蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

癒しの微笑には、ワケがある。

2011-02-04 | わたし

わたしのブログ、おカタイ、ですよね。

自分でも、そう思います。

なにやら、辛気くさい、めんどーで眠くなりそうなゴタクを
自分本位の安易なレベルでこじつけて、ひとりで面白がっているだけ。

大胆に、豪快に遊んだ話とか、
大きなことや、立派なことをやり遂げた話とか、
夢いっぱいのキラキラとか、

・・・ないです。

さらにないのは、イロっぽい話。
これは、ご期待に添えません。
わたしからの発信は、おそらく瀬戸内寂聴さんぐらいに達しないと、しませんので、
想像のみで、対応していただくしか手はありません。

わたしは、軟派か、硬派かというと、迷うことなく、躊躇することなく、軟派なのですが、
「硬派グループ内での、軟派」というのが、好きなポジション。


さて、ここからは、ナニ様発言です。
(一部、自分への警告も含まれています)


わたしが、苦手とするタイプは

女性週刊誌を買ってまで読む女性
男性日刊紙を買ってまで読む男性
芸能人のゴシップ番組を必死で見ている女性


ムツカシイ話が理解できないくせに、それを認めようとしない人
それどころか、自分を正当化するあまり、逆ギレする人。


女性ヌードとか無神経に、でかでかと載っている男性向きの大衆・娯楽新聞の、
やたら大きなデカデカ見出しに、申し訳程度にくっついている数行の、
そのごく一部の情報だけを読んで、
あとは、垂れ流しのテレビ番組をだらだら見て、
インターネットも、世界のニュースや、経済とかは素通りで、自分の趣味のサイトに一直線、
学生時代から現在に至るまで、知識欲はまったくなく、
(自分には知識がない、ということすら気がつかず)、
情報ソースは、たった、それだけで、
すべてを知ったかのように、ものごとを知ったかぶりする人。

こういう人の話を聞かされると、ほんとうに、・・・うぎゃーーーっと全身が痒くなる。
仕事がらみのお客さんだったりすると、失礼なことも言えないし。


自分がベストだと信じ込んでいる人。
頑張っていた分野で、一番になれないときは、
とっさに、方向転換、転身し、価値観を翻(ひるがえ)し
一番になれなかった分野の、一番の人に、「今は、もう、そんなの時代遅れ」
とかなんとか言って否定し、自分の次の分野の価値観を押し付け、優位に立とうとする人。
絶対に、自分より優位な人を認めない。
勝ち気はいいが、負けを認めないのは、潔くない。みっともない。
同じ分野で、返り咲くほうが、よっぽど、あっぱれ。


自分がルール、自分が法律の人。

人間、バランス、というものが大事。
デキる人は、とかく、他を認めない君主になりやすい。
謙虚なこころなど、まるでない。
デキない人は、グチるだけ。
どっちも、よくない。
でも、それで、緊張感が保たれて、均衡が取れている。

デキる人は、闘う人。
デキない人は、最初から降りている人。
弱肉強食の世界。
強者は、負けたヤツのことなんか、手を差し伸べたり、面倒みない。


自慢をする人。
自分もさることながら、家族自慢も、たらたら。
聞かされるほうは、なんや、そんなの、たいしたことない、と内心、思っても、
口に出せない、もどかしさ。
「ほう、すばらしい!!」と誉めたあと、さて、自分の家族のことを少しでも言おうとすると
「そりゃあ、あなたのところは、ご立派ですよね」
と、皮肉と敵意をむき出しにする人。


こういう人、やりにくいです。
いつも、ガツンと言ってやりたい思いでイッパイなんだけど、
ああ、かなしい、その根性がない。
にっこり笑顔で、「いつも、スローさんは、癒しの笑顔ですね」と
一見、誉められているようで、じつは、軽んじられている。

わたしのトモダチは、ブログだから、いいもん。
と、きょうもグチっている、情けない、わたし。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ 人気ブログランキングへ

