Luntaの小さい旅、大きい旅

ちょっとそこからヒマラヤの奥地まで

タジキスタン周遊 3 ホジャンド

2013-08-31 13:57:31 | 中央アジア
8月5日 続き

昼食をとり、一休みしたところでホジャンドの市内観光に出発。

まずは町のはずれながら、一番にぎわっているこちらの広場。

左手にはモスクとメドレッセ、正面にはイスラム用品のバザール、右手には日用品のバザールがある。

 
中心のモスクは最近建てられたらしくピカピカ、奥にある聖人の廟も修復中。ソ連邦から独立後のイスラム復活がここにも見える。
 モスクの両側を囲む建物はメドレッセ(神学校)なのだが、左手は女子用、右手は男子用とのことなので女性だけ女子神学校の中を覗かせていただく。
  
と中は柱と天井が美しい空間。数人のおばちゃんたちが絨毯に転がっていたが、暑い日中は涼しいここで昼寝が正解。

バザールに入る前に、裏手にある両替所で現地通貨を入手。
 さすがにここで日本円の両替は不可。
米ドルからタジキスタンの通貨ソモ二に両替すると、1ソモニは大体20円だった。

このお金を握りしめて、パンジシャンベ・バザールへ突入。
 
中は広々として整然、清潔。これはソ連時代の名残だろうか。

しかし売られているものはさすがに中央アジアの香り。
 
いかにもなノン(ナン)売りの女性たちがずらりと並び
 肉は脂身の方が多い。
 
たくさんあるナッツの店では早速干しアンズとピスタチオを購入。
アンズは500gで200円、イラン産のピスタチオはさすがに高くて250gで400円。
 
スパイスはもちろん、お米も種類が豊富。
  
乳製品売場にたくさん並んでいた丸いものはヨーグルトを乾燥させたクルト。持ち運びに便利なスナックということで、この後道端で売っているのも見かけたが、味見をさせてもらったものは予想外に柔らかく、簡単にかじれたがしょっぱかった。

 
さらに衣類や雑貨の店がひしめく2階からは広い場内が一望できて、やっぱりどこの国でも市場は面白い。

バザールを出た後は町の北側を流れるシル・ダリヤの川辺へ。

天山山脈を源流とするこの川は西へ流れてアラル海にそそぐのだが、アム・ダリヤとともにこの水が綿花栽培に使われすぎてアラル海が干上がったというもの。
 
しかしこの近辺ではまだ水は驚くほどきれいで、岸辺にはタジキスタンの英雄たちの胸像が並び、なかなか雰囲気がいい。

この川辺のすぐ南にはアレキサンダー大王も駐屯したという城塞の跡があるが、内部は現在タジキスタン軍の駐留地になっている。
 
城壁だけはきれいに修復され、南の端にはスグド歴史博物館。
閉館時間はすぎていたが、我々を待っていてくれた管理人が鍵を開けてくれる。

まず地下に降りると壁を取り巻くモザイク壁画はアレキサンダー大王の一生を描いたもの。
 
古いものではなく、ここがアレキサンダーの最東端の駐屯地ということで観光の目玉にしたいらしい。
征服者ではあるが、ソグドの娘ロクサーヌを娶ったことからその末裔とも名乗りたい様子。

展示物に歴史的価値のあるものはないが
  
石器時代や鉄器時代の家族が面白かったり、
 現代のコーナーではイランと中国との仲良しこよしぶりが強調されているのが興味深い。

タジク族は他の中央アジア諸民族がトゥルク系なのに対して唯一ペルシャ系で、言葉も翻訳が必要ないほどペルシャ語に近いとか。なのでイランとは仲が良く、いろいろ援助してもらっているらしい。

中国が援助と称して、特に道路工事を請け負っているのは他の中央アジア諸国と同様だが
 こんなものまで博物館に展示するかね。


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タジキスタン周遊 2 タジキスタン入国

2013-08-30 14:45:27 | 中央アジア
8月5日

タシケントのホテルを8時に出発。

大都会(と言っても高層ビルなどはない)を抜けるとまわりはすぐに綿花畑の続く景色。
 ソ連時代の国策で綿花ばかりを作らされていたウズベキスタン。水を喰うばかりで環境破壊の原因ともされているらしいが、独立してもそう簡単に方向転換はできないらしい。

