《風のように人生を通り過ぎていく、その5》
《その4「今日は良い日だね、その1」》の続きです。
親の死に立ち会えるか否かは、言葉は適切ではありませんが単に運の善し悪しだと言えるのかも知れません。だけど時には何かに導かれたようにそこにたどり着いた私。導かれたのには意味があったのだと、その時を迎えた時私はそうはっきりと思いました。私には私のやるべき仕事があったからです。
だけど間に合わなくてそれを電話で知った妹達はどんな気持ちだったのでしょうか。
その日の夜はドライアイスの害に合わない距離に父と同じ部屋に布団を引いて姉妹で眠りました。その時に私は一番下の妹にその時のことを聞いたのです。
最初、姉から5時まで持たないかもしれないというメールが行きました。その後さほど時間も空かずにポケットの中にあったスマホが鳴った時、妹は「ああ、もしかしたら」と覚悟したのだそうです。姉からの電話でそのことが告げられると、我慢しきれず泣き崩れた妹。その様子に「どうしたの。」と一緒に仕事をしていた人が駆けつけて、理由を話すとすぐに帰って良いことになったのだと言いました。
寝る前に父に線香をあげ二人で祈り始めると、後ろから妹の嗚咽が聞こえて来ました。
ちらりと振り向くと 妹と目が合い、私はウンウンと頷いてまた前を向いて祈りました。
だけど思わず涙が溢れて来ました。それは父を想っての涙ではありませんでした。
目の前にまるで見たかのように妹の姿が浮かんできたのです。
姉からの電話
―今ね、おとうさんが亡くなったの。眠るようだったよ。
妹
―分かった。分かったよ。
我慢したくても溢れだす涙。次の連絡のために一方的に切れる電話。妹はその電話も切ることが出来なくて、溢れる涙も止めることは出来なくて ・・・
ああ、どんなに切なかったことだろう。
※ ※ ※
本当は分かっていたのです。人前では泣くまいとする無用の努力が母の行動をとんちんかんなものにしていたのを。分かっていながら、何度も「!」と思った私。
今思うと、この日を映画っぽく演出したのは、この人だったのかも。
父の残された時間が殊の外短いのだと知らされた私たちは、父の傍らでジュースパーティをすることにしたのです。みんなで楽しかった父との想い出の話をすることにしました。と言っても話しているのはおしゃべりな私。
私は甥と姪は行かなかった奈良旅行の時の話をしていました。東大寺の帰り道、タクシーが捕まらなくてもうちょっと行けばもうちょっと行けばとあまり歩けない父をかなりの距離を歩かせてしまった話。
「結局さあ、バス停までたどり着いちゃったのよ。」
「酷いね~。」と、甥と姪は笑いながら言いました。
「もうあんなハードなのは、私達でも無理だわぁ。たった3年ぐらいまえのことなのに、こっちも歳を取っちゃって・・・。」って、あの時父と母を振り回したくせにぬけぬけ言う私。
「でもね、帰る時虹が出たのよ。まるで見送ってくれるように。」
「へえ・・・。」
とみんなが頭の中にそれぞれの虹を思い描いた時、父の息が止まったのです。
「あっ!」
「あれっ?」
これが聞いていた無呼吸なのか・・・。
「お姉ちゃん、時間測って・・」
少しの沈黙があってまた短く息をする父。
そしてまた止まる息。
私が看護師さんから無呼吸状態が来ると聞いた時、抱いたイメージは無呼吸の発作が起き、また通常の荒い息に戻り、またその状態が続き、そしてしばらくしてまたその無呼吸が起き、そしてそれを繰り返すと言うものだったのです。
だけど父を見ていて、これは違うなと感じました。
私は父の胸をさすりながら
「みんなおとうさんに感謝してるよ。立派だなって誇りに思ってるよ。おとうさん、大丈夫だから安心してね。おとうさん、大丈夫だよ、怖くないよ。みんな逝く道だよ。怖くないよ。・・・・・・・」
この「・・・・」の部分は、父と私とそこに居た家族だけの秘密の言葉。いわゆる宗教的なものでした。後で思い返すと、「・・・」の部分をちゃんと書いても3行ぐらいの言葉を、その時に言う為に私はそこに居たのだと思わずにはいられないのです。
私は妙に冷静でした。
父の息は三回止まりました。父がそういう状態になって、それを目の当たりに見たら涙だってこみ上げてくるのも自然だと思います。だけど最初、上に書いたとおりまたこの発作は収まるかもしれないと思っていた私は、
「泣くのはまだ待て。まだ死んでいないから。」などとすっとぼけた事を言う・・・・・
でも3回目の無呼吸になった時、
―ああ、これは泣いたって良い『時』が来てしまったんだな。
と感じたのでした。
4回目に、父が明らかに違う息の仕方をしました。体の全組織を使って息を吸おうとするかのように顔が真っ赤になりました。
そして静かになったのです。
―ああ、父は死んだのだな。
と、私は思いました。それでも首すじを触り、手首を取りました。暖かい手首。その時、私は「おやっ?」と思いました。なぜなら凄く弱くても脈があったように感じたのです。驚いてもう一度その脈を探しましたがもう見つかりませんでした。それは単なる私の勘違いだったのかもしれません。でもその時私は、人は徐々に死んでいくのだと思ったのでした。もちろん死の侵食のスピードはゆっくりではありません。血の流れを止めそして温もりさえも奪っていくのでしょう。
私は妙に冷静―
そう、冷静だったがゆえに大きな間違いをしないですみました。この時動揺してしまったら、私は父の傍らを陣取りさめざめと泣いたかも知れません。この「徐々に死んでいく」という思いが、私に大切なことを思い出させたのでした。それは父の傍で最後に声をかけるのは私ではないということに。
「お姉ちゃん、前に来て。耳は一番最後まで働くって言うよ。きっと、声は聞こえるよ。」
この「一番最後」というのは何を持って言うのかは、この際どうでもいいことなのです。はっきり言って思い込みだろうが勘違いだろうが、どうでもいいことなのです。
姉は短く父に声をかけ、
「みんな、おじいちゃんにお別れを言おう。」と言いました。
甥が
「おじいさん、長い間本当にありがとうございました。」と涙にむせびながら言いました。
なんて丁寧な優しい言い方なんだろうと思うと、涙が溢れました。
姪が曾孫と一緒に
「おじいちゃん・・・」と声をかけた時、ようやく私はあることに気が付きました。
「おやっ!あれっ?」
なんと、母がいないじゃないの。この局面に・・・・!!!
