蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

オバちゃん

2014-01-08 | 日々のこと
昨日、ダンスホールの更衣室で、着替えていたら、見知らぬ女性Aが入ってきた。
そこに、また、見知らぬ女性Bが来た。

B「この前のドレス、買われたの?」
A「買わなかったの」
B「あら、すごく良く似合ってらしたわよ」
A「あれより、もっといいのを買ったの」
B「そうなの? あれは、白がきれくて、あなたにとってもお似合いだったのに」
A「あれより、もっといいドレスにしたの。
あのドレスの2倍以上の値段のドレスを、他のところで買ったんですよ」
B「(へえ~)・・・」
A「50万円なんですが、とても気に入ってましてね。
お取り置きしてもらってたら、よそのオバちゃんが、がっと入ってきて、そのドレスを試着するんで、
結局、その場で、買っちゃいました」
B「(ふ~ん)・・・」
A「あのブランドは有名で、あのドレスを着て出ることが、競技選手の夢なの」
B「(あら、そうなの)・・・」
A「練習のモチベーションが高まるの」
B「(し~ん)・・・」

これ、最初は、Bさんが、世間話的に話題を振って、いい調子だったのだけど、
だんだん、Aさんのノリになってきていた。

わたしは、AさんBさん、お二方とも知らない方なので、どうでもいいが、
なぜか耳がダンボになってしまい、
最後に更衣室を出るときは、いったいどんな人なのかと、Aさんの顔をまじっと見て、出た。

Aさん、上品な方のはずなのに、自分の欲求を妨げる行為、
買おうと思ってお取り置きしていたドレスを試着する人に対して、いきなり「オバちゃん」という単語を発した。
この言葉で、わたしは、このAさんこそ、「あんたがオバちゃんや」と思ってしまった。

おんなの闘いは、すごい。

じつは、わたしは、その更衣室に入る前に、
ホールのフロントやロビー近くで、ずらり並べて売られていたキンキラドレスを熱心に見ていた。
いいな~、ステキだな~、→高いな~ →どこで着る? どこに置く? 何回、着る? →無理、買わない、→見るだけ
と、心理、感情、考えが推移していた。

どこか、こころの隅、底に、ドレスに対する未練がある。
買いたいけど、買わない。見るだけ。

そういう心理が育っていた時に、いきなり、ドレスを買う話。
女性どうし、ドレスは憧れの的。
Aさんが競技選手であることに対しては、わたしはさほど、なにも思わなくなった。
以前なら、憧れ、自分とは縁のないものとして見ていた。
一種の、すっぱいブドウ、負け犬的心情だった。
が、今は、自分のスタンス、価値観が確立されつつあり、べつに、競技選手だからって、どおってことない。

まあ、それはそれでいいのだが。
まったく見知らぬわたしがいるのに、ドレス50万円也を、(よそのオバちゃんを跳ね除けて)買う話、
それをする二人。
それは、まあいい。
世間話の一つだ。

わたしが不思議に思うのは、聞かれてもいないのに値段まで言う、そのアケスケ、フランクぶり。
大阪のおばちゃんは、あんなのかなあ、と。

よほどの親しい人でもない限り、そんな大きな買い物をした話は、わたしはしない。
(というか、誰にも言わない)
まして、初対面のアカの他人であるわたしという、目も耳も口もある、どんな人物かも知れない人間が混じっている中で、
(しかも更衣室といえど、密室で)
けろっと話すことに、驚きを覚えた。

この話をある人にしたら、
「自慢したいんじゃないの?」
とのお言葉。

なるほど・・・。
あれは、自慢だったのか・・・。
だとすると、わたしに対しては、効き目がなかった。
胸の中に収めておけばいいものを、わざわざ口に出して報告する行動心理には、2種類ある。
なにも考えていない、思ったことを口にしないと、すっきりしない人、と、
なにかしら意図がある人。

わたしなら、絶対に、他人に妬まれるかも知れないようなことは、自分から言わない。
逆の場合もあるんだ。
妬ませるために、言う?

深読みかも知れない。
たんに、わたしがドレスが欲しいけれど、買わない、残念無念のしこりが、深読みさせたのか。
これも、妬みの一種で、冷静・へ理屈バージョンか?