2時間ほど走ったところで道端の「メロン・バザール」に立ち寄り。
 と言っても本当に路肩の屋台なのだが 
  
この場で切ってもらったメロンの甘くておいしいこと!
シーズン真っ盛りのこの時期、むろんこの後、スイカやメロンはいやというほど見かけることになる。

ここからちょっと行くとすぐに国境。
荒れ果てた中にポツンとウズベキスタン側の建物があり、写真撮影は厳禁、時間もかかると言い渡される。

ところががらんとして田舎の駅舎のような国境事務所に入ると、係官はの~んびりと仕事をしていて、時間がかかるのは厳しいからではなく、テキパキ仕事をしないからにすぎないとわかる。
警備の若い兵士のにいちゃんはきれいな女の子がいるとやたら話しかけているし、それをニヤニヤ見ていたら休憩室にいる恰幅のいい係官のお姉さんと目が合った。すると手招きをするのでのこのこ部屋に入ってみると、自分のおやつに持参したらしい大きな桃を食べろと差し出された。これがまた甘くてすごくおいしい。感激しているうちにツアーの他のメンバーもやってきて、お姉さん、持っていた桃やプラムを全部出してくれた。
もうこれだけで中央アジアが好きになる(単純)。

そんなことをしているうちにウズベキスタンの出国は終わり、お姉さんにお礼を言ってタジキスタン側の事務所に向かう。
ところがその間が300メートルほどもあり、炎天下、重い荷物を自分で担いで歩かなければならないのはなかなかつらい。

しかしタジキスタンの入国はいたって簡単。
ゲートで出迎えてくれた現地ガイドがまとめて手続きをして、結局国境は1時間半で通過した。

 ここからは4台の4WDに分乗して、いよいよタジキスタンの旅の始まり。

 国境から1時間でタジキスタン第2の都市、ホジャンドに到着。

第二の都会とは言えホテルはこんな感じ。
 
一応Wifiも使えるがサービスは素朴で、なんだかブータンのホテルを思い出す。
なかなかいいすべり出しだ。


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タジキスタン周遊 1 タシケントへ

2013-08-27 13:20:10 | 中央アジア
2013年8月4日より19日まで タジキスタン周遊の旅 

8月4日

今回は久しぶりにS社のツアー、「パミール・ハイウェイとワハーン渓谷」に参加。
定員9名のツアーに女性6名、男性2名、全員一人参加は辺鄙な行先ならでは。

まずは13:30、ソウル行きアシアナ航空に搭乗。
アメリカでの事故の影響で機材が小さなA320に変更になってしまったとやらで、チェックイン・カウンターのお姉さんは「オーバーブッキングなんです」と泣きそうな顔。
機内はどこかの専門学校生だろうか、若い女の子たちでキャピキャピ満杯。

ソウルまではわずか2時間半なので、パーソナル・モニターもない座席で機内食。
 白身魚の揚げ物は味が薄いが、チューブ入りコチュジャンをつけるとちょうどいい。
アシアナのコチュジャン、辛すぎずにうまい。

ソウルからタシケントへはまたアシアナで飛ぶが、乗り継ぎ1時間半に出発が30分遅れ。
空港内をうろちょろしていたら
 王様と王妃様のご一行が。
韓国、サービスのツボを押さえている。

ソウルからウズベキスタンのタシケントまでは7時間半。

なのでまずは夕食の機内食。
 今度は「プルコギ」を選択したが、まるでビーフシチューみたい。
楽しみにしていたビビンバはアメリカやヨーロッパ行きの長距離じゃないと出ないらしい。残念。

これをいただきながら少ない選択肢の中から映画を一本。

 「42 ~世界を変えた男~」は日本では11月公開予定の新作映画。
1947年、アメリカ・メジャーリーグに初めて黒人選手を入団させたGM、ブランチ・リッキーと選手、ジャッキー・ロビンソンの話。

