蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

タフ

2014-01-20 | 日々のこと
manaveeという、受験勉強の無料動画がある。
一昨日、日曜日の夜に、テレビで取り上げられていたが、もうスタートして3年にもなるらしい。
立ち上げたのは、東大生・花房クンで、すべてを自分で作り上げた人。
今は、休学しているとか。
すでに、去年、一昨年と、いろんなメディアに取り上げられていて、なにを今さら?といったかんじのようだが、
わたしは、知ったのは初めてだったので、面白く、その紹介を食い入るように見た。

すでにネットでも、あれこれインタビュー記事などがアップされている。
内容はテレビの番組で見たものと、ほぼ同じ。

わたしは、なにが気に入ったかというと、彼の、独自の価値観の創生。
かつて、バレンタインデーで惨めな思いをしていた花房クンは、世の中のバレンタインデーの意義を変えさせるため、
「2月14日は、メザシの日」であることに目をつけ、力いっぱい目いっぱい作戦展開し、
自分の惨めな気持ちを克服した過去がある。

既存の価値観に違和感を感じたら、自分の価値観を無理やり押し付けるのではなく、
回りに、わからせ、納得させる、努力と行動力。
この受験勉強講座動画も、ほとんど寝ないで、システム作りや、組織構築したりする、若さもさることながら、脳のタフさ。

スタートするにあたって、最初は講師は自分で、自画撮り、
だが、自分だけが講師だと、自分は目が細いし、声も姿もなんかイマイチ、パワー不足、役不足と感じ、
他の大学生にも講師依頼などの人事折衝や、動画撮影もひとりでやった。
後には、「講師になってもらえますか、ではなく、講師にならせてあげてもいいですよ」と付加価値をつけ、
さらに志願する講師を増やすことに成功した。


室内でパソコンだけをいじっているわけではない。
ひとつの理念でモノゴトをやろうと決めたら、あらゆるノウハウを駆使して突き進む。
が、このオリジナリティ炸裂の型破りパワーは、大企業に就職して収まるタイプではない。

「大学に入って自由になったと思ったら、就職を迎えてまた逆戻り、一生自由はないのか、
いい時代に、いい目をしたおっさんに上から目線で選ばれたくない」
そう言っていた、その生意気ぶりが、今後も逆噴射パワーとなるだろう。


信念と行動力。
これは、やはり、アタマの良さがベースだと感じる。
そこまでアタマが良くなくても、講師の一人となって協力するとか、人事マネジメントで参加するとか、
サポートという役回りもある。
適材適所の関わりかたができると思う。
ただし、その場合は、自分の生活を支えるものは、別に確保しなければ、収入面で問題がある。
だから依存に頼っていては、一人で立てない。
花房氏のように、とことん行かないかぎり。
後ろを見ずに突き進めるだけの力があるかどうか。
中途半端な人には、できないだろう。

アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような進み方では、進めない、と、彼は言っている。
儲けを考えたりすると、ブレる。
が、教育格差をなくす、無料動画、運営費は・・・?

頭脳、発想、行動力、ひたむき・強靭なタフさ、これがないと、気持ちだけではどうしようもない。


ちょっと小金持ちになって、まわりを幸せにしてあげるよりは、多くの人々の価値観を変えてやる、
そっちのほうが、彼は楽しい、意義があるという。


若さって、いいな。
すっかり守りの年寄りであるわたしは、思うわけである。
遠い目でもなんでもない、自分には若き日に、そういう「社会を変えてやる」的な熱情は、全くなかったんだけど。
力のある人は、どんどんその力を発揮してほしいと、思わず応援してしまう。
が、(娘たちを含む)若い人々の躍進的な話に、ついていけなくなっている、
蚊帳の外からなのが、哀しいところだ。

蚊帳の外は、それはそれで、ほっこりしているが。


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自分基準

2014-01-19 | 日々のこと
自分のブログを読んで、にやにや。
これは、究極の気持ち悪い人である。
なんと、今の自分とまったく同じ考え、感じ方をまとめた文章であろうか・・・。
あたりまえ、だいたいは、当日の朝に本人が書いている。


例えば、着たい服が売ってないから、作る。(自分で作る場合も、作ってもらう場合もある)
食べたいものが手に入らないから、作る。
こだわる人は、食材の野菜まで自分で作る。

見たい映画がないからといって、自分で作る人はない。(稀にいるが、稀な大金持ち)

なんであれ、こだわりの人は、できる範囲なら、自分専用カスタムメイドで。

・・・

母の生き方を見て、自分は別の生き方がいいと感じれば、自分の道を歩く。
いいなと、思えば、マネする。
部分的に取り入れたり、反面教師にしたり、見本、たたき台、参考にする。

参考にするものが多すぎると、道がぼやける。
選択肢は、ある程度、限られた数のほうが、迷いが少なくてよい。
それと、ありえない実現不可能な選択肢を候補の中に入れる入れる人は、あほ。
単なる空想家。(わたしには、少々、その傾向もある)
時間を無駄にするには、もってこいではあるが。

