いつもくだらない呟きをお読みいただき、ありがとうございます。
恥ずかしいですが、励みになっています。
わたしは、口ベタで、しかも、素っ頓狂(すっとんきょう→漢字にするとこうなる?)で、時々自分だけがわかる宇宙語を話の脈絡から明らかに外れたタイミングで、相手のことを考えず使うので、めんどくさがられ理解されない。
(家族はわたし語を理解するが、外では通じず家庭内のみ。
家族はめんどくさいので、わたし語を聞いて聞かぬフリ)
自覚ありなので、なるべく脳内感想は口に出さないようにしている。
これぐらいなら、わかってもらえるかな?という感想をちょっと話しても、全く理解されないことがあり、一般的なかなりわかりやすい言葉を選んで話しているのに、、、と悲しくなると同時に脳内逆ギレして、「この人は想像力や読解力、国語力はあるのだろうか?」と疑問に思うこともある。
明らかに意味がわかっていないのが、ありありとわかる。
説明するほどの、ぜひわかって欲しい内容でもないので、「意味がわかってないことがわかる」ということに留まる。
ブログの場合は、意味不明のことは読み飛ばすと思われる。
英文読解の時に、わからない単語が出てきた時にとりあえず飛ばして全体的な流れから想像する。
いちいち止まっていたら、進まない。
ブログは、わからない部分が出た時点で邪魔くさくなり、読むのをやめる、放棄するのも大いにあり。
頑張って読み解いても別に得するわけでもないので。
(ブロガーとしての、丁寧にわかりやすい表現をする努力義務を怠っている)
で、話を戻す。
その、対面で話していて、シンプルな会話でのわたしの話を理解してくれない人は、理解しようと努力していない。
32歳ぐらいの頃、アメリカに短期間ステイした時に、わたしは異国に暮らしたなら、自分はハンディキャップ人間だと実感した。
言葉がわからない、通じない。
耳が聞こえないか、話せないのと同じ障害(のようなもの)を抱えていた。
親身になって、わたしに寄り添うように話を聞いてくれると、どうにか通じるが、忙しいバスの運転手さんや、店員さん、関心や興味がなく関わりたくないと思っている赤の他人には、通じなかった。
こちらが、なにがなんでもコミュニケーションを取りたいと頑張れば、身振りや表情、声のトーンで伝わるものがある。
相手がこちらに近寄るか、こちらが相手に近寄るか、距離を縮めなければ話は通じなかった。
それと同じで、日本語を母国語とする同世代の似たような環境にいる人でも、相手に興味がないとか、好きでない(苦手)、かかわるのが面倒、という場合は、あえて頑張って相手が言っていることを理解しようと努めない。
すると、何言ってんだかわからない、、、ということになり、あえて質問したりして深追いもしない。
放ったらかしで、距離が保たれ、やがて疎遠になる。
どちらかにコミュニケーションを取ろうという意欲がないと、さーっと流れてしまう。
企画のプレゼンテーションなどは、かなり相手のこころを鷲掴みにしないと、印象に残らない。
自分がしたいことを強く働きかけないと、皆んなのこころに引っかからない。
呼びかけるアクションを起こさないと、誰も振り向いてくれない。
別に振り向いてもらい、自分を理解してもらう必要がなければ何の問題もない。
だが、その必要があることもある。
必要があっても、わざと黙殺することもある。
世の中は、熱き美しい情熱やキレイごとでは済まされない、色々難しい仕組みになっている。
わたしを理解して!と望むなら、アクションを起こさないと、自然になすがままにしていると、誰も何もしてくれない。
棚からぼた餅は、ムシが良い話。
誰もわたしをわかってくれない、、、のは、わかるように働きかけていない。
(といっても、セフティネットから溢れ落ちてしまうような深刻な事例には言及していない)
してもらって当然ではない。
善意にすがるのも、良い場合と良くない場合がある。
大人なら、自分の身は自分で守る。
そのためには待ちの姿勢ではなく、自らが働きかけないと動いてくれない。
当たり前のことなんだが、わたしは若いある時期、異国にいる自分を見て客観的な自分が見えた。
何を今更、、、の未熟な話で幻滅、ガッカリされたことだろう、、、
いいの、いいの。笑われても。
所詮、わたしはそんなもん。