「オバちゃん」は、Aさんの胸に潜んでいるのではなく、わたしに潜んでいるに違いない。


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新品

2014-01-07 | 日々のこと
ブログを書いて憂さ晴らし。(わたしのことです)
これって、究極のコミュニケーション能力・不可ってことでは?
ちゃんと対面して、人と話すこと、あるいは、自分の意見を言ったり、説得したりすることができない、
そういうことだと思う。

言いたいことがあれば、直接、本人に言えばいいのに、言えない。
これは、根性がない、勇気がない、いい顔がしたい、・・・そういうことである。

感情的にならず、事務的にビジネスライクに、さらっと言えばいいのでは?
例えば・・・
「くちゃくちゃ、べちゃべちゃ音を立てずに、モノを食べてね」
これをイヤミなく言えるか?
にこやかに、言えるか?

・・・難しい・・・。

・・・

わたしは、クレームが言いにくい。
それと、間違いを指摘すするのが苦手。
例えば、かんたんな英単語や、固有名詞の名前を間違っている人に、
非常に指摘しにくい。
指摘されることは、よくある。
赤面。

なにが赤面かというと、ちょっと、こ難しいことを言おうと、かっこつけて、その言ったことが間違っている、
これが最高に恥ずかしい。ええかっこしいが、命取り。
まだ「あの・・・背中のファスナー、開いてますよ」のほうが、マシ。

・・・

戦中・世代の人の「英語」は、教育の時代背景もあるし、失礼になると困るので、習得、使用については
デリケートに感じる。
頭のいい、IQの高い、物知りで、理解力もある人だったりすると、特に、指摘しづらい。
プライドをずかずか土足で傷つけることになりかねない。
人をむやみやたらに辱めてはいけないと、思ってしまう。
しかも、むつかしい単語ならまだしも、ごくごく普通に使う、日常の言葉だったりすると、よけいに。
で、いつも、それらの単語が、その人の会話に出る度に、
どこかに、その間違った単語が、わたしの頭の隅っこに引っかかっているのだが、
教えてあげるべきか、否か・・・
訂正できずに、もぞもぞしている。

おそらく、わたしにも、そんな単語の一つや二つ、・・・三つや四つ、百や二百、千や一万はあるに違いない。
知らないことの恥ずかしさ。
でも、自分が無知であることは、知らないほうが、幸せだ。
知ったら、一言たりとも話せない。

・・・

話はころっと変って、年末に、都心のデパートで見かけた女性。

前からではなく、後姿のみ。
エスカレーターに乗っておられる後姿を拝見した。
年の頃なら、推定、40代後半~50代後半?
冬の服装なので、体型はまるでわからず、わかるのは、身長と、何頭身か、ぐらい。
なのに、それで年齢を推定する。
歩いていないで止まっているので、動作からは推定できない。
ヘアスタイルと、身に着けているもの、たったそれだけで、推定。
推定する必要はないのだが、なぜか、興味を引かれて、想像癖が、もわんと沸き起こる。

とても若い格好をしていた。
真新しいコートにロングブーツ、ピカピカのヴィトンのバッグ。
どれもこれも新品に近い、高価な、よそ行き、というかんじ。
梅田阪急デパートなので、京阪神のどこかにお住みの方だろう。

なぜ、わたしが、その人が目に止まったか。
頑張っていたからである。
後姿だけのその若い格好の人から、頑張り感を感じた。

憧れとも違う、冷笑でもない、なにか、不思議な感覚。
年末に、おしゃれして、頑張って都心に出てきたんだ、あの人。
おそらく、デパートに出かけるのが目的で出てきたのではなく、
なにか出かけることがあって、そのついでにデパートに寄ったのだろう。

上から下まで、新品って、なにか、おもしろい。
買ったばかりのピカピカのもので身を包んでおられる。
お金のたっぷりある人か、あるいは、虚栄心のある人。
金持ちか、見栄っ張りのどちらかである。
そう書くと、わたしが、ひがんでいるように感じる方もおられるだろう。
べつに、ひがんでいない。