自分の道を決めるには、いろんな資料を集め、下調べ、調査をする。
しなくても、ぶっつけ本番で、たまたま偶然、うまくいく人もいる。
しかし、偶然はありえない。一見、偶然に見えるだけだ。
アンテナを張っていなければ、チャンスがあっても、幸運の女神は去っていってしまう。

宝石の原石を見つけたとしても、宝石そのものを知らなければ、手に取ることも、持ち帰ることもしない。
モノゴトは、ある程度、知らないより、知っておいたほうが、幸福への道しるべの手助けになると思う。

ただし、情報の氾濫の中で、どれをチョイスするかは、その人のセンスや、ぶれない眼力が必要。
どんな難しい本であれ、くだらない週刊誌であれ、テレビであれ、それを見ても、ただただ通り過ぎるだけなのか、
垂れ流すだけなのか、それとも、何かの細い糸でつながるのか。
知らず知らず紡いでいくと、なにかが織れるのかも。

・・・

情報や嗜好も、弊害のあるものばかりを好んで吸収する人は、それはそれで、すごいことになっていくだろう。
それが何年も何十年も続き、似たような人と付き合い・・・
見かけは同じでも、中身はまったく違うことになりかねない。

なにごとも「偶然」、ということはないと思う。
自分の求めているものを意識しているか、していないか。
自覚していないとしても、無意識のうちに自分に刷り込まれていることもある。

わたしは、「偶然」は、「必然」の積み重ねだと思っている。



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暮らし

2014-01-18 | 思い出
ある人、Aさんは、いつも夢に出てくるのは、自分が小さい頃、育った家、という。
今は別の場所、別の家に住んでいるが、夢では、昔の家。

4軒長屋で、中心に井戸があり、
長屋の両端にトイレがある。
子供の頃、夜中にトイレに行くのは、怖いし、寒いし、すごく嫌だったそうだ。

お向かいも4軒長屋。
一番左端が、○○のおばちゃん、二番目は○○さん、三番目は○○さん・・・
端っこの○○さんの家には、優秀な大学生がいて、いつも勉強を教えてくれたとか。
大学生のお母さんが、お茶とお菓子を出してくれて、無料で近所の子供たちの勉強を見てくれていた。
Aさんの親御さんは、時折、その大学生の家になにか(お礼の気持ちで)モノを持っていったりしていたらしいが、
お互い、そのモノは目的でもなんでもない。
互助会みたいなものだ。

まさに、古き良き時代。
わたしは、映画か、漫画か、絵、人形作品などでしか見たことがない風景だ。

しみじみ語るAさんが、
「あなたは上流だから、なんて貧乏な暮らしだと思うでしょうね」と淡々とした口調に変る。
「はあ? なにを言ってるんですか。
上流というのは、細川さんや、旧財閥系の人々ぐらいなんじゃないですか?
その他は、上流でもなんでもないですよ」
と、わたしが、これまた淡々と言う。
「じゃあ、中の上」とAさん。

都会と田舎、中央と地方では、ライフスタイルが違うし、
上の家庭でも、もめごとや、喧嘩ばかりの冷たい家庭もあるし、
下の家庭でも、一致団結、明るい笑い声の家庭もあるし、
仮に経済事情で上下を分けるとしても、一概に、上下だけでは、どちらが幸せと決められないのでは?
現に昔の長屋暮らしの思い出を、楽しかったと回顧されているのだから、良い思い出、ご家庭だったのでは?

などなどと言っていると、そんなもんですかねえ・・・的な、うやむやなかんじで、話がどこかにまた流れていった。

ちなみに、Aさんは、「いなか」を持ち出すと、
町暮らし人であるご自分が、いなかモンに対して、なんとなく優越感を感じることができるようで、
町・田舎の切り口は、けっこう、お好きなようだ。

・・・

わたしがいつも夢に出てくるのも、昔の家だ。
田舎の家。リフォームする前の家と、リフォーム後の家。
かなり昔の家なので、今風のライフスタイルに大改造してある。
それと、町暮らしの家。これも、今はもう、家という形態ではなく変貌しているが。

自分が子供だった頃、その当時の家をよく思い出す。
前半は、ただっぴろい田舎。
井戸水に加え水道栓を追加、一部、汲み取り式から水洗トイレに、燃料もプロパンガスに、
大幅な改良が行われた。
冷蔵庫や洗濯機も購入され、
我々子供たちの誕生もあり、第一次、近代化リフォームである。

子供部屋の様子。
きょうだい3人でひとつの空間。
わたしと姉は、勉強机は作り付けのカウンター続き。
姉の座る前は、窓、わたしの座る前も窓。
一面の窓からは、菜園が広がり、もう一面からは、前庭、その遠景には鶏小屋や農具小屋のようなもの。
姉とわたしは、90度違う方向(直角の位置)に座るときもあれば、並んで座ることもあった気がする。
兄は、別に離れて、学習机があり、我々とは、背中側。兄の座る目の前も窓。
兄の窓からは、中庭、小さな人工池、その向こうには、遠くに廊下が見えた。
今、思えば、窓だらけ、庭だらけ、畑だらけだ。

