こう、毎日ブログを更新していると、レベル低下を招くのに。
なのに、なぜ、こうも、しつっこく更新するのか。
ま、あまり意味はありません。
無理やり言えば、自分探しでしょうか。
モラトリアムは、大人になる前の時期。
しかし、残りの人生のほうが少なくなっているというのに、まだモラトリアム?
一生、モラトリアムというのは、たんに、結果を出したくない、現実から目をそむける、
ひと言でいえば、「サボり」、だと思っております。
自分のほんとうの客観的価値を認めたくないんだと思います。
どんなに言い訳をしても、ゲタをはかせても、美辞麗句で飾りたてても、
サボリの自分が、いるわけでして。
と、皆さんを元気にさせる、とは正反対の、うだうだ前置きは、さておき、
ある60代、年金暮らしの方のブログをはじめて読んだ。
奥さんが亡くなった後の「おひとりさま生活シュミレーション」。
なかなかしっかり地に足が着いたシュミレーションで、参考になった。
わたしなら、どうするかな~。
配偶者が亡くなった後、異性とお付き合いしなくなると、どうなるか。
女性は色褪せ、男性は、アホになるんだそうだ。
これは、有名な劇作家、チエーホフが仰った、とても有名な「名言」らしい。
その方は、週に一度、必ず通うだろうという居酒屋や、
月に一度の国内旅行の旅館の仲居さんとおしゃべりしたりして、と、
メンタル面まで、細かくご自分のケア付きシュミレーションだった。
その方は、お子さんのおられない仲よしご夫婦のようだが、
仲のよくない夫婦でも、
配偶者が生きている間は、うっとうしくても、いざ、亡くなると喪失感は想像できないだろう。
わたしの場合、配偶者は無条件で、政府でも自治体でもないのに、
生活に必要なものは、なんでも与えてくれるんですもん。
雨露しのげる家に住め、食べ物、ライフラインが確保され、衛生面も保つことができ、
なに不自由ない生活を安心して送れるのも、協力者のいるお陰。
自分ひとりなら、安心感は得られないかも知れない。
と言いつつ、自分を守るのは、自分。
これは、基本だけれど。
その年金ブログの方は、配偶者、亡き後は、
家を処分し、小さな住まいに越し、公園と、本屋と、スーパー、居酒屋に通え、
大学病院に公共機関で行ける、
好環境の場所を確保したいとのこと。
お墓は、樹木園に埋葬し、49日以後は、墓参りも気が向いたらで結構、
別に無理にしなくてもいい、と。
(うちの、ばあさまに、聞かせてあげたいぐらい・・・)
なかなか具体的ですね。
わたしは、以前、テレビで紹介されていた、北欧の、一人住まいのおばあさんのお宅みたいな、
あんな家が理想。
自分は健康で、なおかつ、自宅に通ってくれるヘルパーさんが、いてこそ、だけれど。
はやくから高齢化対策を推し進める先輩国でもあり、
お国で福祉制度が整っていて、ヘルパーさんの質もよさそうだし、
(上限があるのかどうか知らないけれど)費用も税金でまかなってくれそうだった。
まあ、自分のシュミレーションとして、あそこまでいくには、まだまだ25年以上あと、の話だけれど。
もっと、短期、中期的に想定してみると・・・
体さえ健康なら、日々、細々と暮らし、
一方で、趣味などで溌剌シニアライフを送っている人々とも交流し、・・・
と、そこで、想像が、ぷつんと切れた。
そういえば、老人を二人抱えていた。
でも、まだまだ二人とも元気。とはいうものの、一寸先は闇。
わたしの想像は、急に、フルカラーからモノトーンに変わった。
しかし、自分だって年がいき、若い人々に、おなじように負担がられるに違いない。
数珠つなぎ。命の輪。
んーー、で、いきなり、結論。
いまを一生懸命、生きること。悔いなきように。
モラトリアムを楽しむのも、一案かも。
あ、それと・・・まったく関係ない、蛇足ですが(やはり蛇足は、最後に持ってきます)
いままで、なんでもかんでも、スゴイ!!と、
田舎もんのわたしは、大都市・東京を絶賛し、東京サマサマ、大東京を崇拝していた面があったが、
いま、わたしのなかで、ゆるやかに、壊れていっているようだ。
一極集中型の都市機能は、麻痺するとひとたまりもない。
大災害にはあまりにも、もろい。
二都構想が具体化できたらいいなと、感じる。
二都でも、三都でも四都でも、地方から元気を盛り返せたら、どれだけいいことか。
昔の都は、京都だったんだしね。
トップ画像は、またまた ご近所の花壇のお花です。
チューリップが、ぎっしりではなく、パラパラと植えられています。
以前にうちの庭にも球根を植えましたが、
年々、咲く花が少し減り、いつの間にか、咲かなくなりました。
手入れを怠ると、こうなっちゃうんですね。
わたしの行く末か・・・
頑張らなくっちゃ。