人に期待しなくなった。
期待して思うようにならなかったら、失望するから。
自分にも期待しなくなった。
毎日、自分自身のことで失望することが増えてきている。
ブログなどで、想いをぶちまけると、スカッとしていた。
今は、、、、あまり、「ぶちまける」こと自体がなく、静かな悲しみのような、諦めのような、わけのわからない涙を流すことがある。
たぶん、自分の、緩やかなマイナス方向に進んでいることに対する「惜別」や「無念」からか。
不思議と、「虚しさ」はない。
きっと今まで充実して楽しかったと自分では思っているからだろう。
これといって、深刻な事情や病気を抱えているわけでもない。
自分にしか興味がないわたしは、自分の不出来さえ面白がっていたが、今は笑えない。
別に何があったからというものではない。
どなたかが引っ張り出してきた、わたしの過去記事を読むと、怒りなど負の感情、逆噴射をエネルギーにしていると感じる。
あの頃は、元気だったんだね、わたし。
他人を見るような、懐かしい気さえする。
まだ10年も経っていない、ほんの少し前なのに。
今は幸せなんだろう。
幸せって、じつは、アタマの中になんにも無いこと?
幸せって、自分が消えていくことなのか?
自我をなくすと、不満も消える?
自我とはまた違う何か、、、
、、、抽象的なことを書いても面白くない。
母の悪口でも書けば、ちょっとは盛り上がるかも知れないが、もう盛り上がらない。
懐かしいだけだ。
そんなこともあったなあ、と。
過去形。終わったこと。
そうやって、どんどん終わったことが増えていく。
これからのことと言えば、数時間後に孫が来る。
だから、今のうちに準備しよう、ではなく、今のうちにサボっておこう、である。
わたしは、なんてサボりなんでしょう。
サボるの大好き。
ぼけーっと何にもしないの、大好きである。
自分と同等の生きもの(=人)と接触しないと、心身共に活性化しない。
わたしは、ペットを飼わないし、興味もないので、ペットの世話に明け暮れたり、癒されたり、ペットロスで悲しんだりすることはない。
生きものは、人間だけで充分である。
最近のわたしは、なだらかに柔和になり過ぎて、脳みそも、もはや原型を留めていないかも知れない。
人に迷惑はかけないが、役にも立たない。
(これは前からか)
自分を面白がるにも、あまり面白い要素がない。
だから、別サイトの趣味関係SNSでも、もう3つも記事をお蔵入りにしている。
書いても書いても、ボツにする。
訂正、加筆を重ねても、新しく書いても、アップに至らない。
自分を面白がっていないからだろう。
おそらく過渡期だと思う。
着たい服が変わってくるように、書きたいことも変わり、今までの内容では面白くなく満足いかなくなっているが、次の新しい芽が出ていない。
現状を否定するものの、代案は生まれていないようだ。
季節の変わり目、節目のように、脳みその変わり目なんだろうか。
人生の区切り、3つ目に差し掛かっている。
4つある中で(4つ目は人生終了)、3つ目を飛ばしていきなり4つ目に強制移動の場合もある。
仕事一筋の人がリタイアしたら、毎日サンデーをどう過ごすか、膨大な選択肢を目の前に悩むこともあるだろう。
指折り数えて待っている人もいるだろう。
薄々予想はしていても、その時になってからしっかり考えようと思っている人もいるだろう。
わたしはリタイア世代の中では最も若い。
(リタイアを70歳まで引き上げようと政府は目論むが)
(お年寄り愛好家の中では一番若い、社交ダンスと同じだ)
余りあると思っているのは時間だけ。
健康とお金は、無限ではない。
膨大な時間だけあっても、その時間を楽しく有意義に使えないと意味がない。
ぼやぼやしているうちに、黄金タイムは過ぎていく。
焦ることはないのだが、あくせくせず、もったいなく使う黄金タイムが一番贅沢な幸せかも知れない。
長いばかりで眠たくなった、今日のブログ。
午前の睡眠導入剤だ。
期待して思うようにならなかったら、失望するから。
自分にも期待しなくなった。
毎日、自分自身のことで失望することが増えてきている。
ブログなどで、想いをぶちまけると、スカッとしていた。
今は、、、、あまり、「ぶちまける」こと自体がなく、静かな悲しみのような、諦めのような、わけのわからない涙を流すことがある。
たぶん、自分の、緩やかなマイナス方向に進んでいることに対する「惜別」や「無念」からか。
不思議と、「虚しさ」はない。
きっと今まで充実して楽しかったと自分では思っているからだろう。
これといって、深刻な事情や病気を抱えているわけでもない。
自分にしか興味がないわたしは、自分の不出来さえ面白がっていたが、今は笑えない。
別に何があったからというものではない。
どなたかが引っ張り出してきた、わたしの過去記事を読むと、怒りなど負の感情、逆噴射をエネルギーにしていると感じる。
あの頃は、元気だったんだね、わたし。
他人を見るような、懐かしい気さえする。
まだ10年も経っていない、ほんの少し前なのに。
今は幸せなんだろう。
幸せって、じつは、アタマの中になんにも無いこと?