子供部屋には白いカバーがかけられていた、スプリングの効いたソファと、ピアノがあった。


わたしが小学校高学年の頃に、父の仕事や我々の教育のため、町の家に軸足を移した。
そちらは、駅から即の、いきなり賑やかな商業地。
中間がない。
のんびり田園風景から商業地へと、いっきに景色が変った。
なんで、こう極端なの? 住宅地というものに、住んでみたかったと、その後、よく思ったものだ。

田舎の家もそれから、また第二次リフォームを行い、現在も実存するが、現在の家や庭の姿をまじっと見ながら、
第二次リフォーム後には消えた、リフォームする前の子供時代の部分を、まぶたの裏で復元させている。
過去と現在を上手につなぎ合わせたリフォームになっている。

子供の頃の家、うっすら覚えている。
お風呂は、祖母が薪か小枝で焚いてくれた。皆、早く順々に入らないと、追い炊きが大変。
(田舎の家には、たいてい、手作り味噌を貯蔵しておく味噌部屋や、薪や枝木を入れる薪部屋、みたいなものがある)
どこかのタイミングで、ガスに切り替わったのかも知れない。
でないと、祖母が大変すぎる。

・・・

なんだか、思い出してあれこれ書いても、はっきりしない箇所も出てきて、
思い出すのに時間がかかる。
にもかかわらず、次のスケジュールが迫ってきていて、のんびり回顧タイムに浸っている場合ではない。
書くのに時間はかかるが、読み物としては、ぜんぜん、おもしろくないし。
自分だけ楽しいっていうことだ。

ということで、中途半端ながら、
本日は、書き逃げいたします。


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ブルー

2014-01-17 | 日々のこと
出かける前にお風呂に入ると、忙しない。
時計と、にらめっこ。
それに対して、
夜中にお風呂に入ると、時間を気にしなくていい。開放的。
だが、居眠りを含めると、お風呂から出るのは、えらく深夜になり、
数時間後(早朝)、起きれるかしらん?と不安になる。

お風呂のなかで、いろいろ考え事。
あれこれ、あれこれ、制限時間がないので、楽しい。
ふと、あの人、名前だんだっけ?と、人名ど忘れドツボに陥る。
すると、そればかり考える。
せっかくのお風呂フリーダムが、焦りと脂汗タイムに変る。
「あ行」「あ」から順々に「い」「う」「え」「お」と、
あ行「青山」「有田」「有本」、い行「井上」「石川」「井本」などと、ありえそうな名前を列挙していく。
名前の持つフィーリングと合わせて、どうにか、「○○橋」とまでたどり着き、
ついには、「中橋」と、自信はないが、とりあえず、決定、仮決め。

長いお風呂から出て、日記帳に挟んであるメモを見て、ああ、ああ、そうだった、と、
中橋なんぞ、まったくちがう、一文字だってカスっていない、その名前を見て、胸の軽石、カスカスの石が溶ける。
今度こそ、覚えるぞ!と、痛々しいほどに意気込むのだが、なぜ、わたしは、あの人の名前はこうも覚えられないのだろう。
いつもいつも忘れる、その人物の名前。

今度、忘れたら、自分に軽石を投げつけてやろう。
で、「中学校の時のクラスメートの女の子の苗字の上部」、と、つけたし、脳内記憶に付加メモを貼る。
そういえば、彼女、卒業してから一度もクラス会、同窓会に顔を出さないなあ・・・どうしてだろう?
と、またまた、あれこれ、脳がちょろちょろ動く。
でも、布団に入るや否や、思考や記憶は瞬時に吹っ飛び、明け方、玄関方面からの「行って来ます」の声で目が覚める。

・・・

上記、はっきり言って、(はっきり言わなくても)、日記です。
「朝、起きて、あれこれして、夜、寝ました」
小学生日記ではなく、老年日記。

・・・

ちなみに、話は変って、

今、フェイスブック・ブルーというのがあるらしい。
友達が、日々、「こんなこと、しました」「こんなところに、行きました」「子供が、こんなことできました」
などなどと、アップするフェイスブック。
皆さん、いつもよりなにか変化があった時にアップするので、何人も何人もそういう報告を読んでいると、
自分は、なにも変化がない、なにもできていないと感じ、落ち込むらしい。

資格を取った、こんな自分磨きをしている(美容じゃなくて、脳みそ系)、・・・次々と目の前に映る皆の頑張り。
しかし、自分は、毎日、なにもせずなんの成果もない。
置いていかれると、焦るらしい。


子育て期にはよくある現象。
ちゃんと子供を育ててるじゃない?とわたしは思うが、子育て真っ最中の当人たちにとっては、それでは納得できない。
なにか、はっきりした、ちゃんとした手ごたえが欲しいようだ。

子育てもして、自分磨きもして、仕事もして、家事も家族イベントもして、お付き合いもして、
日々の雑用も、お出かけも、遠出も近所も、あれこれあれこれ、
その合間にフェイスブックはチェックし、ニュースは読み、見聞きし、ウエブ英会話もこなし・・・
漫画も読み、ミニコミ誌には目を通し、料理の記事は読み・・・そりゃあ、他のこと、なにもできない。
なにを特別のことをしたいというのか?

