蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

他人は他人なので無関係

2019-06-16 | 日々のこと
いやはや、驚いた。
驚きすぎて、かえって冷静になった。
ある知人の話。
しかし、、、
最近は、ブログにネタとして内容を書きたくない。
わたしのこころの中だけに、しまう。
読む人、全く面白くない、けど。
でも、わたしは自分を開示したくない。
プロの作家でもないので、自分のプライバシーを切り売りする必要性にはかられていないから、ありがたい。

それにしても驚いた。
、、、まだ、言ってる。
書いて鬱憤やらウサやらを晴らす必要もないし、人に知ってもらう必要性もないので、1人で驚くことにする。
あんな人だとは、思わなかった。
少しぐらいは片鱗は知っていたが、、、。
身内なら許せないが、他人なので、胸を撫で下ろした。
他人というのは、楽だなあ。

しかし、あの人は変わっている。
わたしは、変わっている人としか接点が無いのか。
たぶん、おそらく、わたしも、そうとう変わっているのではなかろうか。
しかし、「変わっている」とはどういうこと?
「変わってない」とはどういうこと?
「変わってない」のが、良いのか?
「変わってない」のは、わたしには何の面白みも感じない。
類は友を呼ぶ、で、変人仲間か?
「変人」はなんだか気持ち悪くて美しくなくて、マイナーな響きなので、「ユニーク」とでも言っておこう。
では、変わってない人ばかりが集まっているグループ、って、いったい、どんなグループ?
わたしには退屈で、即、寝てしまいそうだ。

子供は成長するものだ

2019-06-16 | 日々のこと
今日は、こころに何も思いつかない。
あと5分以内に電車内で記事を仕上げるのも無理があるし。

昨夜、別SNSの閉ざされた、知り合いとの2人だけのやりとり、オフレコで胸の内を吐露したから、何にも残っていない。
だけど、朝、起きると気分スッキリかというと、無理やり吐いたような、良くない気分だ。

まあそれは、それとして。
次女、忘れ物を取りに昨夜帰省してきて、今朝、リターン・バッグ。
あっという間。
自立するってこういうことなんだ。

次女が可愛がっていた、次女にとっては甥(わたしの孫)も、小学生になったら自我が出て、次女とは友達の前では手を繋ぎたがらないそうだ。
あんなに甘えっ子で、次女から離れないでまとわりついていた(今も)のに、友達の前では恥ずかしいらしい。
せっかく、小学校初めての運動会、見に帰ってきたのに。かわいそうに。
野生の動物は、野生に帰っていくことを次女もよくわかっただろう。
より人間らしくなっていくんだけど。
いくら可愛がっても自立していくんだ。
喜ばなければね。涙いっぱいの卒業。

でも、まだまだ次々と甥、姪(孫たち)は、ちっこいのがいるから、まだしばらくは楽しめそうだ。
良かったね。
でも、時が経つのはあっと言う間。
そのぶん、自分も歳を取る。
順番だから。

気合ゼロの手抜きファッション

2019-06-15 | ファッション
今日のわたしのファッションは、手抜きゆるゆるである。
そもそも、服装はTPOが原則。
場に応じた服装が求められる。

暑さ寒さ、雨あられ、リラックス快適度。
気分。
センス、トレンドは何処へ。

最近、何度か着たから洗濯する前にもう一度、着よう。
逆に、直近、同じ顔ぶれで着たから、再びは避けよう。
そういうチョイス、服装選び。
そこへもってきて、またまた気分。

全部の要素を満たしたもの、あるいは、満たしきれないものが、今日のお出かけ着。
ハウスウエアは、またジャンルが別に確立されている。機能性一点張り。
見た目ゼロ点、ただし、自分で嫌になり過ぎるのも、精神衛生上、どうかと。

で、そういうプロセスを経過して選ばれ着用しているのが、今、着ている、今日の服。

ほぼ最低ランク。
別に破れているとか、汚れている、とかではない。
「どうでもいい度」が、最高に高い。
孫の運動会か?はたまたら引っ越しの手伝いか?みたいなかんじ。
長時間、着席して作業するので、それに適した服装。
さらに、室内温度があまり調整できない部屋のため、自分で脱ぎ着して調整できるような、着脱、自由度の高い、旅仕様のような。
そして、集まるメンバーは、兄姉と、同世代の姻戚関係の人なので、気を張る必要がない。
ただし、片道二時間半。
朝、家を出て、夜帰宅。