私は家の中をダダダダダっと走り和室で
「お母さん!」と呼び、そこに居ないと分かると、また走り父の部屋で
「お母さん!」とまた叫びました。
と書くと、さながら豪邸のようですが、まあ走ったといっても十歩と三歩ぐらい・・・。
で、父の部屋にも居ないことが分かり、思わず仁王立ちのポーズで
「あのババア、どこに行った――ー!!」と叫びそうになった時、ジャーと水の音がしたのです。
「えっ、ジャーってジャーって、なんで今・・!?」
トイレから出てきた母は
「ダメなの、もうダメってことなの。」と言いました。
―何を今更。
私は驚きつつ、また「ダメ」という言葉っていついかなる時も好きじゃないなあと再確認しつつ
「うん。まあ、そうですよ・・・」とショボショボと答えると、言葉に拘ってる場合じゃないだろうとハッとし、「早く行って」と即しました。
「今までどうもありがとね。」と母は短く言いました。後ろで聞いていた私は、思わず
「みじか~!」と文句を言って、母の腕を掴んで引き止めそうになりました。母はその手を振りほどいても立ち去ろうとしました。
「いろいろあったけれど、私、幸せだったよ。 」って、仕方がないのでつい続きを私が代わりに呟いちゃったりして・・・。
母が引きとめようとした私の手を振りほどいても行きたかった場所は、和室。
母は和室のテーブルに伏せてワッと泣きました。
「うんうん。お母さんも頑張ったよね。・・・」とか何か声をかけたように思います。この時、私も母と抱き合って泣きたい衝動に駆られたのです。でも「お母さん」と声をかけようとしたら、母はばっと顔を上げ
「私、頑張ったよね。やることをやりきったよね。」と言いました。
「うん。やった。お母さんはやったよ。」と私。
「じゃ、いいね!」と母はキッパリ言いました。
―早っ~!!!
なんという立ち直りの早さでしょうか。私は唖然としてポカーンとしてしまいました。
でもこの後の絶え間のない弔問客との接待のことを思うと、それはそれで正解だったのだと思ったのでした。
※ ※ ※
通夜の日の深夜、姉妹で寝ずの番をした時に、私は上に書いたその時の様子を妹達に話しました。甥の丁寧な言葉の所ではやはり涙ぐみ、そして母のくだりでは泣き笑いをしながら聞いていた妹達。
話し終わると不思議なことに、なんだか父との別れのその時、姉妹四人ともが揃ってそこに居たような気がしてきたのです。
その事を私が言うと。
「うん。私達ももうそこに居たような気がするよ。」と妹も言ってくれたのでした。
看護師さんと一緒に父の体を拭くときも連絡だとかに追われその場にいなかった母。
「ちょっと落ち着けよ。何事にも順番ってものがあるだろう。」などと微かには思ったものです。看護に務めた姉は死亡診断書などの説明などで、やはりその場にいなくて、たまにやって来ては父とお喋りをして帰っただけのような者の私が、体を拭いて着替えさせると言う大切な務めを一人でやって良いものかと申し訳ないような気持ちがしてしまったのでした。母にはそこにいて欲しかったです。
だけどこれを書きながら、なんだか彼女の気持ちと行動が少し分かるような気がしたのです。
1年未満の日々でしたが、母は父の前で泣くまい涙を見せまいとした毎日だったと思います。
泣きそうになったら席を立つ。きっとそれを頻繁に繰り返し習慣化したのだと私は思いました。
私は泣き虫。それは父は泣き虫、母も泣き虫。そんな二人の娘だから・・・
だけどそんな母が涙を見せまいとする毎日は、それはそれで彼女の闘いの日々だったように思ったのでした。