・・・

皆さん、特別なことをしている、できてきる、それが、一人につき、ひとつだったとしても、
5人読むと、5つのすごいことをしていることになる。
が、一人が5つしているわけではない。
フェイスブックは、だだだ、、、っと、大勢の友人たちの報告が順次アップされるから、圧倒されるのだろうか。
自分がアップしているのは、子供の可愛い笑顔だけ。
これって・・・? なんだか虚しくなるのだろうか?

子供の可愛い笑顔で十分ではないか、と思うのは、子育て卒業生の言うことだろう。
だが、子育てだけで終わりたくないと考えるのは、わたしはたいへん納得できる。
いまのお母さんたちは、(おばあさんも含めて)、子供にすべてを投げ打って、盲目的に自分を捧げるということはないと思う。
自分は、確保したい。
すべてを子供に捧げると、子供が巣立ったあと、なにが残る?
執着。未練。離れられない思い。
巣立った後の子供の幸福を祈ることのできる親は、教科書の模範優等生。
時間というものが解決することは、大いにある。
なにもかも己の欲を忘れて、一心不乱に子育てするのは、素晴らしいが、時として、盲目になることがある。
情熱と、理性のバランスが必要。

ま、それはそれ。
あんまりクールっていうのも・・・パサパサしているし。
我を忘れるぐらいの情熱は必要だ。
「無我夢中」って、よくできた言葉だ。

・・・

わたしは、悲しいかな、フェイスブックに入っていないので、まったく見ることができない。
家族がやっている横から、覗き見させてもらうだけ。
まあ、それでいいのだ。
実名、実写真は苦手。

・・・

ということで、あと、なにか書きたいことがある・・・お風呂の中でふと思ったのだが。。。
なんだったか、思い出せない。
考えていると、いつまでたっても、予定時間に行動スタートできないので、今日は、これであきらめることにいたします。

では、皆さま、よい花金をお過ごしください。


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ポエム

2014-01-16 | 日々のこと
NHKクローズアップ現代を、おでんを作りながら、いい加減に見ていた。
始まって3分の1ぐらいから見始めたので、ちゃんと全部見ていない・・・のだが、
けっこう関心をもって見た。

こころに響く言葉、ポエムのような言葉。
このフレーズを過酷な労働条件のもと、社訓のような、モットーのような、求心力がわりに使われ、
従業員一同、こころをひとつにして、生きがいを感じながら、喜びに満たされて働く・・・というもの。

「夢をあきらめない」「みんなを幸せに」
あなたのために、皆さま、お客さまに笑顔を・・・
愛する地球のために・・・、

などなど・・・

やさしい言葉、前向きな言葉で、人生を肯定し、厳しい現状を耐え抜き生き抜く、
その素晴らしさの影にある落とし穴のようなものを掘り下げていた。
ポエムのように、ささやかれているのは、ひとに優しい、こころにやさしい、正論であるが、
正論であるだけに、問題あり、と言い難いとか。

社会学者かなにか学者さんが、解説をしていた。
問題点を甘い言葉で、うやむやにされ、過酷な労働条件で働かされる現状を見落とすな、
言葉で麻痺されるのではなく、組合を作るなり、労働条件の向上に努めるとか、
具体的な行動に移ることのほうが先決なのでは、と言っておられた。
まやかしのポエムなんかでは、騙されないぞ、労働の体制改善を求めます!
みたいな流れを提案しようとしているのか。

が・・・それは、やはり、学者の目。
しかしながら、その学者さんも、ご自身の体験では、
昔はライダー便?のライダーとして働いていたとき、過酷な仕事ではあったけれど、生きがいをもって、やっていたものの、
やりがい、とは、なんだろう・・・?と壁にぶち当たったそうだ。

甘い言葉に疑問を持って、現状を見据えて組合を作る、といっても、現実的には、職場の規模や雰囲気、カラーで、
無理であるという現実に直面することがある。
零細企業、家族だけでやっている業態で、組合といっても・・・
それなら、夢であろうが、一種のマインドコントロールであろうが、
こころをひとつに現状を肯定して仕事をしていったほうが、幸せだと感じる。

ポエムで、現実から目をそむけ、夢を見るな、という番組の警鐘に対して、
わたしは、モルヒネでもいいから、がんばっている人の足を引っ張るな、と思う。
しかしながら、モルヒネであるところに、問題がある。
ポエムは、破滅に向かう人への末期・麻酔鎮痛剤ではなく、
改善への外科的手術をするための麻酔であってほしい、ということだろう。

・・・

耳ざわりのいい言葉で、惑わされるな、ということか。
眠っている子を起こさせて、起きても、いくら努力しても現状は変えることができないとわかったら、
わざわざ起こすのは、余計なお世話、・・・残酷だと思う。
知らないまま、ポエムを信じて、前向き、肯定人生のほうが、改善はしなくても、
病理を温存させたまま、一病息災の人生のほうが、ローリスク、幸せなのでは。
だがそれは、人生、攻めを卒業した、守りの考え方かも。


苦境を乗り越えるための鎮痛麻薬は、時としては必要であるが、当然ながら常用はよくない。

・・・

なんか、筆(キー入力)が遅い、重い・・・。
このテレビ番組、気になっていたが、書くと、あんまりすいすい、すらすら進まない。
テーマが重い。

・・・

ちょっと、別のことでも考えよう。

最近、わたしのブログは、ブログ村のエッセー部門では泣かず飛ばず。
エッセーには見捨てられたようなかんじ。
かわりに「50代の生き方」に、人気記事に顔を出すようになった。
なんでだろう?
孫のせいか?