年齢より若い格好をして都心に出てくる、わたしと似たような世代の女性に興味があっただけだろう。

ステキ!!と感じたかどうか。(顔も見てないし、年齢を確認したわけでもないのに)
当然、ブサイク、とは感じなかった。
あの人の周りでは、ステキで憧れの対象になっているかも知れない。
あの人は、新品に身を包み、おそらく、うきうきしておられるだろう。
あるいは、いつものことなので、どおってことはないのかも知れない。

前置きが、長い・・・(じつは、書きながら考えている・・・うーーん・・・)

テレビの変身コーナーのように、すべて新しいモノに身を包んで、それがあの人の個性なのか?
ってことだ。
新品には、キャラが立たない。
着こなすという、そういう味わいの部分がない。
それぞれコートや、ブーツ、バッグをチョイスするのは、あの人のセンスであるが、
どれもこれも新品では、風合い、風格がない。
突然、金回りがよくなった人か、あるいは借り物みたいだ。

顔も見ていないのに、あの人は、アカの他人のわたしに、そこまで思われる筋合いはないだろう。
しかも、高そうなものばかりだったのに。

なぜ、気になっていたのか、よおく考えてみたが、うっすら見えるものがあり、だんだんわかりかけてきた。
自分の好みやセンスを認識、自覚した瞬間である。

モノを通して現れる、その人の個性。
モノが高価であっても、中身まで高価だという効果は現れない。
逆説である。アイロニー。

高価なものを身に着ける場合は、本人もそれに見合う中身がないと、
かえって、違和感があるということだ。
俳優の場合は別だろうけれど。

あの人は、後姿だったから、観察、分析をするのに、よかったのかも知れない。
顔を見てしまうと、先入観や好みが出てしまう。
店先のショーウインドゥ、ファッションのディスプレイも、顔のあるマネキンに着せず、顔のついていないものに着せたり、
着せずに引っ掛けたり、直置きしたほうが、その服だけに限定され、とらわれず、想像力が増す。
インパクトがある。
自由な発想が生まれる。
その服を着て、なにかをしている自分。服から、行動を誘引する。
それと同じようなものか。

若い格好なのに、若くないとわたしが想像したのは、若い人なら、もっと着こなし感があるだろう、と推定した。
躍動感なり、行動感なり、その人のライフスタイルや、個性が少しは見えてくるのでは?
(個性がないのが、個性、という場合もあるけれど。若い人やビギナーは、とりあえずマネから始まる)
いかにも、とってつけたみたいだったので、若さに対する執着のようなものを感じた。
そして、やはり、動かない後姿にも、年齢は出る。
若い人のように、すらっとしていない。

気持ちはわかるが、年齢にあった格好をするほうが、リスクが少ない。
ハイリスク・ハイリターン派か、ローリスク・ローリターン派か、だ。

(ちなみに、わたしは、リスクだらけで、
「そのバッグを掛けて家から出てくる、そして歩く、その勇気に拍手」などと失笑を買うことも少なくない)

・・・

単なる後ろ姿だけで、こんなにブログネタになるとは。
梅干を見るだけで、食べもしないで、
酸っぱそうだ、と、ごっくんツバを飲み込んで、ごはんを何杯も食べるかのごとく。

おもちゃ要らず。

「究極の無駄」を追求するには、もってこいである。
本日も、このテーマに図らずとも接近した様子。
ふむふむと、にっこり納得して、終了いたします。


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選択

2014-01-06 | わたし
わたしは、運だけで今日まで生き延びている。
どう考えても、あの時、あのピンチをよくすりぬけられたものだ、と、思い出すことはあっても、
あの時のあの失敗のせいで、こんなに暗転したんだ、と思い当たることはない。

結婚したばかりの頃は、結婚相手を間違えた、選択ミスをした、と、くよくよ新婚1年ぐらいは思っていたが、
子供たちを授かり、わたしより、ずっと良い子たちだった。
わたしも、夫も、子供たちのことは大好きだったので、
もし、他の人と結婚していたら、この子供たちとは永遠に出会うことはなかったのだ、
どんなに素晴らしい幸せの山だらけだったとしても、全く同じ生命体は作れない、
と思うと、結婚相手はあれで正解だったのだ、と考えるようになった。

