9/12・13土日、小樽へ。
議会の合間を縫って、小樽運河の現場を見たかったからです。
今、築地市場の現在地での再生の議論が都政の大きな話題のひとつとなっています。
築地市場と関連して、地域に多大な負荷をかける開発が、「再開発」という美名のもと、行われています。
)環状二号線のもともと地下トンネルでつくる都市計画案の地上計画への変更、)勝どき五丁目の都のアパート群の超高層ビル化計画なども含めて。
ご存知のように、築地市場の現在地での再生を求めて、市場で働く皆様、区民・都民の皆様が立ち上がっています。
聞くところ、環状二号線と勝どき五丁目再開発事業の周辺の住民の皆様も立ち上がろうとされています。
都内、日本国中、都市計画のあり方に疑問を抱く方々が力を合わせ、あるべき街づくりがなされるように、国への働きかけ、都市計画法改正に向けた働きかけを行っていらっしゃいます。
区民・都民、あらゆる市民の皆様がこれからその声が形になっていくにあたり、ひとつの参考になるであろうと予想して、小樽へ向かいました。
小樽へ目が向いたのは、今年春の偶然の出会いからでした。
前回、小樽市長選挙に出られた森井秀明氏との出会い。その出会いから、5月に行われた銚子市長選挙で一緒に松井みのる氏を応援することに。
その小樽には、もともと運河保存の運動がありました。
運河を埋め立てて、道路に片道三車線の道路を作る計画が出され、周囲の住民が埋立てに待ったをかけたのでした。
昭和50年~昭和60年前後の話です。
結局、今の形の道路が昭和60年にできました。それから、約20~30年たったあとの現場です。
森井氏と再会し、運河だけでなく、歴史的建造物を保存しつつの街づくりがなされている小樽のお話を伺わせていただきました。
翌日9/13、小樽の街と運河を歩き、ふらっと、「運河プラザ」なる建物に入りました。
それが、実の名は、「小樽市総合博物館」だったようです。
ただ、さーっとみた中では、小樽市全体の歴史と発展がテーマで、運河に絞っての資料は、確かにありましたが、どのような過程を経て最終的に現在の形に落ち着いたかを推し量るための自分がほしい材料には、物足りませんでした。
受付の方に、運河関連の書物のことを尋ねると、学芸員をされている石川氏が出てこられました。
丁寧にどの書物に当たるとわかるかをご指導くださいました。
*『小樽運河保存の運動』「小樽運河問題」を考える会
*『運河戦争 始末』 小笠原克 朝日新聞社 1986年
これらが、私の探しているものに合致する本であることがわかりました。
ただ、どうも昔の本らしく、通常の販売ルートでは、もう出回っていないようでした。
詳しくお教えいただいたもので、だめもとで、「では、だれか詳しく語れる方をごぞんじでいらっしゃいますか?」と尋ねてみました。
もう20年30年前の当事者なんかに、会えることなど、期待せず、本当にだめもとでの質問でした。
「いらっしゃいますよ。」と予期せぬ回答。
予期せぬ更なる回答が、「お会いしますか?」
狐につままれたように、案内されたのが、運河プラザの喫茶でした。
そちらのマスターが、実は、当事者の一人の方だったのです!
佐々木一夫氏との偶然の出会いへと大きく展開をしたのでした。
佐々木氏に、当時のお話をお伺いさせていただきました。
この方々がおられなかったら、今の小樽はないでしょう。
運河は跡形もなく完全に埋め立てられ、単なる道になっていたことでしょう。
以下は、お話をお伺いして、自分が感じたことを書きます。
( )は、築地市場移転問題に取り組む皆様とも比較を交えて書いて見ます。
写真は、佐々木一夫氏と。
お忙しい中、丁寧なご説明に本当に感謝しています。
***小樽運河保存に立ち上がった市民たちの力、その力から学ぶべき点****
①「小樽運河問題を考える会」には、強力なリーダーシップをとれる人が存在した。
(「市場を考える会」にも人望の厚いリーダーが存在しています。)
②活動に賛同する人たちに多くの専門家が存在した。
(「市場を考える会」にも土壌汚染の専門家、建築の専門家、流通の専門家ら多くの専門家による支援があります。)
③活動では、勉強会をして、自分たち自身の知識を高めることを怠らなかった。
(「市場を考える会」でも、勉強会を怠らずに開催されています。)
④市民を巻き込んでいった。そのために、倉庫でバンドやディスコをしたり、一般市民が取り組めるイベント、運河の清掃活動など、市民が参加するイベントを企画した。
(市場周辺でも、築地本願寺のお祭り、場外市場のイベントなど、開催されています。)
⑤十万人署名を実施した。
(中央区や「市場を考える会」でも、署名を実施。)
⑥対案を準備した。運河に沿っては、片側一車線のみの道路、運河と倉庫のさらに海岸よりに片側二車線の道路を走らせる対案を準備したという。
(「市場を考える会」も、現在地再整備案を検討している。)
⑦市レベル、道レベルでも、支援する政治家がいた。
⑧業界団体を二分する話になった。
⑨はじめは、市議会も運河保存を理解した議員は少数であった。
⑩最終的には片側三車線の道路が走ることとなった。運河は、半分埋め立てられ、幅20mだけが残された。
結果、倉庫の影が運河の川面に映る美しさがなくなってしまった。
⑪今は、通過型の観光地となっている。
⑫どこの地方都市でもいえるが、疲弊し、いかに活性化するべきか、考えあぐねている。
⑬しかし、そんな中、キャンドルイベントなど、町おこしのイベントを企画し、活性化を図っている。
⑭街並みにあわないマンション建設がなされ、景観が壊されつつある。(小坂が街を見た印象)
