Luntaの小さい旅、大きい旅

ちょっとそこからヒマラヤの奥地まで

チベット紀行 読み比べ

2009-11-02 19:50:48 | チベット文化圏
去年の今頃はブータン国王の戴冠式に行くのでわくわくしていた。
今年は夏にムスタン行きを計画していたもののかなわず、チベット文化圏とは縁なし。チベットが恋しいなあ。

というわけで今までに読んだチベット紀行のこと。

最初に読んだチベット紀行はヘディンの「チベット遠征」。


ヘディンは1893年、1899年、1906年と3回ラサを目指し、3回目の遠征でシガツェまで到達したものの、ラサにはとうとう足を踏み入れることができなかった。

ヘディンの場合はたぶんに政治的な背景を持った国の支援を受けた遠征なので、ガイドや大勢のスタッフ、ラクダや馬を伴ったキャラバンでの旅行である。それでも嵐に遭ったり、盗賊に遭ったりとまさに命がけの旅。

しかしこの本の魅力はヘディンの描写する自然の美しさやモンゴル人、チベット人との交流の様子。この本を読むとヘディンと言う人は本当に荒涼とした景色を愛し、この地に生きる人々が好きだったんだと実感できる。未開、野蛮で片付けられかねない遊牧民や猟師の描写が特に暖かくていい。この人、できることなら自分もこの地の猟師になって生きたかったんじゃないだろうか。

次に読んだのは有名な河口慧海の「チベット旅行記」。


19世紀と20世紀の境目に日本人として初めてチベットに入ったこの人は、何がすごいと言って国や宗門などのバックアップは一切なしで、さらには現地のガイドなども雇うことなく、まったくの個人として鎖国状態のラサにまで入り込んでしまったこと。インドやネパールで言葉や習俗を覚えるために時間をかけているので、その意味では用意周到だったのだろうが、かなり無茶な行動と言うべきだろう。よく生きて帰ってこられたものだ。

この人がチベットまで行こうと思い立ったのは仏教の原典を求めてのことだったそうだが、本を読んでいて違和感を覚えたのは苦労して入ったチベットの寺でも「汚い、遅れている」とけなすことが多く、自分がいかにいろいろ「教えてやったか」と自慢が多くて、相手に対する理解や尊敬の念があまり感じられないこと。

この本が書かれたのが1903年、しかも新聞の連載だったので、この時代の自信過剰な日本人の自意識の反映だろうか。しかしやりとげたことの大きさの割にはその後の人生ではあまり評価されていないし、やはり相当の変人だったと思われる。
それぐらいの変人でなければあんな大冒険は達成できないだろうが、個人的にこの人はあまり好きになれそうにない。

「チベット潜行10年」の木村 肥佐生と「秘境西域八年の潜行」の西川一三は河口慧海より50年若く、日中戦争の時代にスパイとしてチベットに入った。


1944年ごろのチベットはいまだ鎖国中で、その描写も大昔のことのように感じるが、木村氏は1989年、西川氏などは去年亡くなっているので実はそんなに遠い過去のことではないというのにまず驚かされる。文章を読んでいても西川氏はともかく、木村氏は明らかに明治時代の河口とはちがう「現代人」だと感じる。

この二人がどのような使命を帯びてチベットに入ったのか、どちらの本にも詳しいことは書いていないが、スパイとしては西川氏よりも木村氏の方が優秀だったのではないだろうか。木村氏の冷静で計画的な行動に比べて、西川氏の方はやや行き当たりばったり。この人、現在の若者だったら絶対に沈没気味のバックパッカーになっていたと思う。

映画になって有名な「Seven Years in Tibet」のハインリッヒ・ハラーも木村、西川と同時期にラサにいた。確か木村氏の方の本に彼のことが出てくるが、チベット人にまぎれてしまう日本人とは違い、金髪碧眼のヨーロッパ人はそれは目だっただろう。


もともとチベットに興味があったわけではなく、インドのイギリス軍収容所から脱出するだけのためにヒマラヤを越えてしまうのだからこの人もすごい。
しかしチベット人が聖なる対象として崇める山をハラーと連れのアウフシュナイターが登山したりスキーしたがったりするのを読むと「やっぱりヨーロッパ人だな」と思う。

今年文庫になって読めるようになったのは多田等観の「チベット滞在記」。


河口慧海より13年後、大谷光端の命によりチベットに入ったこの人のことは名前は知っていたが、ダライ・ラマ13世から正式の許可を受けて入国し、セラ寺で10年も修行していたとは知らなかった。

たった数ヶ月滞在しただけの河口慧海より本格的にチベット仏教を学んだわけだが、学術論文のほかには本を出版せず、「チベット滞在記」も編者の聞き書きなのでずいぶんあっさりしているのがもったいない。ダライ・ラマ13世時代のチベットを最もよく知っていたのはこの人だったろうに。

この本は多田氏の亡くなる10年前、1956年に聞き書きされているが、この時点で既にチベット文化の価値を認め、中国侵略後の変化を危惧しているのはさすがである。もっともこの人も日中戦争中は中国に渡ったりして日本軍に協力していたようなので、木村氏や西川氏の諜報活動につながるような情報提供をしていたのだろうか。

ところで多田等観と同時期にチベットに滞在していた日本人は他に青木文教、矢島保治郎がいて、この人たちの書いたものも読んでみたいと思っていたところアマゾンでこんな本を見つけた。
 早速取り寄せてみると、青木文教は本格的なカメラをチベットに持ち込んでいたということで珍しい写真がいっぱい。これは読むのが楽しみ。

残る矢島保治郎は無銭旅行で世界一周を企てたり、チベット軍の軍事教練をしたりと、この時代のチベット滞在者の中では一番破天荒な人物なのだが、どうも本人の手による本はない様子。残念だ。


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コメント (4)
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