でジャッキーがチームメイト、対戦相手、観客からの差別にも負けずにがんばり、やがて少しづつ認められて受け入れられる、というストーリーは予想通り。
おもしろいのは老齢のGMをハリソン・フォードが演じていることで、71歳の実年齢らしい役を演じるとは珍しいが、久しぶりにがんばっている。

まだ黒人差別が当たり前だった40年代、なぜ反対を押し切って黒人選手を登用したかについては映画の中では「実力があるから」程度しか語られず、ここはかなり物足りない。ウィキには黒人中流層の成長を見越したマーケティング戦略だったとあり、これが本当だとすれば面白いが、リッキーの「善人ぶり」が弱くなるか。

いずれにせよ、アメリカの野球映画にはずれなしは今回も実証され、傑作とは言わないが気持ちよく見られる良心的な映画。
たった60年前、アメリカの人種差別はこんなに露骨だったということを思い出させるだけでも今こういう映画を作る意味はあるだろう。

そうこうしているうちに着陸前の軽食配布。
 パンが黒パンなのがロシア経済圏に入った印か。

そして現地時間21:30、無事にタシケント到着。
この空港に降り立つのは15年ぶりだが、以前の記憶はあまりない。
ボーディングブリッジなどなかったのは確かだから、さすがに空港も大きくなっているのだろうか。


入国審査、荷物の受け取り、通関で空港を出るのに1時間半。
 荷物カート一つを借りるのにこんな券売機でトークンを買い、返金のためにはまた外のカウンターに行かなければならないという非効率さ。中央アジアに来たぞ。

夜も遅いのですぐ迎えのバスに乗り、タシケント市内のホテルへ。
 
15年前は各階に鍵番のおばさんが座り、枕は巨大な正方形のソ連式だったが、今はごく普通のホテル。

寝についたのは日本時間では朝の5時。


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タジキスタンとシリアと内戦のこと

2013-08-25 19:45:23 | 雑談
タジキスタンは日本ではなじみのない国だ。

「スタン」がつくから中央アジアのどこかだろう、ぐらいが関の山。
あるいはソ連邦の崩壊後に内戦があったこと、その後の国連監視団に参加した日本人が殺害されたことから「危険な国」というイメージではないだろうか。

ソ連邦の中でも最貧国だったタジキスタン。
ロシアの思惑により勝手に国境線が引かれた結果、国内にはタジク人、ウズベク人、キルギス人が存在し、北部と南部のさまざまな格差が内戦の原因だったというが、92年から97年まで続いた戦闘の結果、5万から10万もの人が死亡し、100万人以上が難民になったと言う。

そんな内戦終結から16年、現在のタジキスタンを旅してみれば、人々は実に自然体で優しく、身の危険を感じることなどみじんもなく、ツアー参加者の一人が旅の終わりに語った通り、「旅行中、一度も嫌な思いをしなかった」。

もちろん、いつの旅でも思う通り、たかがツーリストに見えるものなどほんの一部。
異なる民族間には軋轢もあるだろうし、30歳になる現地ガイドは「ナショナリズム」の高揚のためにイスラム色が強まっている現状を不満に思っているようだった。
「ソ連時代、私の村にはタジク人だけではなく、ウズベク人もロシア人も朝鮮人も、何の問題もなく仲良く暮らしていた。それが独立後にはタジク人以外はみんな国に帰ってしまった」

それでも現在のタジキスタンに内戦の爪痕はほとんど見えず、人々はごく平和に普段の生活を送っているように見える。

だからこそ内戦というのは恐ろしいものだと思う。
こんなにいい人たちがお互いに銃を向け、殺しあったのだから。

そしてその思いは最近のシリアのニュースを聞くとさらに強まる。
シリアもまた旅をすれば親切な人ばかりで、こんなにいい人たちはない、と思える国だったから。

もちろんシリアは2代続く独裁国家。秘密警察を使った恐怖政治も知らないわけではなかったが、現地で触れ合った人々は素晴らしい人たちばかり、さまざまな宗教も平和に共存しているようだった。
その人たちがこれまたばらばらになって殺し合いを続けているとは、信じたくない気持ちでいっぱい。