などなど。
議会の合間を縫って、小樽運河の現場を見たかったからです。
今、築地市場の現在地での再生の議論が都政の大きな話題のひとつとなっています。
築地市場と関連して、地域に多大な負荷をかける開発が、「再開発」という美名のもと、行われています。
)環状二号線のもともと地下トンネルでつくる都市計画案の地上計画への変更、)勝どき五丁目の都のアパート群の超高層ビル化計画なども含めて。
ご存知のように、築地市場の現在地での再生を求めて、市場で働く皆様、区民・都民の皆様が立ち上がっています。
聞くところ、環状二号線と勝どき五丁目再開発事業の周辺の住民の皆様も立ち上がろうとされています。
都内、日本国中、都市計画のあり方に疑問を抱く方々が力を合わせ、あるべき街づくりがなされるように、国への働きかけ、都市計画法改正に向けた働きかけを行っていらっしゃいます。
区民・都民、あらゆる市民の皆様がこれからその声が形になっていくにあたり、ひとつの参考になるであろうと予想して、小樽へ向かいました。
小樽へ目が向いたのは、今年春の偶然の出会いからでした。
前回、小樽市長選挙に出られた森井秀明氏との出会い。その出会いから、5月に行われた銚子市長選挙で一緒に松井みのる氏を応援することに。
その小樽には、もともと運河保存の運動がありました。
運河を埋め立てて、道路に片道三車線の道路を作る計画が出され、周囲の住民が埋立てに待ったをかけたのでした。
昭和50年~昭和60年前後の話です。
結局、今の形の道路が昭和60年にできました。それから、約20~30年たったあとの現場です。
森井氏と再会し、運河だけでなく、歴史的建造物を保存しつつの街づくりがなされている小樽のお話を伺わせていただきました。
翌日9/13、小樽の街と運河を歩き、ふらっと、「運河プラザ」なる建物に入りました。
それが、実の名は、「小樽市総合博物館」だったようです。
ただ、さーっとみた中では、小樽市全体の歴史と発展がテーマで、運河に絞っての資料は、確かにありましたが、どのような過程を経て最終的に現在の形に落ち着いたかを推し量るための自分がほしい材料には、物足りませんでした。
受付の方に、運河関連の書物のことを尋ねると、学芸員をされている石川氏が出てこられました。
丁寧にどの書物に当たるとわかるかをご指導くださいました。
*『小樽運河保存の運動』「小樽運河問題」を考える会
*『運河戦争 始末』 小笠原克 朝日新聞社 1986年
これらが、私の探しているものに合致する本であることがわかりました。
ただ、どうも昔の本らしく、通常の販売ルートでは、もう出回っていないようでした。
詳しくお教えいただいたもので、だめもとで、「では、だれか詳しく語れる方をごぞんじでいらっしゃいますか?」と尋ねてみました。
もう20年30年前の当事者なんかに、会えることなど、期待せず、本当にだめもとでの質問でした。
「いらっしゃいますよ。」と予期せぬ回答。
予期せぬ更なる回答が、「お会いしますか?」
狐につままれたように、案内されたのが、運河プラザの喫茶でした。
そちらのマスターが、実は、当事者の一人の方だったのです!
佐々木一夫氏との偶然の出会いへと大きく展開をしたのでした。
佐々木氏に、当時のお話をお伺いさせていただきました。
この方々がおられなかったら、今の小樽はないでしょう。
運河は跡形もなく完全に埋め立てられ、単なる道になっていたことでしょう。
以下は、お話をお伺いして、自分が感じたことを書きます。
( )は、築地市場移転問題に取り組む皆様とも比較を交えて書いて見ます。
写真は、佐々木一夫氏と。
お忙しい中、丁寧なご説明に本当に感謝しています。
***小樽運河保存に立ち上がった市民たちの力、その力から学ぶべき点****
①「小樽運河問題を考える会」には、強力なリーダーシップをとれる人が存在した。
(「市場を考える会」にも人望の厚いリーダーが存在しています。)
②活動に賛同する人たちに多くの専門家が存在した。
(「市場を考える会」にも土壌汚染の専門家、建築の専門家、流通の専門家ら多くの専門家による支援があります。)
③活動では、勉強会をして、自分たち自身の知識を高めることを怠らなかった。
(「市場を考える会」でも、勉強会を怠らずに開催されています。)
④市民を巻き込んでいった。そのために、倉庫でバンドやディスコをしたり、一般市民が取り組めるイベント、運河の清掃活動など、市民が参加するイベントを企画した。
(市場周辺でも、築地本願寺のお祭り、場外市場のイベントなど、開催されています。)
⑤十万人署名を実施した。
(中央区や「市場を考える会」でも、署名を実施。)
⑥対案を準備した。運河に沿っては、片側一車線のみの道路、運河と倉庫のさらに海岸よりに片側二車線の道路を走らせる対案を準備したという。
(「市場を考える会」も、現在地再整備案を検討している。)
⑦市レベル、道レベルでも、支援する政治家がいた。
⑧業界団体を二分する話になった。
⑨はじめは、市議会も運河保存を理解した議員は少数であった。
⑩最終的には片側三車線の道路が走ることとなった。運河は、半分埋め立てられ、幅20mだけが残された。
結果、倉庫の影が運河の川面に映る美しさがなくなってしまった。
⑪今は、通過型の観光地となっている。
⑫どこの地方都市でもいえるが、疲弊し、いかに活性化するべきか、考えあぐねている。
⑬しかし、そんな中、キャンドルイベントなど、町おこしのイベントを企画し、活性化を図っている。
⑭街並みにあわないマンション建設がなされ、景観が壊されつつある。(小坂が街を見た印象)
などなど。