・・・

ある年齢を越えると、興味ある話題だけをチョイスして、その他は、まったく無関心という傾向がある。
知人の、とある方、どんな話題も無関心、ただただひたすら趣味の話題、一本。
それもまあ、追求型で、けっこうな生き方ではあるが。
なんか、話題を共有していることはしているが、細く深くどこまでも、いつまでも・・・で、面白くないときもある。
大好物だからと、毎日毎日、同じものを食べて、それ以外はいっさい食べないのと似ている。

で、多彩な行動が必要となる。活気、空気の入れ替え。
自分の興味、アンテナを広くもたなければ、息詰まってしまう。
ライフスタイルも、柔軟に、上下、縦横無尽、いろいろ組み合わせないと、
ひとつだけを深く深く掘り下げて達人になるのは、それはそれで素晴らしいが、何事もバランスが大事。
メイン、サブ、バリエーション、と、いろいろあるほうが、無いよりいい。相乗効果。
メインを何にするか、であるが、これは、ひとそれぞれだろう。
多くは、「家族」「友人」だったるするのでは?
そこに「趣味」が加わると、鬼に金棒。(仕事は、どこに入れる?)

・・・



今日の無駄は、ちょっと歯がゆい無駄になった。
究極ではない無駄であるが、無駄を追求するにも、根性、根気がいるようだ。


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不思議

2014-01-14 | 日々のこと
みなさん、なにが目的で、わたしのブログをお読みになるのだろう。
わたしは、たんに自分の胸にたまっているものを吐き出して、すかっとしているが、
ただ、それだけなのだ。

自分の考えが変ることもある。
若い頃と今では、違う。
これは年齢と経験による、誰にでもある、ごく当たり前のことだろう。

中年になってからでも、わたしは、最近、ここ数年で、また考えが変った。
なので、わたしのブログは、お鮨屋さんでいうと、「時価」である。
その時、その時の意見、考えである。
高いときも、安いときも、正しいときも、マズイときも、ある。


熱々アツアツ恋愛と同じだ。
あの時は、本気で好きだったんだ、本気で本心で、こころから真剣に愛していたんだ、嘘はなかったんだ、と。
「あの時は」、、、である。

自分の書いたものに責任を持てなければ書くべきでない、というのが正論であるのは、重々承知。
ブログという形をとっているわけだから、結果的には公に発表するということになるが、
なんの影響力もない、ある、名もない一人の、その時その時の一感想文に過ぎない。
個人個人が、こう考える、とか、こう感じる、に対して、正解や不正解はないと考える。

ただ、そのキー、軸である個人自体が、ころころ考えが変っては、お話にはならない、って話だ。


・・・

アメリカは「成果主義である」と言われる。
それに対してヨーロッパは、「真理」を追究するという。
既成のもの、過去の栄光である、歴史あるヨーロッパと、新しい新勢力の新大陸アメリカ。(すでにもう過去だが)
アジアの台頭で、また大きく様変わりしているが、
見る目、誰が伝えるかによって、事実の捉え方が違う。

昔、子供のころ、西部劇を見ると、インディアンは悪い人で、ほろ馬車に乗った主人公の白人を弓矢で攻撃し、
白人、頑張れ、インディアンを早く倒せ、と、はらはらどきどき、応援していた。
が、侵略されているのはインディアンなわけで、あの見方、ストーリー仕立ては、一方的で不公平である。
明らかに誰の目から見てもおかしいのは、まだマシだが、
両方が双方、自分が正しいと言い張ると、ことは複雑、深刻となる。

民族間の問題になったり、わたしの書ける範疇を越える。

・・・

モノゴトが見えてくると、良いこともあるが、良くないこともある。
幽霊が見える人と、見えない人がいるように、霊界の人など見えても、気が滅入ることはあっても、なんの得もない。
ましてや、訴えかけられたりしても、あっち行ってよ!と、生きている世界の人とだけお付き合いしたいと思うだろう。

それと似たようなかんじで、モノゴトが見え始めると、美しかったものや、ぼんやりしか知らなかったことも見えて、
見えなければよかった・・・と感じることも少なくない。
自分の日常、身の回りのほんの少しのことだけに気をとられて暮らすのが、いちばんの幸せのように思う。

細川さんのように、75歳を過ぎて(昨日で76歳!)、
陶芸や書の世界にどっぷり浸かって余生を味わう、粋人、趣味人の究極の贅沢を捨て、
また火の中に身を投じる人もいるのだなあ・・・と、不思議なような、
なかなか若々しいステキな人だなあ・・・と感じたり。
あんな人、まわりにいない。
熊本まで行かなければ、殿様のお城まで行かなければ、お目にかかれない。(彼は東京生まれ、東京育ちのようだが)
が、あの年になって、悠々自適の身を投げ捨ててまで、立候補というのは、
よほど、この国を見捨てられない思いに駆られたのだろう。

