地元FMラジオで、昨日、生出演していた藤井フミヤが言っていた。
ゲストが感銘を受けた言葉を朗読するコーナーがある。
「これまでは、これからが決める」
これは何宗(仏教)だかの偉いお坊さんの言葉だそうだ。
ふうつ考えるのは、「これまでが、これからを決める」みたいな、今までやってきたことが今後の道筋を決定する、というようなもの。
過去は消せない。
ところが、この「これまでは、これからが決める」は、過去の結果が良かったかどうか、
その評価は、これからの行いによって左右される、というもの。
悪い過去であっても、失敗は成功の元であったり、気づきを得たり、思わぬ未来が待ち受けている。
もう動かせないわけでもなく、終わりではない。
これは、ワクワクする。
なんだか、ぱーっと未来が拓けて明るくなったような気持ちになった。
自分の考え方、気持ちの持ちよう一つで、良くも悪くもなる。
さすが、お坊さんは良いことを言う。
感心、感心。
素晴らしい教え、導きが書かれたブログがある。(たまたま通りすがりに読んだ)
ふむふむと参考になる。
こころのヒダに染み入る。
ただ、話が進むにつれ、「神がこう言っている」という文章を目にした途端、わたしのボルテージは下がる。
自分が作った神ならオッケー。あちこち寄せ集め神。
自分の中でいったん消化した後に、自分流アレンジ、アウトプットなら良い。
であるが、特定の宗教、、、聖書の何ページ、第何章、みたいな、お勉強会は、わたしは苦手。
では、たとえ仏教でも、「親鸞はこう言っている」ならどうか?
何ページ、第何章でなければ、抵抗はない。
が、それでは仏教エコひいきになる。
ちなみに、わたしは親鸞さん、全然知らない。
何しろ、お勉強会は嫌なのだ。
自分が取り入れて血となり肉となるのは大歓迎だが、まるまる引用部分を引っ張り出してきてお勉強は抵抗感がある。
データを元に、考察するのは好きだ。
が、先に結論から行き、何故ならば、と検証するためにデータを引っ張ってくることもある。
しかし、結論付けたいために、無理矢理、都合の良いデータばかりを採用するのは偏りがある。
逆の結論に至るようなデータもあるはずなのに、見て見ぬふり。
世の中にはそんなことは、ごく普通にある。
科学者や研究者の方々、時々、糾弾されることがある。
しかし、結論を急ぐあまり、科学まで捻じ曲げようとするのは、愚かなこと。
さらに、一つの特定の宗教だけを引っ張り出すのは、アタマからなんでもかんでも鵜呑みにして洗脳されているかのイメージがつきまとうので、わたしは敬遠する。
自分が信じていることを人にもぜひ、と勧めたいあまりだろうけれど、押し付けがましいのは嫌いだ。
なので、わたしは特定の宗教にドップリにならない。
自分で考える力を奪われるのは精神的に楽だが、それは思考停止である。
麻酔やモルヒネは、一瞬、最大に痛い、苦しい時(手術時など)に使うなら良いが、ずーーっと常用は良くない。
ただし、緩和ケアには最期まで用いるようだ。
考える力は持っていたい。
考えてもどうにもならない、改善しない、悲劇しか生まないなら、緩和ケアと同じ用い方をするのだろう。
あるいは考える力がつくまで、カウンセリングなりケアなり、こころのサポートをする。
思考停止はある意味、楽。
ではあるが、、、。
自分で考えられるまで、援助するのが、本当の助けではないだろうか。
だが、自分で考えられなくても、宗教を芯にすることで弱ったこころが蘇ることもある。
宗教は嫌だと言ったり、助けになると言ったり、どっちなの?
試行錯誤で自分なりのさじ加減をして、こころを丈夫にしていただきたい。
さてさて、、、まとめ。
感銘を受ける言葉に、気づきを得る。
これは素晴らしい。
脳やこころをニュートラルに保ち、いつでも反応したいものである。