ブログをゴミ箱化してはいけません。 
正々堂々と、「癒しの微笑」を返上して、「きちんとした真顔」にならなくては。

と、いつも思うだけ・・・


キレイ、楽しい、それだけでいい。

2011-02-03 | 無題

このトップ写真は、2000万人もの加入者がいるという、かの日本最大・超大手SNSのmixiで、
わたしが、たった一人だけお邪魔している方の日記から
ちゃんと、ご本人の了承をいただいて、お借りしてきたもの。

この方、Uさんは、ランドスケープ・都市計画プランナー。
わたしの活動圏(うろうろしてるだけですが)にリンクする場所、時代と、
部分的に共通するものがあるので
他人とは思えない、地元仲間みたいなものだ。

お顔も知らないし、お会いしたことはないし、アタマのレベルは、雲泥の差で、
わたしは、彼ら知識層からは、はじき出されているが、
そんなの、へっちゃら。

Uさんは世界中の街々を歩き回るのが趣味。
あまり知られていない、日本国内も。
この写真は、ミク友(ミクシ―の友人)たち全員に、不評を買っていた。
なぜなんだろう。
知識人ウケが、よろしくない。

最近の日記では、
ウィーンのザッハトルテや、いろんなところの美味しそうな、あるいは、ユニークな
スィーツを紹介されている。
そのなかの、ひとつが、この、北京のカフェで見かけたという、
やたら美しいデコレーションケーキ。
(けれど、人口着色料たっぷりそう・・・)

このニセモノっぽさが、美しくていいんです。
ほんとうにオイシイものは、見た目は、ここまで美しくないんです。
逆説、アイロニー、パラドックス・・・(知っている単語をみな、並べてみた)

ぐにゃり、曲がったキュウリやら、不揃いの果実やら。
オイシサとは別に、それぞれの個体独自が持つ、カタチがあるんです。


この北京のケーキは、オイシサをアピールしているのではなく、
鮮やかな色彩、カタチ、デコレーションが、いかにもっぽくて、わたしは好きなんです。
だからといって、ぜひ食べたいというのではなく、眺めると、目が喜ぶ。

ほんとうにオイシそうなケーキの、オイシさとは、また、違うものなんです。

たしか、東南アジアのどこかのホテルにも、こんなデコレーションが飾ってあったなあ・・・
(マレーシアかも知れない)


色彩や美の感覚、趣味、嗜好って、お国や、土地柄によってずいぶん違う。

食べモノ、着るモノ、使うモノ、眺めるモノ、飾るモノ、・・・用途によっても、違ってくる。
建築、ランドスケープ、家具、室内装飾、乗り物、食器、文具、家電、生活用品、・・・

そこかしこ、デザインが、いっぱい。あふれている。

時代や、場所、階層によって、観て感じたものは違うだろう。
実際の時代には行けなくても、映画や、書物などで、知ることができる。
長い間、想像していたものと、実際に見たものとのギャップ、あるいは、一致。

なんだか、おもしろい。わくわくする、未知の世界。


この日曜日に読んだ新聞に、「芸術作品の見かた」のような内容の書籍の広告が載っていた。
なんの、知識も、先入観もなく、自分独自の目で見る見かたもある。
(わたしは、その、ど素人方法だった)

が、わけもわからず、めちゃくちゃに、あれもこれも、ばらばらに、かむしゃらに、
見る、観る、試す、食べる、触る、嗅ぐ、乗る、座る・・・あれこれ、あれこれ
を繰り返していて、ふと気づくことがある。

経験を重ね、方法やルールを知ったうえで、鑑賞すると、
またひとつ、味わいが深くなるような気がする。
すとんと、こころに響く、先人たちの、積み重ね、培われた知識、解説を理解することで、
またひとつ、ふわ~っと上の階に上がるような、そういう心地よい錯覚のようなものを覚えた。
といっても、それは、4日前の新聞広告を見ただけであって、
実際に、その広告されている本を読んだわけでもないのに。