ちなみに、姉は、カフェで1人お茶しながら、街行く皆さんのファッションを眺めるのが好きらしい。
都会と地方での嗜好の違い、センスの違い、、、貧富の差、、、
わたしは、いつも気合いを入れていないので、そういうファッション・ウォッチャーの目には止まらない、いや、目に入りもしないだろう。

思えば、若い頃はゼロが一つ余計についていた価格の服を着ていた。
今は、、、とんでもない。
UNIQLOはお出かけ着の仲間入り。
高い服は買わなくなった。

きっと、街の鏡に映る自分の姿が気に入らないからだろう。
大きなお金は、かけない。
楽しむ程度には、財布の紐を緩めるが。
着道楽の人もいるが、ちっとも羨ましくない。
あらよかったねー、ぐらいだ。
この人は服が好きなんだ、と思うぐらい。
人には人の好み、道がある。
わたしは、ファッションのこだわりは、ほぼ、卒業かなあと思っている。
現役の皆さん、頑張ってください。

しかし、気合を入れていない服だという自覚がある。
だから、気合が入っている人が、逆に目障りになる、超自己チュー。
なんであんなに気合入れるんだろう?
ご苦労さま。
応援ではなく、ねぎらいでもなく、理解できないわ〜の、こころの不可解ボックスへ。
これは、自分が気合入れていない分、余力がへんに反応している。
消化されていないエネルギーが、へんに卑屈にねじ曲がっているのだろう。

まあそれはそれとして、、、
雨も降ることだし、居眠りも混じえ、行きの車内、無事、時間いっぱいブログ記事、完了!
て、まだまだ書き足りないが。

筆が招いた禍

2019-06-14 | 趣味
わたしは、針の穴ほどの小さな些細なことを何十倍、何百倍にも大げさに書く、たいへん悪い癖がある。
抽象的なことや、概念的なことなら、A4何千ページ書き連ねても別に問題はないが、それを映像や写真、色で表すと、一瞬。
その色、物質だけ。
それを見た人が、赤に見えようが、一杯小石を並べたものを遠くから見たモノに見えようが、見た感想は千差万別。
事実は一つ、解説、感想は無限。

そういうわけで、やたら我流解説を暇に任せて、ちんたらこんたら趣味のSNSで書いている。
対象が、物(モノ)、物体なら事実は限定されるが、事(コト)、動作なので、書いても書いてもなんだって、湧き出てくる。

で、やっかいなのが、、、
数式を旋律(たとえば、ハーモニカで音階をつなげたような)で表現したような、わたしの、我流見解。
たんなる感想というものなのだが、それを、数式で証明しろ、と言ってくる、厄介な人がいる。しかも複数。

数式も公式も知らないし、数学自体も、せいぜい、足し算と引き算、掛け算、割り算ぐらいしか知らないのに、「高等数学レベルにも達していないあなたに、失望した」、と言われましても、、、

ちなみに、いつもわたしは、ちまちまスマホ入力なのだが、ちまちまも四年目になると慣れてくる。
だが、昨日、ニュースで、スマホ連続使用で目の病気を発症する症例が増えているというのを知って、少し、ひやりとしている。

スマホはいつでもどこでも便利なので、ほぼ中毒なのだが、、、
それはそれとして、長々と「あなたに失望しました」メールをいただき、返信しようと思ったが、、、あんなに長文、お返しも同等に長文をスマホでやったら斜視になりそうだ。
ホコリをかぶったパソコンを三年ぶりに立ち上げる? めんどう。

とりあえず、あちらSNS、いただいたメールや、皆さんからのコメントをちょっとお預かりしておく。
返信、お時間いただきたい。(といってもいつも最長でも一両日中)
これだからSNSは、めんどうだ。反応があるのは嬉しいが、一方通行ではないため、時間制約とかがある。
この制約、あくまで自分で勝手に感じて、勝手に縛られているのだが。

そもそも、独り言でコッソリ書いていたものを引っ張りあげてくださった方がいて、、、調子に乗って表に出したら、あれやこれやの皆さんの反応。
自分1人の中でのつぶやき、自問自答だとカンタンだけど、人さまの答えに反応しなければいけないのは、結構、疲れる。
悩みの相談の聞き役みたいなかんじか。
「答えはあなたの中にあります」と一律、同じ答えにしようかしらん。

