アクティブラーニングとは何か。本書にはこう書かれている。
ひと言でまとめると、プレゼンテーションやディスカッションのような様々なアクティビティ(学習技法)を介して、学習者が能動的に学びに取り組んでいくことを指す言葉である。(pi)
一時流行ったディベートなどもその一つであり、企業の研修にはつきもののグループワークもそうだと言えるだろう。
アクティブラーニングの事例として、アテネのアメリカ系インターナショナルスクール(国際学校)での取り組み例が紹介されている。もちろんプラスの評価事例としてだ。(pp27-30) しかし、本当にそうだろうか。インターナショナルスクールといっても、本書を読む限り、通っていたのはギリシア人が多いように取れる。もしアクティブラーニングが優れているのなら、ギリシアは人材を輩出しているはずだ。しかし実際は、ギリシアから人材が多く出ているという話は聞かない。経済はご存じの通りだし、ノーベル賞受賞者も文学賞以外は出していないし、フィールズ賞受賞者も出していない。ギリシアの人口が日本の10分の1以下ということを考慮しても、少し寂しい数字だ。
教育が有用なのは、おそらく普通の人々なんだろう。普通の人々を平均レベルに引き上げるのは教育が有効だと思う。ただしその手法に優劣があるという根拠はないことを指摘したい。一方、天才クラスになるとどんな教育を受けても、たとえ自学自習でも頭角を現すのではないだろうか。教師側に天才を教えられる人がそれほど多くいるとは思えない。実際天才と呼ばれた人の伝記を読むと、教師から何かを教わったというのは少ない。それどころか、学校時代の評価は決して高くはない。学校から教育を受けたというよりは、自分で才能を切り開いたのだろう。
教育の有効性を測るには、例えば、能力が同じような人を別々の教育法で教育し、ある期間の後に成果を比べるというようなことが考えられるが、実際には色々な問題があり、やることはできない。だから教育の世界では、フィーリングで「これ良さそう」だと思われれば、他に何の根拠もなく取り入れられる。ゆとり教育しかり、総合的学習の時間しかりである。それに付き合わされる子供たちにとっては、教育内容がころころ変わり、大迷惑なのだ。アクティブラーニングもこの流れの上にないことを願いたい。
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※初出は、「風竜胆の書評」です。