わたしは、いかにイメージ寄りの人間か、っていうことだ。
やってもいないのに、体験もしていないのに、擬似体験したような、すぐ、その気になる。

このケーキは、べつに、どうこう、難しいことを言うつもりは、まったくない。
ただ、わたしが楽しいだけなんです。


 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ 人気ブログランキングへ


ウィーンからロンドンへ~ルーシー・リー展

2011-02-02 | 展覧

地下鉄・淀屋橋駅を降り、市役所の南側を、土佐堀川に沿って東に、とことこ歩く。

中之島図書館、中央公会堂の前を、すたすた。
ノスタルジック大阪ですね、このあたりは。
この近くにオフィスがあり、永年勤務していたので、この界隈はわたしにとっては、庭。
いまさらながら、写真を撮っている自分の姿が、なんだかおかしい。

さて、目の前に見えるのは、大阪市立東洋陶磁美術館。
本日のお目当て、ルーシ−・リー展が開催されている。

入口に進むと、コートや持ち物を預けられるロッカーがあって、おお助かり。

日曜日に、下娘Rが、ぽろっと、こう言った。

「ルーシー・リー展やってるって、ポスターが貼ってあったわ。」

「へー、そんな人、知らないわ・・・
中国人みたいな名前やねえ。だれ?」

とわたしは、言い終わらないうちに、グーグルで調べた。

テレビCMにも顔を出している、今、話題の30代女性陶芸家が、先日、TVで紹介されていた。
番組中、その人が、ある陶芸展に行って、感激しながら観ていたが、
この作家、ルーシー・リーかも知れないと直感で思った。

大阪での展覧は、2月13日まで。
ぼやぼやしていたら終わってしまう。
わたしが、行ける時間は限られているので、さっそく、行ってみた。

 

この東洋陶磁美術館に足を運ぶのは、2度目。
初めてのときは、朝鮮・古美術展だったが、けっこう、ちんぷんかんぷんだった。

音声ガイド器を借りる。500円也。
ナレーターは、樋口可南子。
あまり、役に立たなかった。
おそらく、事前に予習していったからだ。
それと、ガイドを聞きながら、観ながら、さらに、説明書を読みながら、を同時にやったので
アタマと目と耳が、ミックスジュースになってしまったようだ。

女性客が多い。
平日の日中ということもあってだろう。
若いカップルも、ちらほら。
若くないカップルも。

ピンク、深く澄んだブルー、グリーン、ゴールド、濃い茶、オフホワイト、うすいブルー
シンプルなフォルム、溶岩釉の奇跡、・・・
芸術は、いつの時代にもモダン。

とりわけ、ピンクが気に入ったのだが、その器の前で、じっと動かない若い女性がいて
わたしは、ぜんぜん、観られなかった。
しかたなく、それは飛ばして、ほかの作品を観ていたが、ある程度、時間が経過して
その女性が立ち去ったあと、引き返して、やっと観ることができた。

女性は、老いも若きも、ピンクが好きなのかな。

今、店頭や食器棚に並んでいる、ふつうに、毎日、目にしている食器。
これは、伝統を切り拓き、新たな作風を生み出す先駆者がいて、
それが認められ、浸透し、流行し、
さらに模倣され、大量生産され、定着しているのだろう。

ルーシーは、ウィーンの裕福なユダヤ人家庭に育ったが、
忍び寄る戦争のため、ロンドンに亡命した。
この、情報収集力、人脈、財力、早い判断が、命を救ったともいえる。
国に留まった、多くの才能ある人々が、ナチスに捕えられ、命を落としたことだろう。

戦争の頃は、生活のため、陶器のボタン作りに精を出し、
来る日も来る日もキャベツだけ、という苦しい生活を送っていた、
そう、当時を振り返るルーシー。

(うちも、いま、来る日も来る日も、キャベツ、キャベツ、キャベツ。
娘Rは、「ルーシーは、『第二次世界大戦』で。うちは、『キャベツ戦争』だ」という)
はい、ハナシが脱線しました。

時代の先端を行く、その背景には、なにがある?
伯父の家には、古代美術品が並び、それらが大好きだったというルーシー。
開業医の父は、フロイトとも親交があった。
20世紀初頭のウイーンは、クリムトやシーレなどが活躍し、新しい芸術の風が巻き起こっていた。
新進・天才建築家に依頼して作ってもらった新居は、とてもシンプルなもので、
機能美あふれるデザインは、ルーシーに大きな影響を与えた。