まあ、それは良いとして、失望メールの返信、即返答するのではなく、しばらく醸造させようかと。
でも、無視されたと思われてもいけないから、ちょっとだけ書くつもり。
一言でズバッと的を得たことは書けないので、だらだら長文には、パソコン立ち上げたほうがいいのかなあ、と少し悩み中である。

わたしを買い被り、失望させたのは、わたしの、誇張癖のせいでもあるので、自業自得でもある。
でも、ぶっちゃけ、じつは、わたしはその趣味分野を数学とは捉えず、感性の表現だと思っている。
だから、基礎だけは学んでも、さらに、しちめんどくさい、難しい込み入ったことには全く興味はない。重きを置いていない。
知識はコンピュータ任せ。自分で覚える気がない。

なぜなら、基本の後は各自、自由だと捉えている。
国際バレエコンクールに出るなら、自由ではなく、幾重もの重厚な積み重ねや練習が必要だろうが、別にそこらへんの体育館や公民館で音楽に乗って踊る分には、なんでもいい、と考えている。
(バレエじゃないし)
そもそも、押し付けや、がんじがらめは嫌い。人には人の世界がいるんだから、いちいち、「あなたの世界、レベルが低くて失望しました」なんて知らせに来ていただかなくても、よろしかったのに。

わたしの筆が招いた禍かと、わたしは思っている。
筆は生きているのだ。

努力しない自分を自己肯定してはいけない、と押し付けられても、、、眠いだけ

2019-06-13 | 趣味
自己肯定ばかりしてきている。
自己否定しようと思えば、一瞬で出来る。
自己否定しても楽しくないから、いつも自己肯定している。

そうやって、せっかく、まったり楽しんでいるのに、横から、斜めから、ヤイヤイとうるさく言ってくる人たちがいる。
ノイズ。

彼らは、ある分野において優秀である。
ただ、たんにそれだけなのに、その分野で、まあなんと、上から目線の雨をざあざあ降らせる。
わたしは、もともと、そもそも自分は優秀だと思っていないので、「優秀ではない」と言われたら言われるだけ、ズブズブと地面に、めり込んで行く。
その通りです。優秀ではありません。

貴方たちが優秀なのはよくわかったから、なにも、優秀でないわたしを叩きのめさなくてもいいではありませんか。

気に入らないのだろう。
優秀ではない、なのに努力しようともせず、しかも恥じ入ることもなく、堂々と自己肯定されたら。
とても認められないのだろう。

あなた、それ、恥ずかしがらないといけませんよ。ああ、恥ずかしい。
おおっぴらに、恥を公開してどうするんですか?
無知って1番恥ずべきことです。
え?
無知じゃない?
わかって言ってる?
ありえない。この恥知らず!

そう言われているような気になる。
恥知らずじゃないなら、じっと息を殺してなさい、みっともない!
そんなかんじだろうか?

努力しない自分を肯定など、とんでもない、ようだ。
ダメな自分を肯定など、ありえないようだ。
ありえないなら、ありえないで、こころの中で思って軽蔑してくれたらよい。
なのに、わざわざノコノコ呼びもしないのに、
「努力もせずに低い評価でも構わないとか言って、楽して甘い評価を得ようったって、無理ですよ」と、耳もとで囁くかのごとくは、どうかと。
努力せず、結果は良くない。それは自己肯定すべきでない、と。

わたしは、「評価が低い」という悪い結果も受け入れている。
だが、受け入れ方が曖昧で気に入らないようだ。
「あなたの能力、実力は、これこれぐらいですよ(ぜんぜんダメレベル)」と知らしめようとする。
わかってるって。わかってます。
でも、わかってないように思われ、「自己否定してもいい程度の低いレベルだから、自己肯定は、おかしいのでは?」というニュアンスが、彼らの無意識なところから発信されている。

むこうから寄ってきて、否定しようとする。
キツイ言葉ではなく、冷静な言葉で。
努力しない低いレベルのものは、評価も低い。
努力して高水準になったものは、価値が高い。
そういう当たり前の価値基準を乱すようなことはしてはいけないようだ。
努力しているが低いレベルは、許せるような気配だ。むしろ、応援。
努力が、評価のポイントのようだ。
努力しないかわり、評価が低くてもいい、ってのは、なんでダメなんだろう。
努力していれば、低い評価でも自己肯定してよくて、
努力していなければ、低い評価は、自己肯定してはいけない?

