京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

報恩講に参拝

2019年11月21日 | 催しごと

今日から28日まで東本願寺では報恩講が勤まります。午後からのお勤めである初逮夜集会(しょたいやしゅうえ)に参拝。
門徒感話、報恩講法話に続き、「正信偈句淘」「和讃」「回向」、90人に近い(以上?)と思われる僧侶が内陣にて唱える法要は平素ないことでありがたい時間です。素晴らしい楽です。

〈私たちは時に立ち止まります。こんなはずではなかった…。これでいいのだろうか…。〇〇さんが亡くなってもう。。年か、等々。その機会はそれぞれにあるようです。ただ、これらは時の経過の中で自分を見つめているわけです。そうではなく、自分を厳しく、深く見つめる機会が大切であり、例えば、「わたしは〇〇さんに死なれた」と、主語を「わたしは」として他者の死を自分のものとして考える視点が問われる…。〉 法話はこのあたりまで筋を追ったのですが、以後…さて……なんですよね…。ようわからんままでした。

ただ、ブログを通じて随分前に教えていただいた滋賀県近江八幡市のお寺の掲示板にあったという法語を思い出していました。
   亡くなった人が
   どんな死にざま 生きざまであろうとも
   その人が わたしにとって
   教えの仏として拝み直されるとき
   ほんとうの出遭い「供養」が成り立つのでしょう


「生きるということは」「私を生きるとは」。深く自分を見つめることなくして己の一生は定まらない…。自身を見つめる眼をいただき、思い通りにならない一生を大切に生き抜く力をいただく。他者の死を通して自分と出遭いなおす…。法話の先を、先に、そんなこと考えてみる機会でした。
が、ようわからんままで、聞き直しが要るようです。
コメント (4)
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