係者として乙訓寺に幽閉され、自ら食を絶って淡路へ移送される船中で死んだ。
現在の「続日本紀」には関係記事が削られているので詳細は、わからないが藤原氏政権獲得の犠牲者として世人の同情も集ったようである。
そのころ、皇室に種々不幸が起こり悪疫も流行したが、みな早良親王のたたりとして恐れられ、800年に崇道天皇の追写が贈られた。
長岡京が廃止されたおもな理由もこれによる。京都市上京区の御霊神社にまつられている。

追記
奈良時代から平安時代にかけて、不遇の死を遂げ、この世に恨みを残した人々の霊魂、つまり怨霊を恐れる思想がひろまった。とくに偉大な個性をもった人物ほどその崇(たたり)は恐ろしいものとされた。
延歴4年(785)に没した崇道天皇や延喜3年(903)配流地の太宰府で客死した菅原道真がその代表的なものである。

とある。

桓武天皇の弟で、不遇の死を遂げた崇道天皇を祀った神社ということのようだ。
実は、今読んでる本にも、たまたま出てきた。結構有名な話らしい。



この”祟”の字がつく天皇には、何かあると、逆説の日本史でも言ってたっけ。
それにしても、可愛らしい社だ。



御所駅の方にかなり降りてから、ちょっと行ったところに鴨都波神社がある。



しっかりした神社だが、流石に時間も遅くて、人は少なかった。

説明書きには

御祭神 積羽八重事代主神、下照比売命
由緒 本社の御祭神は、古く鴨都波八重事代主神と申し奉り、それは鴨の水辺で折目ごとに祀られる田の神という御神名で、弥生時代の中期初頭、この葛城川の岸辺に鎮め祀ったのに始まる。本社は高鴨社に対して下鴨社ともいい、鴨族の発祥地としたこの地方を治め、全国に分布する鴨社加茂の源である。
御祭神は、宮中八神の一つとして崇拝され、神宮皇后の朝鮮遠征や天武天皇の壬申の乱に御神託を授け給いし神得高き神にて、延喜の制では、名神高き神にて、延喜の制では名神大社に列した古社である。

とある。

ここでスタンプをいただいて、葛城道制覇(一言主神社と二箇所だけなんだけどね)ということで、応募したら、せんと君のバッジがもらえたよ!あんがと。



こちらは農業の神様を祀った社。



稲荷神社も併設。



ということで、どうにかホテルに戻って、楽天のゲームをTV観戦したら、見事勝利。ということで、盛り上がった奈良の夜だった。
葛城の道を、どうにか巡れてよかった。
コメント
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