ほんの少しでも自己肯定しようものなら、やんややんやと、そんな大したレベルじゃない、己を知れ、とノイズ、ノイズ、ノイズ。

あ、あ。眠くなってきた。

見たくないものは見ない

2019-06-12 | ブログ
わたしの過去ブログ記事。
とても良いことを書いている場合もあるし、じつにくだらない場合もある。
皆さんのどなたかが、お読みになった足跡を辿って、過去記事を読むと、なかなか面白いものがある。
中には、ちゃんと、「学者や専門家の説」を引用、持ち出しているものもあり、ほっと安心する。
だが、これはクセものだ。
自分の脳内を通って、自分流に解釈して、自分が納得した部分をより誇張して書いていることがある。
情報の調理、料理、味付け。レシピ抜き。
情報の素材そのまま出典元を貼り付けたら良いのだろうが、すでに、元の素材は自分で消化してしまっている。
蛇に飲み込まれた「生き物」だったが、何年もかけて溶けている。
完全に溶けきってはいないが。

じつは、わたしは教養があるのだが(笑)、残念なことに、すべて体内で消化され、元のものは跡形のカケラもない。
さらに残念なことに、消化されて心身の一部、血となり肉となっていれば、万々歳だが、忘却の彼方であることが非常に多い。
自己申告するしかない教養なんてものは、教養でもなんでもなく、単なる思い込みである。
まあ、卑屈にならずに、自分を保つには、ひとつぐらい勘違いがあっても、いいんじゃなぁい?と、にこやかに柔和に、観音様のわたし。

昨日、本屋で立ち読みをした。
読みたい本をパラパラパラ。
すごく興味がある事が書いてある部分があり、常日頃から、劣等感として消えることのないデリケートな話題に引き寄せられる。
そもそも、本のタイトルが、「言ってはいけないこと」みたいなかんじのもの。
で、わたしはその痛々しい劣等感をえぐり出され突き刺さされるかのような解説部分の小見出しと、本文のほんの少しの斜め読みをした。
そして、読むのをやめた。
パス。
自分が気分が悪くなるようなものには接しないこと。それが賢明だ。
書いている人だって、完璧な人ではない。
全方向、全ジャンルに秀でていて、全方向、全ジャンルに欠点がない人などいない。
今更、自分の欠点と向かい、責めて、なんになる。
わたしは改善する気、ゼロである。
長所を伸ばす方向を選ぶ。(そもそも、長所なんかあるのか疑問だが)
残す健康寿命人生、僅かなんだから、人様に迷惑かけずに、いかに自分が楽しむか。
気分が悪くなるようなものに、わざわざ自分が近寄っていく、怖いもの見たさは、卒業したと感じた。
でも、半分うっすら目をあけて、見て、ちらと読み、パタンと本を閉じる。
で、また見て、また閉じる。
好奇心はいつまでもあるようだ。

ちなみに、全く関係ないが、ディズニー映画、面白い。
大好きだ。
「アラジン」を観たが、ウィル・スミス、お茶目。
と、まるで文脈無視のわたしのブログ。
ごめんなさいませ。(→こんな言葉はあるのか?)

付けマツゲの仕上がりと同じ

2019-06-10 | ブログ
閲覧数が上がってきたというのに、引き続き、その流れに乗るような内容を書けばよいのだが、全くそれに反するような内容を書く。
元々、自己チューのための、自己チュー発散ブログだから、一番大事なのは、自分。
そうやって、せっかくの流れを台無しにしていくのも自分、、、

で、皆さんが全く興味のない、わたしの趣味の話。

ここで9割の人はリターン。Uターン。
残り1割の人は一気に一番下までカーソルをスクロールする(または人差し指を下から上へと数回滑らせる)ことだろう。お疲れ様ですー。

さて、誰もいなくなったところで、好きな、書きたいことを書く。

趣味分野SNSでも日記をよくアップしているのだが、あまり自分のことをネチネチ書かない。
他の人の日記とアップ順に、ずらずら並べられるので、店頭に並べられた商品のようで、気後れがする。
だからというわけでもないが、ダンス愛好家の人々の傾向をさらっと書いている。
だが、辛辣、辛口だという感想を持つ人もいる。
ついでに言えば、あちらSNSでは自分のキャラを設定しているように思う。
(蝶ブログは、成り行きまかせ)