・・・

偉業は、偉人に任せるとして。
凡人である幸せは、凡人の特権である。
幸福は究極を追い求めては、幸福になれない。
ほどほどの幸福が、究極の幸福であると、わたしは思う。

で、そこで求めるのが、究極の無駄。(出ました!)
これって、なぜが、楽しいんです。
意味がないことが、楽しいことであり、それ自体が意味がない。
意味のないスパイラル。

ということで、テーマは、究極の無駄、であるが、今日は、もうお時間。
毎日、入り口のところで引き返す、究極ではない無駄、小規模な無駄、ちっぽけな無駄、
ということで、今日は、またまた中途半端に、おしまいです。


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老いる

2014-01-13 | 日々のこと
義母を含み家族全員で、お正月に、初詣に出かけた。
その時は、晴れていて、比較的暖かく、真冬の割には寒さは厳しくないと感じられた。
が、義母は、車から降りるなり、コートの上にショールを頭からすっぽりと、ぐるぐる巻きにした。
こんなに暖かいのに、なんで、そこまでするのだろう?と、わたしは不思議に思い、
「極寒のシベリアのおばあさんじゃないんだし、そこまで、ぐるぐる巻きにしなくても、今日は暖かいですよ」
と一言、もらした。

すると、義母は、
「若い人には老いの苦しみが、絶対にわからない」と、しんみり言った。

なんだか、う、と胸にこたえた。

そう言われても、やはり、わからないものは、わからない。
こんなに暖かい日に、なぜ、あんなにぐるぐる巻きにするのか。寒くないのに。風もないのに。

体感温度が違うのかも知れない。
体温調節機能が衰えているのか。


以前、職場の人に言われたことを思い出した。
その人は、幼いお子さんを亡くされた経験がある。
「子供を失った悲しみは、失った者にしかわからない」と、搾り出すように言われた。
わたしは、無神経な発言をした覚えはない。
なにかの拍子で、そんな感情が湧き出てきたのだろう。

しかし、その時は、自分にはなにも思い当たることがないのに、そういう風に、まるで責められるかのように言われると、
非難されているような気になって、暗く沈んでしまった。
身に覚えはないのだが、強制的に罪悪感のようなものを呼び起こされた。

それに似ている。
理解できないというものは、そういうことだ。
じつに、残酷なものである。

子供が、無垢な目で、誰か他人の、大きく傷のある顔や身体の一部を指差し、
「これ、なに?なぜ、こんなにヘンなの?」と、訊ねるのと似たようなものか。
経験や脳が未熟で、相手を思いやることができない。決して悪意があるわけではない。

自分は、どうもない、でも、悲劇の人に、「あんたなんかに、わかるまい」と言われると、
とても複雑な気持ちになる。
どうも何事もないこと、安泰なことが、申し訳ない様な、そんな気になる。


老いに関しては、いずれ、わたしも同じことを娘や嫁に言っていることだろう。
その時、はじめて、義母の、老いの辛さが身にしみて、しみじみわかることだろう。

老いだけでなく、病気や、人生の不幸を背負っている人の苦しみは、
アタマの中で理解しようとしても、なかなか本当に、自分がその立場に実際になってみないとわからないだろう。

娘たちに、ぼろくそ言われたとしても、いずれ、彼女たちも年をとり、老いがやってきて、はじめてわかることに違いない。
(福祉介護に従事している人は、仕事上、老いの現実を知っているだろうけれど。
それは、老いの苦しみをわかる、理解することとはまた別だと感じる)
不幸に関しては、不幸の経験がない人が、へんに同情したりするのは、同情される側は、神経に障るかも知れない。
同じ体験、経験をした人たちが同じ悩み、痛みをシェアするほうが自然治癒につながるかも知れない。


しかしながら、老いは、不幸か?
だれもが必ず、やってくること。
それが嫌なら、若くして早死にするしかない。

「年をとって老いて、なにもいいことがない」と、数年前、実母に、ぼやかれたことがある。
「そんなことはないわよ。年をとってもいいことがあるよ」
と言ったら、母に、「じゃあ何がある?」と、聞き返され、返事に困った。

赦す、とか、あきらめる、とか、達観する、とか、弱さを認める、とか、
完璧を求めること、現状を維持することに対して、
手綱を締める、ブレーキをかける、そういう精神力で、マイナス点をプラスに押し上げるのか。
(認知症は、病気なので、また違うが)

どんどん現状(肉体・精神)が悪化していくなかで、でも、生きていかなければいけない。
医療の進歩もある。ちょっとや、そっとじゃ、死なない。
これは、やはり、経験したものでないとわからないだろう。

・・・

だから、どうなの?
なんなの?

