切符を購入し、目的地まで運んでもらう契約を電鉄会社と行い、私達は電車に乗る。目的地までの時間は、エキストラ・タイムすなわち無為な時間となる。
『阪急電車』も、はじめの章の冒頭、「電車に一人で乗っている人は、大抵無表情でぼんやりしている。視線は外の景色か吊り広告、あるいは車内としても何とはなしに他人と目の合うのを避けて視線をさまよわせているものだ。そうでなければ車内の暇つぶし定番の読書か音楽か携帯か。」とまさに、電車のありきたりの風景を言い得た記載だ。
私も、法科大学院への通勤定期を持つ身となり、毎日、築地から神谷町を地下鉄で片道9分の距離を往復している。地下鉄であるから、外の風景を楽しむわけには行かないが、昨今の状況にもれず、10人がけの席の半数は、携帯や本に目をやり、半数は目を閉じる・寝るなどそれぞれの時間を過ごしている。当の本人は授業の予習復習に追われ、文書に必死で目をやっている。時間が夜間であるから、酔っぱらった人たちが周囲を気にせず会話に花を咲かせていることは閉口するが言ってもきりがない。
『阪急電車』に描かれている人々は、その無為な時間に小さなきっかけから、出会いが訪れ、ある者は恋人になり、ある者は親友になり、ある者は別れるという人生の大事な転機を車内で経験していた。
物語の中だけのことと言えば、それで終わりであるが、小説の中に描かれている「今津線」であればこそ、ドラマが起こるのも必然のように思えた。それほどに、魅力のある線として、有川氏は描いていた。
人は、誰でも人生を背負っている。その人同士が出会う場所は、列車に限らず、食堂でも本屋でもコンビニでも、ひとつの閉鎖空間に入る点では同じだが、風景がうつり変わる電車の車内だからこそ、出会いへとつながるのであろう。また、バスや飛行機も移動する閉鎖空間であるが、席が固定されており、気持ちが出会いへと向かわないのかもしれない。電車の空間こそが何か人と人を結びつける力が作用するのだと思う。
もちろん、どの鉄道線にもその力があるというのではなく、今津線ならではの魅力によるところが大きい。
人と人の出会いをつくる鉄道線の魅力はどうしたら、生まれるか。
要素としては、3つあるのではないだろうか。
一つ目は、鉄道運送業者。元恋人を婚約寸前で親友に取られてしまったその両者の結婚式に討ち入りした帰りに、翔子が老婦人に勧められた「いい駅」という小林駅。そこでは、「今年もやって参りました。お騒がせしますが、巣立ちまで温かく見守ってください」という貼り紙をし、駅の利用者を人だけでなく動物をも温かく迎えている。
二つ目は、その鉄道が走る地域や街の特色。宝塚駅を出て、武庫川を渡る川の中州には、「生」の大きな字、阪神淡路大震災の慰霊の意味を込めて、つくられた。気品高い宝塚ホテルが宝塚南口にある。お社を屋上にもつ白いビルがある西宮北口駅。甲東園を出たあたりの線路の切り通しの斜度45度の斜面にワラビが生える。大切にしたい景色や建物がある。
最後に、利用する人自身。例えば、女子大生風の若いオシャレをした派手な娘、もし息子が彼女として連れてきたら、「悪い子じゃないんだろうけど・・・」と思った隣の子が、気分の悪くなった自分を看病するために一緒に列車を降り介抱してくれる。駅構内でいじめられている見知らぬ小学生をその現場を通りかかるお姉さんが励ます。列車内で、大はしゃぎする大人達に対し、孫娘の前で、凛として対応する老婦人。人に押されて倒された翔子を気遣ってくれたのは、車内で彼氏の話で盛り上がっていた高校生。外見では分からない内面において、それぞれの正義をきちんと持ち、行動している。
この東京に小説にしうる「第二の今津線」はあるだろうか。東京の列車は、いつも混雑し、朝のラッシュは、おしくらまんじゅうのさらに上をいく状態である。人身事故での列車の遅れの情報が構内掲示板で、毎週にように流される。車内での痴漢の事件も新聞面での常連の記事内容である。一部はえん罪であろうが、痴漢行為をするのは社会的身分のある人に多い。鉄道の延伸や重層化は、周辺地域に歓迎されるのではなく、開かずの踏切問題、騒音問題、防災面での脆弱性の問題等都市問題として浮かび上がっている。
もちろん、鉄道側の歩みよりも見受けられる。バリアフリーに率先して取り組みエレベーターの増設や段差の解消工事、ホームドアの全線設置、都営線と営団地下鉄の統合、災害時の帰宅困難者受け入れ場としての協力、駅内での障害者の就労の場としてパン屋出店など様々な施策が進行中である。
『阪急電車』で有川氏は、私たちに列車というパブリックの場が、魅力的なものであるべきことを気づかせてくれた。窓からの景色の変化がない地下鉄中心の東京都内の列車網であり、その小説で描かれたような出会いやドラマまでの発展を期待するのは難しいとしても、小さなマナーの実践を再確認することとしたい。