昨夜は、「高齢化の波」の話を書いた。
だが、わたしとの関わりには触れていない。
単に「ダンスパーティに行くと、みんな年寄りばかりだった」なんて話では、わたしとしてはオチが無さすぎる。
なぜ、わたしが、そんな年配の人々が集まるパーティに足繁く通うのか、そこを書いていない。
実は、そこが一番、大事な肝なのだが。
なにも暇にまかせて、ブログネタを拾いに行っているのではない。
何故、書かないか。

まあ、それはそれとして、、、

自分のことをわかってほしい、と思う自分。
でも自己開示したくない自分。
「知ってほしい」と、「知られたくない」の中間ゾーンでもある。
矛盾と葛藤。
あれやこれやが、混じって、こんがらがって、泥水のようになっている。
非常にめんどくさい自分である。

と、あれこれ、書いては消し、書いては消し、建設的でない作業が続く、、、
いつもは思いつくまま、考えなしの一筆書きなのに。
(つけマツゲを一回でバッチリ、キメられる時と、何回、付け直しても納得がいかない時があるように。→ああ、ベタな例え)
文字にして物事を考える、わたしの脳の作業効率がかなり悪くなったと痛感する。

今日のブログ、最低最悪の流れになってしまった。
これをお蔵入りにしない自分の気が知れない。



天然が、天然を超した嘆き

2019-06-09 | わたし
最近、ボツ日記が増えた。
これは、完全に広告チラシの裏に殴り書きして、古紙ゴミとして捨てるのと同じ。
自分の気持ちを誰に知らせることも、知られることもなく、気が晴れる。

ブログは公衆トイレの落書きと似たようなもので、不特定多数の誰かの目に触れることを前提に書く。
が、広告チラシは、誰にも見られず、自分の気持ちが収まる。
新しい自意識の現れか?
たとえ見ず知らずの人にであろうが、みっともない自分や、ホンネ中のホンネをさらけ出すことに、抵抗を感じるのだろう。

進化か?退化か?
元々、しょうもない、普通の人なら恥ずかしくて人に言わないようなことでも平気で、さらしていたと思われる。
変人系の人間である。
天然の隠れ蓑を着た、純正天然。
どっちみち天然なんだけど。
天然が退化したら、何になる?
逆に、進化したら、何になる?

今朝も次女との、ほんの20分ほどの会話の中に、言い間違いが2つもあった。
(右を左と言ったり、リンゴをミカンと言ったりする類いのもの。固有名詞だったり、普通の名詞だったりする)
次女に指摘されなかったら気づかない、自分では正しく言っているつもりの無意識なボケ。
言い間違いは、とても多い。
母も若い時からそうだった。

わたしの認知症、ぐんぐん進行形。
孫はぐんぐん成長し、わたしは、ぐんぐん赤ちゃんに、、、
まあ、しかたないか。
天然キャラということで、笑ってごまかそう。
シリアスになると、鬱になっちゃいますからね。


自分擁護のための、追加を。
ちなみに、頭がすごくクレバーな尊敬する知人も、(話したことを忘れて)同じ話を何度もする。
現役知的労働サラリーマン知人も、よく、物を失くす、忘れる。
賢い夫も、そう。
みなさん、大なり小なり、老化現象。
元々、頭脳が売りの人にとっては、認めたくない屈辱だろう。
ああ、天然は、らくちん。

咲かない花が、そんなに大事か?

2019-06-08 | 人生
蕾のまま、咲かずに散りもせず、枯れていくのかなあ、、、
と、自分を自画自賛?している。

もっと咲けば?
咲けるはず。
でも咲かない。

今日もどうにか雨も持ち、孫の初めての小学校運動会だというのに、しかも、次女もそれもあって帰省してくるというのに、、、
わたしは、よりによって、趣味の会に出かける。
毎週、出かけている、いつもの会のくせに。(だが、土日に重なるのが最大のネック)
今しかない、のは、孫と、次女帰省でしょ?!と思いつつ、、、

咲きもしない花(あだ花か?)に、引っ張られるように、半ば苦しい脂汗を流しながら足が向いている。
しかも、少し体調を崩しているのに。

咲かない花に目が行き、咲いた花を楽しむほうを選ばない自分には、自分も家族もサジを投げていることだろう。
咲かない花が、そんなに大事か?
咲いた花を皆で鑑賞するほうが、豊かな満ち足りた時間なのではないのか?