ああ、結論が出ない。
(ちょっと今日のスケジュール、時間が迫ってきて、焦っているせいもある)
暗いけれど、必ず直面する問題は、さておいて、育児時間に切り替えです。
接する年齢が上がったり下がったり、ジェットコースターのような、
4世代間においては、中間層の、中間管理職おばあちゃんだ。


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対談

2014-01-12 | 日々のこと
おばあちゃんの知恵袋。
昔はそういう先人の知恵が尊ばれた。

が、今は即、スマホで、ググる。
黒豆の煮方。
作法のあれこれ。
家の伝統だったりするものであっても、いろんな情報が瞬時に集められる。
おばあちゃんの知恵のほうが、論理性を欠いていたりする。
インターネットの普及で、重鎮老人の価値はうんと下がったと感じる。

子育ても然り。
昔、それも、我々の世代、ほんの30年前と、ころっと違うことをやっていることもある。
食べ物は最たるもの。
我々の時代のことをしようとすると、「こらっ!そんなことしないで!!」と娘に叱られる。

汚い、不潔→衛生的、除菌→無菌
とことんこだわるのもいいが、精密機械工場の無菌室じゃあるまいし。
そんなに無菌で育てたら、抵抗力がなくなると、「ばあさん」であるわたしは、思う。
人間にはある程度の抗体が必要だ。

・・・

家族の絆。
NHKの対談、再放送を昨夜、見た。
家事をしながら見ていたので、よく理解し切れなかったが、姜尚中さんと是枝監督とのお話。
血縁に頼り切るなって言ってたんだっけ?(不確実で、自信がないが)
ここで頑張ってやっていこう、と感じたその土地が、故郷だ、と。
家族は国家につながる。
ちょっと難しいような、ちょっと怖いような、よくわからなかった。
対談していた人の名前を確認するために、ググってみたら、
なんだか必要以上にヒステリックに叫ぶ記事が多くて、国の問題がからむと、冷静にものごとを見ることができないと感じる。
姜尚中さんが番組最後に言っていた、
「明治」という近代社会のスタートの時代を、今後の研究テーマにしようということであるが、これぐらいしかわからなかった。
是枝監督の言っていることは、けっこうわかったんだけど・・・。

やはり、学者という人は、考えていることが難しすぎて、口に出して説明してくれても、よくわからない。
わたしが、あほなんだろうけれど。
言い回しが直接的ではなく、もって回ったような言い方でハッキリ言わず、もやもやっとして、こころに、びしっと来ない。
もどかしさを覚える。
なんだか、まったく、ほとんどわかっていない、理解できていない自分に、いらいらする。
わたしのブログでの表現も、これに似たものがある。
反省。


・・・

話は戻って・・・
子育ても、自分の子供なら自分が責任を持てばいいが、
(なにか事故があった場合、非難する人間も、非難される人間も、同一人物)
人の子であれば(たとえ娘の子であっても)
なにかあっても責任を取れないので、世話をするにも細心の注意が必要で、非常にストレスがたまる。
これは、私が年をとったというせいもある。
大雑把で、楽天家のわたしには、イマドキの子育ては無理。
とっくの昔にどうにか終わっていてよかった。

そういう具体的な子育て論や、育児ノウハウではなく、もっと観念的、論理的なもの、
NHK番組、家族の問題、期待していたのに、なんだか、自分の理解力不足で、空振りに終わった。
先週の岡田准一と五嶋龍の対談は、100%理解、共感できたのに・・・。
わたしのアタマが、重いものは受け付けず、若者寄りなのか?

・・・

日曜日で時間はたっぷりあるはずだったのだが、予定変更となり、
ここで終了。
今からが本題、佳境に入るところなのに、まったくつまらなくて、ごめんなさい。
と、毎度、自己弁護。

皆さま、よい日曜日を。
ではまた。


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賢者

2014-01-11 | 日々のこと
さて、校正を含めてアップまで10分しかない場合、
ブロガーの皆さんは、どうするか?
くだらない記事をアップして、ブログの質を低下させるぐらいなら、
更新しないのが、賢者。

しかし、わたしは、無駄の追求、究極の無駄をテーマにしている。
理路整然と当たり前のことを書いても、ぜんぜん面白くない。
わかりきっているけれど、わかりきれない、
アタマでは、こうしようとしても、こころと身体が、それに従わない、
そういう、もやもや、葛藤・・・この、ドツボに落ち込む行動パターンは、わたしの専門である。


明日は、たっぷり時間があるから、
おもいっきりドツボの海にダイブして、大海を泳ぎまくろう。


さて、
予定の10分に収まった。
究極の、にたにた、にこにこである。

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人生相談

2014-01-09 | 日々のこと
わたしは、悩みの相談が大好きだ。
趣味が良いとは、決して言えない。
人の悩みって、めっちゃめちゃ、なんか、興味があったりする。

といっても、具体的なQ&Aには、あまり興味がない。
「これこれを探しています。どこに行ったら手に入りますか?」
「相続の問題で揉めています。どうやったら解決できますか?」
なんていう類のものは、ググるなり、ネットの海で調べるなり、プロにお金を払ってやってもらうなり、すればよい。

そうでない、正解が決まっていない、個人の価値観によるもの、みたいなQ&Aが好き。

こころの問題が多い。
が、結局、こころを整理し、道順をつけると、具体的な行動実践への準備につながる。
なにがしたい、どうしたいか、それを自分で決めないと、前に進めない。
前に進むだけがよいとは限らない。
前に進みたくない人もいるだろう。
後ろばかりを見て暮らすのも、その人が幸せなら、それでいい。
答えは、各人の中にある。

