京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

言うに言われぬ忍耐が要る

2024年03月17日 | 展覧会
昼前から雨になった彼岸の入り。そんな予報も出ていて、お墓参りの前、後だと言って立ち寄られる方もなかった。

週末には阿弥陀さまのお花を立てかえた。満開の桃の花と、たくさんの蕾がついたコブシの一枝をいただき、一緒に供えることにした。
子規のように、コブシの枝を部屋で花瓶に挿したいなあと思いもしたが、「仏さんに」が I 子さんの思いなのだろう。私欲に走ることを慎んだ。  

頂き物のお返しの品を見繕いに四条河原町にある高島屋へ出向いた日、開催中の展覧会「文化勲章三代の系譜 上村松園・松篁・淳之」展を覗いてみようとなった。


親、子、孫と三代、それぞれに画風を追求し、日本画の美を伝承してきた。
松園(1875~1949)の作品はいくつか見知ってはいたが、絵よりも、男性中心の画壇で“女性芸術家の先駆となった松園”ってどんな人かという関心のほうが大きく、彼女が書いた文章を青空文庫で読んだりしてきた。


【全く女性の画道修業は難しい。随分言うに言われぬ忍耐が要る。私などにしても、これまでに何十度忌ま忌ましい腹の立つことがあったか知れない。それを一々腹を立てて喧嘩をしていたんではモノになりません。凝ッと押し堪えて、今に見ろ、思い知らしてやると涙と一緒に歯を食いしばらされたことが幾度あったか知れません。全く気が小さくても弱くてもやれない仕事だと思います。】(『画道と女性』)

【竹を割ったような性格 私の母は、一口にいうと男勝りな、しっかり者でしたな。(中略)
私は小さい時から絵が好きで帳場のかげで絵ばかり描いていましたが、母はそれを叱るどころか「それほど好きなら、どこまでもやれ」と、励ましてくれました。しかし、はたはそうはいかず、親類知人は、「女子はお針や茶の湯を習わせるものだ。上村では、女子に絵なぞ習わせてどないする気や」と母を非難したものでした。なかにも、一人ゴテの叔父がおり、とやかく申すのでしたが、私が十五歳の時、東京に開かれた内国勧業博覧会に、〈四季美人図〉を初出品しましたら、丁度、来遊されていた英国の皇子コンノート殿下のお目にとまり、お買上げということになり、一時に上村松園の名が、新聞紙上に書き立てられますと、その叔父が一番に飛んで来て、「めでたいこっちゃ。大いにやれ」と大した変りようでした。】(『我が母を語る』)


着物、帯、髪の結い方、髪飾りなどから年齢や社会的立場、日常生活までが伝わる松園の女性たちに、ほとんど感情が感じられないのは「リアルを追求した果ての『感情は表現の邪魔になる』という境地」からなるもの、と言われた展覧会監修者の解説をじっと考え中です。
能面の無表情の表情、を書いた文章もあったなと思い出しながら。
コメント (4)
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