自問自答するものの、咲かない花から答はない。
何年も後に、今を振り返ると、どう思うだろうか?
家族も大事、自分も大事、どっちも大事。
でも自分を選んでいる。
咲かない自分なのに。

自己チューもここまで行くと筋金入り。

意味もなく涙を流してみたり

2019-06-06 | 人生
人に期待しなくなった。
期待して思うようにならなかったら、失望するから。
自分にも期待しなくなった。
毎日、自分自身のことで失望することが増えてきている。

ブログなどで、想いをぶちまけると、スカッとしていた。
今は、、、、あまり、「ぶちまける」こと自体がなく、静かな悲しみのような、諦めのような、わけのわからない涙を流すことがある。
たぶん、自分の、緩やかなマイナス方向に進んでいることに対する「惜別」や「無念」からか。
不思議と、「虚しさ」はない。
きっと今まで充実して楽しかったと自分では思っているからだろう。

これといって、深刻な事情や病気を抱えているわけでもない。
自分にしか興味がないわたしは、自分の不出来さえ面白がっていたが、今は笑えない。

別に何があったからというものではない。
どなたかが引っ張り出してきた、わたしの過去記事を読むと、怒りなど負の感情、逆噴射をエネルギーにしていると感じる。
あの頃は、元気だったんだね、わたし。
他人を見るような、懐かしい気さえする。
まだ10年も経っていない、ほんの少し前なのに。

今は幸せなんだろう。
幸せって、じつは、アタマの中になんにも無いこと?
幸せって、自分が消えていくことなのか?
自我をなくすと、不満も消える?
自我とはまた違う何か、、、
、、、抽象的なことを書いても面白くない。

母の悪口でも書けば、ちょっとは盛り上がるかも知れないが、もう盛り上がらない。
懐かしいだけだ。
そんなこともあったなあ、と。
過去形。終わったこと。
そうやって、どんどん終わったことが増えていく。
これからのことと言えば、数時間後に孫が来る。
だから、今のうちに準備しよう、ではなく、今のうちにサボっておこう、である。
わたしは、なんてサボりなんでしょう。
サボるの大好き。
ぼけーっと何にもしないの、大好きである。

自分と同等の生きもの(=人)と接触しないと、心身共に活性化しない。
わたしは、ペットを飼わないし、興味もないので、ペットの世話に明け暮れたり、癒されたり、ペットロスで悲しんだりすることはない。
生きものは、人間だけで充分である。

最近のわたしは、なだらかに柔和になり過ぎて、脳みそも、もはや原型を留めていないかも知れない。
人に迷惑はかけないが、役にも立たない。
(これは前からか)
自分を面白がるにも、あまり面白い要素がない。
だから、別サイトの趣味関係SNSでも、もう3つも記事をお蔵入りにしている。
書いても書いても、ボツにする。
訂正、加筆を重ねても、新しく書いても、アップに至らない。
自分を面白がっていないからだろう。
おそらく過渡期だと思う。

着たい服が変わってくるように、書きたいことも変わり、今までの内容では面白くなく満足いかなくなっているが、次の新しい芽が出ていない。
現状を否定するものの、代案は生まれていないようだ。
季節の変わり目、節目のように、脳みその変わり目なんだろうか。

人生の区切り、3つ目に差し掛かっている。
4つある中で(4つ目は人生終了)、3つ目を飛ばしていきなり4つ目に強制移動の場合もある。
仕事一筋の人がリタイアしたら、毎日サンデーをどう過ごすか、膨大な選択肢を目の前に悩むこともあるだろう。
指折り数えて待っている人もいるだろう。
薄々予想はしていても、その時になってからしっかり考えようと思っている人もいるだろう。

わたしはリタイア世代の中では最も若い。
(リタイアを70歳まで引き上げようと政府は目論むが)
(お年寄り愛好家の中では一番若い、社交ダンスと同じだ)

余りあると思っているのは時間だけ。
健康とお金は、無限ではない。
膨大な時間だけあっても、その時間を楽しく有意義に使えないと意味がない。
ぼやぼやしているうちに、黄金タイムは過ぎていく。

焦ることはないのだが、あくせくせず、もったいなく使う黄金タイムが一番贅沢な幸せかも知れない。

長いばかりで眠たくなった、今日のブログ。
午前の睡眠導入剤だ。