・・・

ある母親からの悩み。
息子さんが、芸大の短大在学中、4年制に編入したほうが、就職には有利でしょうか?
ただし、県外生で、学費と生活費込みで、2年で500万円ほどいるとか?
2年で卒業するか、編入して4年にするかの悩み。
息子さんご本人も学費のことを考えると、4年制に進みたいが、親に負担をかけるので、迷っているそうだ。
現実的には、とても苦しいが、無理をしたおせばできないこともない、そんな経済事情のようだ。

いろんな答えがあって、興味深かった。
シニア向けサイトだったため、回答者は、シニアが多かったので、自分の経験をもとに、あれこれ答えておられる。
学歴がなくても、頑張ってきた、頑張ってこれた、という、自慢、自負のようなものも少なくなかった。

逆に、学歴がある人が、上から目線で、いかに学歴が必要かと、延々と解説しておられる方や、
企業の面接官、人事を担当していた現場の人のナマの声や、
けっこう、実社会に即していて、リアルな答えが多かった。

が、残念なのは、どんなすばらしい意見が出ようが、
相談者の母親が、2年か、4年か、その一点のみにしか興味を示さないことだった。
母親には、目の前のことしかない。
決断が今年の春に迫っているからだろう。悠長に考えている余裕がないのだろう。

しかし、わたしは、この母親、今頃、なに言ってんの?という気持ち。
なんで、短大を卒業する頃になって???
そもそも芸大だし。
はじめっからわかっていることではないか。

この母親は、社会に出たことがない人だろうと思う。
なにも、考えたことがない、調べたこともない人だろう。
そういう話題は日ごろ、まったく身の回りにない生活を送っているのだろう。

芸大の短大って・・・就職をどのように考えて、そこに入学したのか?

「息子は、軽薄な子ではなく、やる気があります」と信じておられるのは、よいのだが。


今は、4年制の大学といっても、ピンキリで、4大さえ出ていれば就職できるという時代ではない。
学歴と学力の違い、就職してからの実力、運。そういうものも大きく影響する。

ある人の回答は、わたしは、とてもわかりやすかった。
学歴というものは、一朝一夕でどうこうできるものではない。
6、3、3、4、(2)かけて、作り上げていく頭脳形成、思考能力だそうだ。
会社に入ってから、企業がもし、がらりと主分野を変えることになっても、
柔軟に発想を切り替えて一から取り組むことができる人材が必要。
コツコツと学ぶ姿勢を身につけている人は、そういう資質が備わっているとみなされる。
学力が必要だ。
特定の枠内(ピン枠)の4大卒という学歴は、とりわけ、ここで評価の目安となる。
とのこと。

へ~。そうなんだ。
わたしは、まったく別コース・無学力コースではあるが、聞く耳は持つ。
まあ、企業も日々、変換を強いられ、国際競争力が問われ、厳しい状況なので、
もっともっと柔軟な発想が求められているのかも知れないが。
勤勉が取り得の日本。が、昨今、学生の基礎学力も、国際的順位も落ちている。
柔軟組と、きちんとした学力組が、スクラム組んでやれば、良い方向に向かう・・・はずだが、それはまた、難しい。

・・・

息子を安定した職業に就かせたい母親が、切羽詰って投げかけてくる人生相談。
答えの多くは、世の中、そんな甘いもんじゃないよ、という、諸先輩方のご意見だったが、
そんなもん、どうでもいいわ、なんでもいいから、2年か4年か、どっちや!!という、馬耳東風の母親だった。

一応、文字では「わかりました。厳しいんですね」と回答欄の横にコメントを書いてあるが、
ちっとも重く響いていない様子が、ありあり。


が、悩みに悩んで、最もいい意見をチョイスして進んでも、あるいは、適当にいい加減に進んでも、
うまくいく場合も、いかない場合もある。
模範解答の通りにしたのに、うまくいかなかったじゃないか!!と怒ったとしても、
選択は、自己責任。

成功例、失敗例、人生のいろんな回答を見ながら、
失敗例の人は、それなりにあきらめ、達観、投げやり、捨て鉢、開き直り、
あるいは、本当は失敗していなくて、にやにや、という悪趣味かも?
屈折した優越感?


みなさん、自分の人生がいちばんだ、ってことを確認したくて、
悩みの相談の回答を書くのかなあ・・・と、やぶにらみのわたし。

客観的事実、現象、具象を知り、その上で、ぶれない自分の目で見ることが、大事。
多くの成功&失敗の人生経験から学び、身についたもの、・・・信念をもつ、ということか。
調査、分析のあとの、結果・まとめ、みたいなものか。
それが、また難しい。

常に失敗とは、背中合わせだ。
人生は、オセロゲーム。
七転び八起き、九転び十起き、十一転び、十二起き・・・百転び百一起き、千転び千一起き・・・
転んだり起きたりしていたら、一生はすぐに終わってしまう。
なにかと忙しい。



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