現在のタジキスタン、あるいはスリランカを見れば内戦が終了すればやがてはまた平和が訪れるだろうという希望も持てる。タジキスタンの隣のアフガニスタンのように、なかなか安定の訪れない不幸な国もあるが。

しかし一度火がつけば隣人同士でも殺し合いを始めてしまうという現実。人間はなんと愚かなのだろう。
そして日本では決してそのようなことは起こらない、とどうして言い切れるだろう。

それが恐ろしい。


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インド服のすすめ

2013-08-22 23:07:26 | 中央アジア
暑いところへ行く時、自分の荷物の中はほとんどがインド製の服。

今回もインドで買ったペラペラのパンツにゆるいシルエットのコットン製シャツが日差しが強く、乾燥しきった風土にぴったりで実に快適だった。

特に現地人にも好評だったのはやはりインドであつらえたパンジャビ・スーツ。
薄いコットン製で長袖にしてもらったので日焼け防止にもちょうどよかった。

なにしろウズベキスタン、タジキスタン、キルギスタンとも女性の服装はこんな感じ。
 
こちらではクルタというそうだが、インドでもシャツはクルタなので結局同じものなのかもしれない。
やっぱりこの恰好が風土に合っているのだ。

 こちらはお祝いの日に着るシルクの絣、アトラス。 
若いお嬢さん方は短めの上着に細身のパンツでますますパンジャビにそっくり。

中央アジアの旅にはインド服がおすすめ。


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中央アジアから戻りました

2013-08-19 17:23:33 | 中央アジア
今朝中央アジアから無事に戻りました。

現地では低地では昼間の温度が体温並み、もしくはそれ以上。
しかし乾燥しきっているので日陰でじっとしていればしのぎやすく、夜になればぐっと気温が下がって涼しい風が吹く。
標高3000メートル以上のパミール高原ともなれば、明け方の気温はおそらく5度以下。
4000メートルの峠では雪が降って氷点下に震えた。

そんなところから帰ってみれば、日本は予想通りのサウナ状態。
ふんだんに出る熱いお湯にやわらかいベッド、きれいなトイレに油の浮かない食事はうれしいけれど、早くも中央アジアが恋しいかも。

久しぶりの中央アジアは報告したいことばかりだけれど、まずは大量の洗濯物を処理せねば。


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ワハン回廊と鶴田真由

2013-08-03 15:57:16 | 中央アジア
ワハン回廊をご存じだろうか。

ワハン回廊とはアフガニスタンの北東部、タジキスタンとパキスタンの間にまるで尻尾か盲腸のように飛び出て中国につながる東西200km、南北15km、標高が4000mを超える土地である。

この地名を初めて知ったのはもう10年以上も前、確か年末か年始の特番だったと思うが、民放のある番組で鶴田真由がそこを旅行するドキュメンタリーがあった。

調べてみるとこの旅行は2001年のこと。
アフガニスタン国内はソ連の撤退後の内戦状態、中央部はタリバンが勢力をふるい、日本の女優を連れて番組撮影などもちろんできるような状況ではない。
しかしこの時期の北部はマスード司令官率いる北部同盟の支配下にあり、スタッフは当然彼らの許可のもとにワハン回廊入りしたと思われる。

取材班一行は中国のカシュガルからフンジェラブ峠を越えてフンザに入り、4930mのイルシャード峠を越えてアフガニスタンに入国する。

自分もフンザにはこの3、4年前に行ったばかり、ましてアフガニスタンは高校生の時以来あこがれの国。
フンザからワハン回廊の絶景を旅する鶴田真由が身もだえするほどうらやましかった。

とは言え人もろくに住まない、アフガニスタンでも辺境の土地。片道だけでも30日かかったという旅はテレビで見ているだけでも過酷で、美人女優がよく体一つ洗うこともできないこんな旅に同意したものだとその時も思った。どうも元々旅行の好きな人のようだが、旅の後半、持ってきた卵がみんな腐ってしまった、と笑いながら割っている姿にこの女優が好きになった。