大きな流れの中では、正解だが、日常の小さな些細なことでは、わたしの神経に刺さり、苛立つこともある。
が、あくまでも、それは枝葉の部分。

子供のいない夫婦は、とても仲良しのようだ。
子供がいないのに、別れないでもっているなんて、すごい。
相性や、努力の積み重ねもあるだろう。

あの時、ああせずに、こうしていたら・・・
そう悔やむこともあるかも知れないが、別の道を選んでいても、やっぱり悔やんでいたかも知れない。
なので、一生懸命、考えて選んだ道を信じるしかない。
仮に誰がどう見ても、明らかに間違っていたとしたら、軌道修正すればよい。
できない場合は、できない範囲で、少しずつ、努力を重ねると、なんらかの方向転換の兆しが見えるはず。

なにもせずに、悶々とするのも、ひとつの道かも知れない。
そのうち、「悶々」は、メタンガスか何か強烈な化学変化を起こしエネルギーになって、なにかが動く。
ただし、悪い方向に動く場合もあるが、一旦、底まで落ち込んで、また浮上する手前の、溜めの動き、
次の行動の前段階、変化の前兆かも知れない。

跳躍する前には、一旦、屈む。

ストレスや悶々をエネルギーチェンジでき、行動に移せる経験をしたら、回路が開発、設定、システム化され、自信がつく。
そうすると、停滞や悩みは、苦しいものの、さほど怖くない。
必ず、晴れる日は来る。

その日が、「死」だとしても、ふっと魔がさして死の誘いに屈することができす自殺するのではなく(自殺はいけません)、
自然な流れで。
ある日、ぽっくりと、老衰であの世に行けたら最高だ。
お気に入りの想い出の品々に囲まれた、自宅の自室かなにかで。
今日のベルパーさんは、来るのが遅いなあ・・・などと、本日の頼みたいことをぼんやり考えているうちに・・・。

が、まだまだ年齢的にも肉体的にも、そんな日は遠そうなので、
楽しんだり、停滞したり、悩んだり、悲しんだり、落ち込んだり、スッキリしたり、喜んだり、感激したり、
持ち時間を自分らしく、充実させて使いきりたい。
充実させない使い切り方も、使い方のひとつなので、これまた結構。
わたしの目下のテーマであるところの「究極の無駄」を追求するのも、意義がある。

あ、このブログも最たる無駄の具現化である。
言うまでもないけれど、あえて言うところが、無駄に磨きがかかっている。

テレビ

2014-01-05 | 日々のこと
岡田准一のファンになった。
綾瀬はるかのファンにもなった。
これは、どうみても、NHKのせいである。
日ごろはニュースぐらいしかテレビを見ないのだが、年末年始、テレビの見すぎである。

昨夜、見たNHKテレビで、V6の岡田准一と、バオリニスト・五嶋龍が出演する番組があった。
わたしは、五嶋龍なる人物は、生まれて初めて、昨日のテレビで、その存在を知った。
なぜか、必死で見ていた。

岡田准一が、いいことをいっぱい言っていた。
ひと世代も違うわたしが、感激し、共鳴するようなことを、言葉をひとつひとつ選んで、語っていた。
若い頃から老成しているというかんじ。
お母さんは教師(間違っているかも?)で、ピアノ家系だとか言っていた。

五嶋龍は、7歳でデビューした天才バイオリニスト。
子供の頃、へにゃへにゃした顔で、気持ち悪かったが、今は、よい青年になっている。
空手も7歳から。
母方の祖父が、空手の師範だかなんだか、そっち系の人らしい。
母方の祖母は、薬剤師。曽祖父は、元・守口市長。
音楽家なのに、青っちょろくなく、水泳の北島選手のような肩幅がっちり、ムチムチ筋肉マンなのは、そのせいのようだ。
ハーバード大学物理学科卒業というのが、
右脳と左脳のバランスが、むっちゃくちゃ素晴らしい。

母親を含む、何人かの師について、英才教育を受けて天才として花開いたようだ。
(異父きょうだいの実姉もバイオリニスト)
母も天賦の才能をもっていたが、道、途中で、完全燃焼できず、子供たちへの教育で、完成させたかたちとなった。
DNAと環境、強い意思・・・このあたりが、そんじょそこらの人と、スケールが違う。(あたりまえか)

