蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

捨てられないモノに囲まれて、歳をとる・・・

2011-05-30 | 暮らし

一昨日、昨日、と、激動の日も無事、通過し、やれやれの週明け。
激動といっても、単にわたしが、やるべき宿題をほっぽって、ギリギリまでサボっていただけのこと。

とにかく、とりあえず、その日が過ぎると、また日常モードになった。

「無事、終了した」と言っても、未整理のまま箱につっこんだままの、わけのわからない品々、
あれをどうにかしないといけない。

そう思いつつ、また、次のゲスト来訪の時には、別の未整理の箱が増えているだけなのだろう。
「断捨離」とは、まさしく、わたしのためにあるような言葉。


ある人の嫁ぎ先(実家)、永年、モノを片付けず、増える一方の、開かずの間が、たくさんあるそうだ。
老人ホームに入所されているお姑さんの代わりに、その息子夫婦が家をリフォームすることになった。
お姑さんは、婿養子をもらった人なので、生まれた時から、ずっと実家暮らし。
家では絶対的権力を持ち、君臨する独裁者。
婿養子の夫には、手出しをさせず、モノは増えても、奥へ奥へと、押し込むばかり。
80年以上の年月が経つと、そのモノは、姿かたちを変え、ものすごい大量の不用品、ゴミの山と化した。
それらを廃棄するのも大変だが、一番大変なのは、仕分け作業。
必要?不必要? 高価?安価? 貴重?非貴重?
持ち帰ってもらうのは、ゴミ回収業者? リサイクル業者? 骨董品屋? ボランティア寄付団体? 

当の本人には、すべてが思い出の品々。
気持ちの入った大切なモノを思い切って処分できなくても、近親者ならOK。
客観的判断で。

ただし、骨董品か、ただのガラクタか、それを見分けるのが、かなり難しいらしい。
「うーーん、いい仕事してますね」と、なんでも鑑定団みたいな人が、ジャッジしてくれるならともかく、
自分に見る目があるか、よほど信頼のおける人に頼まない限り、
そのお家は、旧家なので、良い品も、ガラクタといっしょに捨ててしまうことになる。

見る目がないことを知って、足元を見て、全部、ガラクタだと言い切る悪徳業者もいる。
が、自分で仕分けると、見分けがつきにくいものを取りあえず、取っておき、ガラクタだらけになる。
選択を迫られ、お嫁さんは、頭を抱えておられる。


とりあえず、生きているうち、体や目が利くうちは、
客観的に大事なものは、誰の目から見てもわかるようにしておくべきだ。
自分にだけ大事なものは、それなりに、自分にだけわかるように、保管しておいて、
いざとなったら、自分で処分するか、捨ててもらうか。

わたしの場合、悲しいことに、自分にとっては大切なものでも、客観的には、ほとんどゴミ。
モノを大事にしすぎる性格が、日常生活において、完全にアダとなっている。


夫の実家は、舅(故人)が整理魔だったため、あらゆるモノが整理整頓されている。
姑も、きちんとした人。
だが、我々夫婦は、とんでもなく整理整頓ダメ人間。
なので、そのまま、そっくり息子に実家を押し付けようと企てている。
それで息子は、その気配を察して、帰ってこないんだろう。

雨露はしのげるので、息子が仕事をリタイアする頃に、夫の実家には、ちょいっと顔を出してもらえたら
それでいいと、わたしは、思っている。(夫は違うようだが)
息子は2年前に就職したばかりなので、あと、何年? 35~40年後?

わたしは、その頃は、もし重い病気を患っていなかったら、まだとりあえずは、
生物としては生きているかも知れない。

やっぱり、20年後ぐらいには、夫の実家に、ちょいちょい顔を出してほしいかも。
(夫は明日にでも、と思うようだが)

それより、わたしは、その頃、どこにいるんだろう?
(生きていると仮定して)

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ 人気ブログランキングへ