蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

いつもニュートラル

2022-06-16 | わたし
地元FMラジオで、昨日、生出演していた藤井フミヤが言っていた。
ゲストが感銘を受けた言葉を朗読するコーナーがある。

「これまでは、これからが決める」

これは何宗(仏教)だかの偉いお坊さんの言葉だそうだ。
ふうつ考えるのは、「これまでが、これからを決める」みたいな、今までやってきたことが今後の道筋を決定する、というようなもの。
過去は消せない。
ところが、この「これまでは、これからが決める」は、過去の結果が良かったかどうか、
その評価は、これからの行いによって左右される、というもの。
悪い過去であっても、失敗は成功の元であったり、気づきを得たり、思わぬ未来が待ち受けている。
もう動かせないわけでもなく、終わりではない。
これは、ワクワクする。
なんだか、ぱーっと未来が拓けて明るくなったような気持ちになった。
自分の考え方、気持ちの持ちよう一つで、良くも悪くもなる。
さすが、お坊さんは良いことを言う。
感心、感心。

素晴らしい教え、導きが書かれたブログがある。(たまたま通りすがりに読んだ)
ふむふむと参考になる。
こころのヒダに染み入る。
ただ、話が進むにつれ、「神がこう言っている」という文章を目にした途端、わたしのボルテージは下がる。
自分が作った神ならオッケー。あちこち寄せ集め神。
自分の中でいったん消化した後に、自分流アレンジ、アウトプットなら良い。
であるが、特定の宗教、、、聖書の何ページ、第何章、みたいな、お勉強会は、わたしは苦手。
では、たとえ仏教でも、「親鸞はこう言っている」ならどうか?
何ページ、第何章でなければ、抵抗はない。
が、それでは仏教エコひいきになる。
ちなみに、わたしは親鸞さん、全然知らない。

何しろ、お勉強会は嫌なのだ。
自分が取り入れて血となり肉となるのは大歓迎だが、まるまる引用部分を引っ張り出してきてお勉強は抵抗感がある。
データを元に、考察するのは好きだ。
が、先に結論から行き、何故ならば、と検証するためにデータを引っ張ってくることもある。
しかし、結論付けたいために、無理矢理、都合の良いデータばかりを採用するのは偏りがある。
逆の結論に至るようなデータもあるはずなのに、見て見ぬふり。
世の中にはそんなことは、ごく普通にある。
科学者や研究者の方々、時々、糾弾されることがある。

しかし、結論を急ぐあまり、科学まで捻じ曲げようとするのは、愚かなこと。
さらに、一つの特定の宗教だけを引っ張り出すのは、アタマからなんでもかんでも鵜呑みにして洗脳されているかのイメージがつきまとうので、わたしは敬遠する。
自分が信じていることを人にもぜひ、と勧めたいあまりだろうけれど、押し付けがましいのは嫌いだ。
なので、わたしは特定の宗教にドップリにならない。
自分で考える力を奪われるのは精神的に楽だが、それは思考停止である。
麻酔やモルヒネは、一瞬、最大に痛い、苦しい時(手術時など)に使うなら良いが、ずーーっと常用は良くない。
ただし、緩和ケアには最期まで用いるようだ。

考える力は持っていたい。
考えてもどうにもならない、改善しない、悲劇しか生まないなら、緩和ケアと同じ用い方をするのだろう。
あるいは考える力がつくまで、カウンセリングなりケアなり、こころのサポートをする。
思考停止はある意味、楽。
ではあるが、、、。
自分で考えられるまで、援助するのが、本当の助けではないだろうか。
だが、自分で考えられなくても、宗教を芯にすることで弱ったこころが蘇ることもある。
宗教は嫌だと言ったり、助けになると言ったり、どっちなの?
試行錯誤で自分なりのさじ加減をして、こころを丈夫にしていただきたい。


さてさて、、、まとめ。
感銘を受ける言葉に、気づきを得る。
これは素晴らしい。
脳やこころをニュートラルに保ち、いつでも反応したいものである。







こころ

2022-06-15 | 老い
自分の気分を自分で調整出来なくなった。
あくまでも「気分」。
昔っから気分屋なのだが。
状況も周辺事情も全く同じなのに、何の原因もないのに、気分だけが何故か下がる。
「落ち込む」とまではいかない。
意味もなく、「ふさぐ」の一歩か(百歩か)手前。
これは、小さな小さな危険信号?
危険とまではいかない。
以前は感じなかったのに、最近はほんの少し自覚する瞬間がある。
が、1時間以内には治っている。
これも、自然な老化なのか?
今後、益々、意味なくブルーにならないよう、自分に祈っている。

ほうれん草とか、人参とか、体に良い食べ物を積極的に摂取する?
薬のお世話になることはない、と強く思う。
そんなに大したブルーではないから。
小さな軽い頭痛のようなもの。
今まで感じたことがない、超ハッピー人間、楽天家なので、未知、未経験のことには不安なのだ。