『阪急電車』も、はじめの章の冒頭、「電車に一人で乗っている人は、大抵無表情でぼんやりしている。視線は外の景色か吊り広告、あるいは車内としても何とはなしに他人と目の合うのを避けて視線をさまよわせているものだ。そうでなければ車内の暇つぶし定番の読書か音楽か携帯か。」とまさに、電車のありきたりの風景を言い得た記載だ。
私も、法科大学院への通勤定期を持つ身となり、毎日、築地から神谷町を地下鉄で片道9分の距離を往復している。地下鉄であるから、外の風景を楽しむわけには行かないが、昨今の状況にもれず、10人がけの席の半数は、携帯や本に目をやり、半数は目を閉じる・寝るなどそれぞれの時間を過ごしている。当の本人は授業の予習復習に追われ、文書に必死で目をやっている。時間が夜間であるから、酔っぱらった人たちが周囲を気にせず会話に花を咲かせていることは閉口するが言ってもきりがない。
『阪急電車』に描かれている人々は、その無為な時間に小さなきっかけから、出会いが訪れ、ある者は恋人になり、ある者は親友になり、ある者は別れるという人生の大事な転機を車内で経験していた。
物語の中だけのことと言えば、それで終わりであるが、小説の中に描かれている「今津線」であればこそ、ドラマが起こるのも必然のように思えた。それほどに、魅力のある線として、有川氏は描いていた。
人は、誰でも人生を背負っている。その人同士が出会う場所は、列車に限らず、食堂でも本屋でもコンビニでも、ひとつの閉鎖空間に入る点では同じだが、風景がうつり変わる電車の車内だからこそ、出会いへとつながるのであろう。また、バスや飛行機も移動する閉鎖空間であるが、席が固定されており、気持ちが出会いへと向かわないのかもしれない。電車の空間こそが何か人と人を結びつける力が作用するのだと思う。
もちろん、どの鉄道線にもその力があるというのではなく、今津線ならではの魅力によるところが大きい。
人と人の出会いをつくる鉄道線の魅力はどうしたら、生まれるか。
要素としては、3つあるのではないだろうか。
一つ目は、鉄道運送業者。元恋人を婚約寸前で親友に取られてしまったその両者の結婚式に討ち入りした帰りに、翔子が老婦人に勧められた「いい駅」という小林駅。そこでは、「今年もやって参りました。お騒がせしますが、巣立ちまで温かく見守ってください」という貼り紙をし、駅の利用者を人だけでなく動物をも温かく迎えている。
二つ目は、その鉄道が走る地域や街の特色。宝塚駅を出て、武庫川を渡る川の中州には、「生」の大きな字、阪神淡路大震災の慰霊の意味を込めて、つくられた。気品高い宝塚ホテルが宝塚南口にある。お社を屋上にもつ白いビルがある西宮北口駅。甲東園を出たあたりの線路の切り通しの斜度45度の斜面にワラビが生える。大切にしたい景色や建物がある。
最後に、利用する人自身。例えば、女子大生風の若いオシャレをした派手な娘、もし息子が彼女として連れてきたら、「悪い子じゃないんだろうけど・・・」と思った隣の子が、気分の悪くなった自分を看病するために一緒に列車を降り介抱してくれる。駅構内でいじめられている見知らぬ小学生をその現場を通りかかるお姉さんが励ます。列車内で、大はしゃぎする大人達に対し、孫娘の前で、凛として対応する老婦人。人に押されて倒された翔子を気遣ってくれたのは、車内で彼氏の話で盛り上がっていた高校生。外見では分からない内面において、それぞれの正義をきちんと持ち、行動している。
この東京に小説にしうる「第二の今津線」はあるだろうか。東京の列車は、いつも混雑し、朝のラッシュは、おしくらまんじゅうのさらに上をいく状態である。人身事故での列車の遅れの情報が構内掲示板で、毎週にように流される。車内での痴漢の事件も新聞面での常連の記事内容である。一部はえん罪であろうが、痴漢行為をするのは社会的身分のある人に多い。鉄道の延伸や重層化は、周辺地域に歓迎されるのではなく、開かずの踏切問題、騒音問題、防災面での脆弱性の問題等都市問題として浮かび上がっている。
もちろん、鉄道側の歩みよりも見受けられる。バリアフリーに率先して取り組みエレベーターの増設や段差の解消工事、ホームドアの全線設置、都営線と営団地下鉄の統合、災害時の帰宅困難者受け入れ場としての協力、駅内での障害者の就労の場としてパン屋出店など様々な施策が進行中である。
『阪急電車』で有川氏は、私たちに列車というパブリックの場が、魅力的なものであるべきことを気づかせてくれた。窓からの景色の変化がない地下鉄中心の東京都内の列車網であり、その小説で描かれたような出会いやドラマまでの発展を期待するのは難しいとしても、小さなマナーの実践を再確認することとしたい。