そういった背景、環境、実際に目で見て触れ、実感し、
知的要素、美の要素を、醸造し、独自の感性で創り上げ、数々の芸術品を生み出した。

ご本人は、「自分はたんなる陶芸家であって、芸術家ではない」、とおっしゃっていたが。

1995年に、93歳で亡くなったルーシーの、没後、はじめての本格的な回顧展。
年齢が上がるにつれ、円熟みを増すとともに、作品にはますます瑞々しさを感じた。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ 人気ブログランキングへ

 

感動すること、そして、わきあがる情熱。

これって、大事ですね。

 

 


どよよんと暗い、そういうこともある。

2011-02-01 | わたし

今日は、からっぽ病に侵されている。

アタマが、空っぽ。
なにも、アウトプット発信するものがない。

こころって、生きている。
なにも原因がないのに、上昇したり、下降したり。
不思議。
思い当たるフシはない。

上娘から、嬉しいメールが来たりして、
昨日は、じんわり喜んだのに。

毎日、少しずつ生きて行けば
人生って、特別なことはしなくても、じっくり、ゆっくり進むものなんだなあ・・・
そう、感じたばかりなのに。

今日は、一変して、なんだか元気がない、わたし。

今日から2月。
はやいものです。

自分の老後を考えたりして、ちょっと落ち込んだ。(もうすでに老後?)

いまのまま、このままの延長で、いきたいけれど、
無理なんだろうなあ・・・と、ため息。

夫の実家の玄関や、門をアタマのなかで再現させて、
ぴしゃりと内側からカギをかけ、
郵便屋さんがチャイムを鳴らす度に、(あのメンドーくさい旧式ネジタイプの)カギを
ガチャガチャ、くるくる、いちいち開けて顔を出す自分を想像した。

あの奥サン、かなりの変わり者ですねえ。

ご近所の声が聞こえてきそう。

毎日、毎日、夫の食事の用意をし、ふたりだけで、過ごす、あの家。

考えただけでも、・・・・・

「住めば都」と、よくいうじゃない。
ほんとう?

子供は、だんだん大きくなり、親から離れ、
ひとは、だんだん年をとり、やがて死ぬ。

いまのわたしは、子供が離れ、老いた親がいる、その中間をうろつき彷徨っている。
わたしのことを「子離れしていない」と、あるひとに指摘された。

「そんなことないよ」と例をあげ、反論すると、「いいえ、してない」と、きっぱり言われた。
経済的にでもなく、時間的にでもなく、労力的にでもなく、「精神的に」だそうだ。

恋人とか、そういう男女の愛なら、あきらめもつくだろうけれど(あくまでも想像)、
子供への精神的依存心は、大人として自立できてない証拠とのこと。

これが、双方、お互いに依存し合っていれば、いいのかどうかは、わからないけれど
(いや、それのほうが、もっと深刻か)
一方通行の片思い。

ひとに指摘されるほど、依存しているかなぁ・・・
自分では意識がない、ただ、とても子供たちのことが大好きなだけなんだけれど。
それが、よくないのか。
はやく、子離れしなければ。

夫婦は、両輪という。
結局は、夫婦だって。

やっぱり、子供に依存しているかもしれない、わたし。
なぜなら、夫婦だけになったら・・・そう考えただけでも・・・・・


なにもしなくても、なにかしても、時間はどんどん過ぎて行く。
時間がうしろから、押してくる。
渡っている最中に、うしろの一方が切れた桟橋を、全力で走っているようだ。

向こう側に到達するまで、桟橋は、もつ?
自分の体力は、もつ?
渡りきれるか?
谷底に転落してしまう?

切れて垂直に垂れ下がった桟橋に、しがみついて、ぶら~んと、宙を舞っている?
谷底への眺めは、どう?
風が吹く度に、ぶら下がったまま、崖にぶち当たって、痛い?


こんなことをうだうだ書いていたら、またもや
「あなたのブログは、暗い」と言われそうだ。

あるお方のように、
いい部分だけ、キレイなことだけをのせるブログにしたほうがいいのかも知れない。

人気ブログランキングへにほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ 

あーー、ジメジメ、暗くて、すっきりしたー。
読んでいただいた方には、汚染・感染されないことをお祈りします。