幸せって、自分が消えていくことなのか?
自我をなくすと、不満も消える?
自我とはまた違う何か、、、
、、、抽象的なことを書いても面白くない。
母の悪口でも書けば、ちょっとは盛り上がるかも知れないが、もう盛り上がらない。
懐かしいだけだ。
そんなこともあったなあ、と。
過去形。終わったこと。
そうやって、どんどん終わったことが増えていく。
これからのことと言えば、数時間後に孫が来る。
だから、今のうちに準備しよう、ではなく、今のうちにサボっておこう、である。
わたしは、なんてサボりなんでしょう。
サボるの大好き。
ぼけーっと何にもしないの、大好きである。
自分と同等の生きもの(=人)と接触しないと、心身共に活性化しない。
わたしは、ペットを飼わないし、興味もないので、ペットの世話に明け暮れたり、癒されたり、ペットロスで悲しんだりすることはない。
生きものは、人間だけで充分である。
最近のわたしは、なだらかに柔和になり過ぎて、脳みそも、もはや原型を留めていないかも知れない。
人に迷惑はかけないが、役にも立たない。
(これは前からか)
自分を面白がるにも、あまり面白い要素がない。
だから、別サイトの趣味関係SNSでも、もう3つも記事をお蔵入りにしている。
書いても書いても、ボツにする。
訂正、加筆を重ねても、新しく書いても、アップに至らない。
自分を面白がっていないからだろう。
おそらく過渡期だと思う。
着たい服が変わってくるように、書きたいことも変わり、今までの内容では面白くなく満足いかなくなっているが、次の新しい芽が出ていない。
現状を否定するものの、代案は生まれていないようだ。
季節の変わり目、節目のように、脳みその変わり目なんだろうか。
人生の区切り、3つ目に差し掛かっている。
4つある中で(4つ目は人生終了)、3つ目を飛ばしていきなり4つ目に強制移動の場合もある。
仕事一筋の人がリタイアしたら、毎日サンデーをどう過ごすか、膨大な選択肢を目の前に悩むこともあるだろう。
指折り数えて待っている人もいるだろう。
薄々予想はしていても、その時になってからしっかり考えようと思っている人もいるだろう。
わたしはリタイア世代の中では最も若い。
(リタイアを70歳まで引き上げようと政府は目論むが)
(お年寄り愛好家の中では一番若い、社交ダンスと同じだ)
余りあると思っているのは時間だけ。
健康とお金は、無限ではない。
膨大な時間だけあっても、その時間を楽しく有意義に使えないと意味がない。
ぼやぼやしているうちに、黄金タイムは過ぎていく。
焦ることはないのだが、あくせくせず、もったいなく使う黄金タイムが一番贅沢な幸せかも知れない。
長いばかりで眠たくなった、今日のブログ。
午前の睡眠導入剤だ。