しかも、この龍クンも、うんうんと頷けるような素晴らしいことをいっぱい言っていた。
思春期には、自分が選ばない道を歩かされていることに対して、疑問に思う時期もあったが、
神童の挫折も経験し、無事、乗り越えられた様子。
才能の開花があまりにも早いことの苦悩。
バイオリニストというごくごく小さなマーケットで、佃煮にするほどすごい数のバイオリニストがうごめく、
その現実に直面して、自分なりの答えを模索したらしい。

努力するプロセスが楽しいそうだ。
丹田(おへその下、お腹の中にある、内臓と筋肉のようなもの)の使い方も、演奏時に意識すると言っていた。
あんな、天才ですら、である。
丹田、すごい。(あ、社交ダンスも、丹田、力を入れて立ちます)


岡田君も、負けないぐらい、すごいと思う。
「生きているのではなく、生かされている。
自分がどうこうするのではなく、オレがオレが、ではなく、
多くのまわりの人々が、いろいろしてくれて、大きな力が動いて、大きな流れの中に、自分がある」
なんて発言。
若い人には見えないような、精神の奥深いところのものを発見し、気付き、信念に基づき実践している。
勉強、研究、鍛錬、・・・その積み重ね。
気付きがあるのと、ないのでは、大きく成果が違うような気もする。
闇雲にやって、偶然たまたま成功する、というパターンもあるかも知れないが。
時代が変っても普遍の真理があり、演じる役柄を研究していくと、そういうことに行き着くのかも知れない。


わたしは、基本的に、理系であったり、教育者系であったり、感性だけでない、きっちりした教育が基礎にある、
そういう教育方針に、非常に憧れ、共鳴を覚える。
右脳と左脳、両方、同時進行、それが理想だ。片方だけでは、片手落ち。
どちらか一つでも、難しいのに、凡人には、夢のまた夢である。
それだけに、凡人に夢を与えてくれるのが、彼ら、芸術家の使命である。


・・・

お笑い番組もたっぷり見た。

走る芸人、森脇健児。
頂点に達して東京にも進出、20代で天国を見た後、人気が徐々に衰え、やがて仕事もゼロに近くなった。
天国と地獄。
仕事がないから、ヒマがある。
で、走った。で、健康になった。
お金がないから、食べ物が質素になる。
で、健康になった。
時間があるから、いろんなことを見る、考える。
健康、頭もさえる、が、仕事がない。
で、走った。
ただただ走っていたら、走るブームが来たそうだ。
(DNA的には、京都の高校陸上競技史上に名を残す洛南高校「森脇三兄弟」の次男らしい。なるほど)

新幹線も「ひかり」や「のぞみ」ではなく、「こだま」を利用するそうだ。
大目の時間をかけて、モチベーションをあげていくそうだ。
その新幹線の中で、いかにモチベーションをあげていくかというクダリ、つっこみは、面白くなかった。
やはり芸人になりきれていないのか、ネタとしては練りきれてなかったのが、残念。
人気があった頃も、面白くない芸人として名があがっていたようだけど。

彼は、やはり走るだけの芸人なのか。
せっかくお正月のゴールデンタイムだったのに、あそこで、がーんと、おもしろいネタをやってくれたら感動モノだったのに、
キレのいい、しゃべくりネタで唸らせる系の芸人ではなく、ただただ走るだけの、直進型タレントなのか。
単純な、そういうライフワーク、生き様自体がネタになる時代が到来した!!と、彼は言ってたけれど。

天国と地獄を見たあとも、あきらめずに、完全にダメになる前に、活躍の拠点を移したりして、
こころが折れずにモチベーションを維持し続け、粘りに粘って、さらに這い上る、そういう生き様には、拍手を送りたい。
頑張ってほしいものだ。
(ただし、アドリブや笑いのセンスは、痛いけれど)

ドランクドラゴンの地味なメガネのほうの鈴木拓も、おもしろかったが、
長時間になると、大丈夫?と、よけいな老婆心。
長くなるほどに面白くなくなるのは、わたしのブログと同様だ。
・・・

NHKの大河ドラマ、めいっぱい宣伝したおしているようだ。
これも、あんまり前宣伝を見すぎると、せっかくの岡田クン熱が冷めてしまっては、つまらない。

・・・

しかしながら、・・・
テレビを延々、土・日と一日中、つけっぱなし、音もガンガン。
ダイニングリビングの空気を減少させているお方、
ゴルフがない休日は、テレビ命、というお休みというのも、良し悪し。
はやく、お正月モードが終わって、仕事にモードにならないかしらん・・・。

