あるブログに、久しぶりにお邪魔した。
最近は、ご無沙汰気味なんだけれど、今日は、なんとなく。
「婚外恋愛 被害者の会」のような 暗黙の結束を感じるブログなので、
わたしは、まったく部外者なのだが、ブロガーさんの文章表現が面白いのと、
わたしが、別の関係ない分野で、
(例えば、知人に、「こんなこと言われました~、わ~ん」、とか、子供じみた落ち込み)
弱気になって、ウジウジしているときに、ちょっと励ましてもらったりして
元気を分けていただいている。
最近、落ち込むようなこともなく、わたしは、いたって快調なので、あまりお邪魔することもなかった。
このブロガーさんは、ご主人の度重なる婚外恋愛で、深く傷つき、辛酸をなめたものの、
健気に立ち上がり、再生されたキャリア、ノウハウを、同じような目に遭った奥様方にレクチャーされている。
ご自分の経験に基づき、同じ立場、目線で、問題解決をサポートする、ボランティア・カウンセラーみたいなものだ。
なので、ブロガーさんをはじめ、ほぼ全員が、夫に浮気された、被害者の奥様方。
痛みを分け合い、目線が、ひとつの方向に、全員一致で向いているところが、スゴイ。
法で保護された「正妻の座」ということで、
何が何でもすべて正しいのは、奥様という黄金セオリーで、始終一貫、統一されている。
加害者(夫と、相手)は、悪、被害者(妻)は、正。
被害者にはなんの落ち度も、なにひとつとしてない、・・・・ように見受けられる。
夫が婚外恋愛に走った家庭の原因究明などは、いっさい行われないところが潔い。
もちろん、ご主人の家庭復帰、家庭回帰、家庭再生を目指し、
同時に、奥様方の精神的ダメージの軽減を目的としている。
サンプル・イメージや、話の登場人物モデルが、非常に統一感がある。
なんというか・・・うーーーん・・・なんというか・・・その・・あの・・・・・うーーん・・・
わたしが小さいころ?(若いころ?)読んだ漫画か、テレビドラマの雰囲気と少し似ている。
そして、いま、昼メロで、ウケ狙いがありありとわかる、デフォルメされた、演出、脚色の、愛憎劇、
あのテイストに共通するものがある。
事件が繰り広げられる舞台が、都心部とは、けっこう離れた長閑(のどか)な地であること、
地域的な特徴も加味されているのかも知れない。
べつに、わたしが、自分は都会の洗練された人間だと言っているわけではない。
わたしも田舎もんだし。
田舎もんが、悪いといっているわけではない。
田舎もんには、田舎もんの良さがある。
わたしのまわり近親者は全員、生粋の田舎もん。
なので、わたしも当然、田舎もん。
みなさん、田舎もんだと自覚していないみたいだけれど。
ま、それはそれとして・・・
そのブログに話を戻そう。
地域性だけでなく、わたしが理想としてる描いているイメージ、方向性と、真逆なわけだが、
いくらアタマで考えても、現実とはこういうものだろう。
フェミニズムの権威で、社会学者の上野千鶴子さんは、
あくまでも学問として、女性を社会的に研究する人だ。
実際の家庭や、職場での現状を目の当たりに見て、肌感覚で知っておられるわけではない。
学問と現実には、大きな大きなギャップがあるということだ。
だが、このギャップを、知ることから始める。
一朝一夕には、埋めようもない、大きな溝ではあるけれど、
知ると知らないでは、大違い。
ただし、義務を放棄して、権利ばかりを声高に叫んでもだめ。
自由ばかりを求め、責任を放棄しては、片手落ち。
やることをやってこそ、目いっぱい、口いっぱい、言いたいことが言える、というもの。
言いたいことを言ったからといって、その要求が通るなんて思ったら、これまた甘い。
それから、イバラの道が待っている。
やる気がないんなら、現状で満足すべき。
やる気があるけど、行動、実践しているけれど、現状に満足できないなら、継続すべき。
継続しているのに、現状に満足できないなら、別の手を考えるべき。
知力、体力、精神力、フル回転すべき。
それでもダメなら、時機を待つ? 時代の到来を待つ?
待ってたら、死んじゃいます。
あるいは、待ちに待った時機が来ても、もはやヨボヨボで要介護の身。
アタマはもちろん、耳も目もかすみ、気力も失せてることでしょう。
そうなる前に、渇望したまま、志を、貫き通すことが出来ないまま
かっと目を見開いたまんま死んだほうが、まだまし?
いえいえ、別の人格になり、こころ安らかに、余生を送るのも悪くないかも。
ただし、QOL(Quality of Life 医学的な意味での、「生活の質」)は、維持したいけれど、
ままならないこともあるでしょう。
おっと、またもや、話が逸れてます。
同じ女性でも、いろんな人がいるってことです。
いろんな場所で、いろんな生き方をしている。
環境は、考えを左右する。
同じ立場ではないのに、同じ意見や感想を求めることは不毛。
なので、サラダボウルのように、いろんな野菜たち、混ざらないけれど、
色とりどり、いろんな種類をおいしく食べて、健康になればいいなあ、って、
そう思う。
人種の坩堝(るつぼ)のアメリカ、いろんな人種が共通文化を形成し、
サラダボウル(salad bowl)に例えられるそうだが(なかでもNY)、それは、
「混ぜても決して溶け合うことはない」 という共存共栄のスタンスかららしい。
さまざまな人々の調整、協調が、これまた難しいんだけれど。
で、話に、まとまりがなく、長いだけになったけれど、そういう日もあるってことで、
ここで、おしまいです。
みなさん、がんばりましょ。