この番組のことはずっと忘れられずにいたが、つい最近、アマゾンでこんな本を入手した。
 「インシャラ」

63日間に及んだワハン回廊への旅について、鶴田真由が日記のように毎日の感想をつづったエッセイ本。
これを読むと作者がこういう旅を好む、柔軟な感性の持ち主であることがわかる。
しかし残念ながらこの本は「女優のエッセイ本」。
旅程だけははっきりわかるが、実際にどのような経緯でこの旅行が実現したのか、どのような準備をし、どのような苦労があったのか、本当に知りたいことは何も書かれていない。

特に道中に現れて怖い思いをしたというキルギス系軍閥の息子のこと、最終目的地で北部同盟に足止めされ、パキスタンへの出国が危ぶまれたことなど、こういうことこそもっと詳しく知りたい。
この番組取材から帰った直後にアメリカの9・11テロが起こり、今や北部にも入国は難しくなってしまったのだからなおさらちゃんとした記録が読んでみたい。

というわけで憧れのワハン回廊。
今もアフガニスタンにはとても入れないので、川を挟んで同じワヒ族が暮らすタジキスタン側からちょっと覗いてこようと思う。

明日からウズベキスタン経由で、ちょっくら行って来ます。


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ウズベキスタン大使館

2013-08-02 13:50:21 | 中央アジア
大使館でビザ取得シリーズ、6回目はウズベキスタン。

以前は下目黒にあったらしいが、昨年末に引っ越して現在は高輪。
地下鉄の白金高輪駅から港区役所の支所の脇、中学校を見下ろす急階段を上がり、閑静な住宅街を歩くこと7、8分。高松宮邸の向かいをちょっと入ったところにウズベキスタンの旗が立っている。
 モダンな外装の大きな邸宅はちょっと予想外。
大体どこの大使館も行ってみると「へえ、こんな建物」と驚くことが多くて、それがおもしろい。 

 
旗の前を通り過ぎ、次の門がビザ申請を受け付ける領事部。
小さな門に鍵はかかっておらず、その先のガラス扉を開けるとすぐ左手に受付の窓口がある。

ウズベキスタンのビザ申請にはHPからフォームに入力し、その出力書類を持っていかなかければならない。
しかしこの入力フォームが不思議で、特に職業欄は選択肢がいろいろあってその中から選ぶのだが、政府関係が細かく分かれ、宗教関係者、科学者、運転手やら航空会社職員、さらにアスリートなんて選択肢まであるのになぜか普通の「会社員」という選択肢がなく、ましてや「自営業」なんてない。
しかたないので「現在無職の主婦、その他」を選んだけど、変な区分。

入国回数というのも変で、1回から10回までの選択肢の他にマルチもあり、どれを選んでもビザ代金は変わらない。ならばすべて申請期間内はマルチにすればよさそうなものなのに。

と首をひねりながらもほかに誰もいない窓口に申請書を出すと、ちょっとオタッキーな感じの日本人のお兄さん、「誕生日の記入が間違ってますね。」

これはやばい、出力しなおしか、と思ったらなんと、お兄さんがボールペンでちょちょっと書き直し。
滞在日数の部分も手書きで直して、「はい、これでOKです。受け取りは1週間後の夕方です」で預かり証もなにもない。
パスポートを預けてなにも書類が出ないのは今回が初めて。HP入力を義務付けながら手書き修正OKなのもおかしいし、さすが旧ソ連邦と言うべきか。

受け取りの際には2000円のビザ代金を銀行で振込み、その振込み証のコピーにサインをして持っていく。
自分はすぐにパスポートが戻ってきたが、前の2、3人は「今ビザにサインしてますからちょっと待ってください」と待たされていた。
なんだかゆるくておかしいぞ、ウズベキスタン。

しかし今回の旅行の目的地は実はウズベキスタンではないのだ。


過去のビザ申請シリーズ:

シリア大使館
バングラデシュ大使館
インドビザ申請センター
ネパール大使館
ミャンマー大使館


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