ああ、外は、暗くなって、だらだらブログ、終了の時。
お疲れ様でした。


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迎春

2014-01-04 | 日々のこと
年末年始、お正月モードは、ようやく日常に戻りつつある。
お疲れ様でした。

核家族の皆さま方には、あまり関係ないことだと思われるが、
核家族でも、帰省したりしている皆さま方、
帰る側、受け入れる側、両方、ご苦労様でした。

帰省・大・大会。
久しぶりの顔。
片道1日かかる場所に赴任している息子は、1月2日の夜に帰ってきて、一泊。
3日の朝にはもう出発、また1日かけて元の赴任先に戻っていった。
顔を見せてくれたものの、一瞬。ワープ。
義母なんぞは、遠方から、わざわざ顔を見せてくれたことで、
息子(義母にとっては孫)が帰った後、うれしくて泣いていた。
彼も、口数はいたって少ないが、絆を大切にしてくれているように感じた。
ちょっと忙しなさ過ぎて、あっけないけれど、まあ、往復、飛行機や電車の中では、ゆっくりできるのでは?


もう一つの、大集合。
母を核として、(母から見ると)娘・息子夫婦たち、孫一家(ひ孫も)たち、孫(独身)たちが集合。
皆で、せ~の、と集合写真を撮った。
その時の撮影風景を見て、わたしはデジャブを感じた。

今、母が目の前で座っている場所に、当時、祖母か座り、
父や母が、中心となり宴を催し、父が三脚を用いて集合写真を撮っていたが、それが三脚と格闘している義姉になっている。
晴れ着は義姉のみ。あとは皆、洋服。
当時、晴れ着に身を包み、若い娘や青年だったわたしたちは、今の、わたしたちの成人した子供たちと入れ替わっている。
過去の1ページには叔母たちも来ていて、晴れ着の子供たち(いとこ)を連れてきていた。
つまり、同じこの場所で、一世代、年を重ね、順番に送られていっている。

ほんの瞬きする、そんな一瞬に、あっという間の30年、40年である。
映像フィルムが早回りしているようなかんじ。

祖母と、母が、その姿が、びたっと重なったことに驚きを感じた。
まったく、同じ場所、同じ風景、同じ光景。
そこに集まる家族たち。
感無量。


姉は、自分の嫁ぎ先の実家で、もうすでに、姉一家で、迎春大集合宴会を行ったらしい。
姉の子供たち一家が集まった。
わたしは、わたしで、わたしの子供たち一家が、嫁ぎ先の実家で集まった。
そして、姉一族と、わたし一族が、兄たち、母の元に、これまた一同に。
主流、支流、幹と枝葉、
しかし、枝は枝で、時を経て、それが幹になっている。
それぞれが、集まると、これまた大きな木を形成している。

瞬きする毎に、一世代が、繰越し、時代のコマが送られ、世代が送られていく。
その間には、世代交代、新しい命の誕生、命の終り・・・いろいろ、含まれている。
誕生と終りの間にも、濃厚な人生ドラマが、それぞれに詰まっている。

いやはや、おもしろいものである。


主催者側の誰か一人でも、倒れたり、病気などになったら、この大・大会は、継続できないことだろう。
いつまでできるのかは、わからないが、カウントダウンであることは間違いない。
若い従兄同志や、ハトコたちの、こころの想い出になることができるよう、少しでも続けばいいけれど。
負担が大きすぎると、やがて、自然解消となることだろう。
さて、いつまで、頑張れるか?

結束力の元、求心力の元は、長老、母であろう。
母が元気なうちは、・・・集まったとしても、その後、母の代わりになるものがないと、
衰退していくことだろう。
その時には、また、新しい風が吹いているかも知れない。

その時は、その時。
とりあえずは、母の体とこころが、元気な間は、できれば無理のないように続けたい。
が、今年で育児休暇の終わる娘や姪は、来年のお正月は時間の余裕がないかも知れない。
その時は、その時。
臨機応変に。ゆるやかに、細く、長く、しなやかに。

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