京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

「坂本龍馬追悼」

2019年11月15日 | こんなところ訪ねて
江戸中期から明治にかけて、北海道、東北、北陸、西日本を結ぶ北前船の日本海航路は、日本の大動脈だった。「板子(いたご)一枚下は地獄」の荒海を乗り越え、積み荷を売り買いして富を残した。その起点となったのが山形県の酒田港。

【西周り航路を使う“北前船”で大きな利益を上げている海商の一人に銭屋五兵衛がいた。彼は加賀百万石の前田家のために奮闘していた。夏、彼は酒田にいた。酒田港全体を見おろせる日和山に登り、「日本一うまい庄内米を直接大阪や江戸に送ろう」と考えた。……】

      童門冬二著『銭屋五兵衛と冒険者たち』はこんなシーンから始まっていくが、彼亡き後も「海に国境はない」の理念を継いで幕末の激動期に国際化の道を歩んだ冒険者たちが描かれている。ここに、勝麟太郎をつけ狙い?門前をうろつく坂本龍馬が登場してくる。
…物語は「坂本さんが懐の中で握っていたのは、きっと万国公法だ。海の国際法だ」という言葉が最後を締めている。


没後152年。坂本龍馬追悼展が行われている。
海援隊の京都本部を置いた「酢屋」は、この地で260年余り続く材木商だった。。店の前は高瀬川の流れを引き込んだ大きな舟入で、船の荷揚げが行われていた(今はきれいなアスファルトが敷かれ、向かいは大きなホテルが建つ)。船の荷と一緒に伏見、大阪からの情報も入ってくる格好の地でもあった。1階部分は間口いっぱい木材が運び込まれ、積み上げられた写真が残っていた。

6月になって身を寄せた龍馬さん、24日には乙女ねえさんに宛てて長い長い手紙を認めた。それが3年ぶりに公開され初めて拝見した。重要文化財になっている。本文の前に、薩州屋敷に行こうとして、その前にこの手紙記しているということと、三条にある酢屋に宿するということが書きたされてあった。確かに龍馬さんは「ここにいた!」のだとわかる。 

身に危険が迫るのを察し、近江屋に移った晩11月15日に殺された。当日はたまたま隊士が大阪近辺に出払っていて酢屋は手薄になっていたようだ。隊長が襲われたことを知らせる書状を受け取り急ぎ京に戻った隊士たちの名。事件以後の経過が記された海援隊日誌は8代目になって天井裏から発見された。商家でもあり、かくまったことが公になっては商売に響く。密かに隠して守ってきたのだ。後年この日誌は「涙痕帖」と名付けられた。

龍馬さんがいた2階の格子窓(西・左)の奥は8畳ほどで、ギャラリーとなって「涙痕帖」も含め遺品類の公開がされている。龍馬を守れなかったことを6代目は悔いていたとお話が…。

「海に国境はない」の言葉とともに出かけてみた。


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