とか言って、今日は意味もなく気分が良い。
別に何があるわけでもなく、こころは快晴。
それはそれで、良いことだ。
必要以上に盛り上がってお祭り騒ぎということはなく、ただなんとなく、気分が良い。
病気なのかしらん?(ミニミニ躁鬱アップダウン)
お天気、日射状態や気温、湿度、雨、風、、、などに影響を受ける、、、ヘアスタイルのようだ。
微妙すぎて、話にならない。
もちろん、ブログネタにもならない。
でも書いている。
変わりゆくかも知れない自分が不安なのだろう。
こんなに楽天家で、ノーテンキのわたしなのに、こころの調子を自分でコントロールは出来ないようだ。
体調の良し悪しは、理由がわかる。
例えば、前夜、飲み過ぎると身体がだるい。倦怠感や疲労感に襲われる。
二日酔いという、世の中によくよくある、自分が原因のもの。
滅多に飲まないし、飲んでも少しだから、あまり二日酔いにはならないが。

原因不明の倦怠感というものも、ごくごく稀にあるが、数時間でリカバーする。
身体は丈夫のようだ。健康体。
アタマを使わないから、こころも丈夫。
繊細なガラスのようなハートは持っていないと自覚する。
だが、最近、電車内などでの他人の無神経な行動に遭うと、無性にムカつくことがある。
歳のせいか?
許容力低下?
一人でムカムカ怒りまくっているが、電車を降りると忘れる。
やはり、こころに悪影響を及ぼすものには極力近寄らないこと。
逆に、プラスの影響を受けるものやコト、場所に近寄ること。
旅やお店など、好きな空気に触れに行ったり、木々のグリーン、空や水辺の蒼、紅などの自然界の色を目にしたり、心地よい風、光を浴びると、こころが洗われる。

こころが喜ぶと、身体も元気になる。
自分の体調を知るように、こころの健康を保つために、自分の精神状態を知ることは重要だ。
自分ではどうしようもない時は、スイッチを切る。
また次の日になると、電源が入れ直され、リセット後は、新しくなって立て直されていることがある。
一日では無理なこともあるが、気長に待つ。
待っている間に弱りきってしまうこともあるので、自分の微妙な警報をキャッチし、自然にまかせすぎずに外に助けを求める。

わたしは、今まで求めたことがない。
頑丈なのだろう。
どうにかなってきた。
というか、何も出来事がなかったのでは?
しかし、そうなら、それはそれで、虚しくなるはず。
虚しくなる時間はなかったので、なんなりとそれなりに、することはあったのだ。


それはそうと、最近、夜、テレビを見ていると、居眠りをしていることが多い。
椅子に座ったまま、首だけ垂れている。
ヤダヤダ、、、だけど、見たいテレビのはずなのに。
あまりにも目が覚めない場合は、テレビを諦めて、本格的に寝室に場所を変えて就寝する。
NHK番組「世界はほしいモノにあふれてる」で、すごく可愛い小物をステキな街とともに紹介していたのに。
もう、あまり好きではないのか?
いいえ、とても好き。
じゃあなんで?
なんでだろう?
体調か。
あるいは、22:30以降は、まぶたシャッターが降りる閉店時間なのか。
順調に、おばあさん街道まっしぐらである。



重い

2022-06-13 | 思い出
今日の気分は、、、
なんとなく、おばあさん(姑の姑)のことを書きたくなった。
何度か、蝶ブログには書いているが、なぜかぶり返す。

姑の姑(夫の父方祖母)Aは、小柄だが、キリッとした知的な明治生まれの女性。
婦人会で活躍もしていたようで、行動力があったと聞く。
わたしが初めてちゃんとAと話したのは、結婚してすぐ。
「ここは、あなたの家だと思って寛いでくださいね」と言われた。
ご挨拶のようなお手紙もいただき、今も保管してある。
(一回ぐらいしか読み直したことがないけれど)
ある日、真珠のネックレスをいただいた。
白いVネックのニットトップスの服をいただいたこともある。

かくしゃくとした、存在感のある人だった。
若い頃は、ぼんぼんじいちゃん(旦那さん)に振り回されたが、晩年は夫婦で旅行に出かけることもあった。
おじいさんを送った後は、寡婦で8年ぐらい過ごし、わたしの末っ子が生まれた半年後に病気で84歳で他界した。
菜園で胡瓜などを毎日もぎ取り、姑にもお裾分けしていた。
姑は毎日、 Aおばあさんの晩年には食事を作り持って行っていた。
偉いなあ、、、と感心する。

Aおばあさんは、昭和4年築の家におじいさんと住んでいた。
2度のリフォームを経て、今も現役の美しい(とわたしは思っている)家であるが、1度目の大規模リフォームの後に、わたしたち母子は1年間、その家に住んでいた。

Aおばあさんは、真面目な成績優秀な優等生だった。
だが、結婚相手(おじいさん)が、お洒落なボンボンだったため、何かと苦労した。
おじいさんの写真を見ると、カッコいい男性だった。
ああいう男性は、夫にすると苦労しそうだ。
実際、苦労したわけだが、、、。

姑の仏事で、ご近所に住む人とお話しする機会があった。
「おじいさんが、(ぼんぼんちゃん、故)Aおばあさんなら絶対に売ってくれない家を売ってくれた。ありがたいことだった」と、今も感謝の言葉を述べられる。
おじいさんは、夢のような話に乗って、次々に土地や家を手放していった。
夢見る、ぼんぼんちゃんだった。
そのせいで、かどうか知らないが、おじいさんの息子(舅)は、まあ堅物、石頭堅吉、「1足す1は、何が何でも2!」の人だった。
姑はよくぼやいていた。
無駄なお金、合理的ではないお金、納得できないお金はビタ一文と払わない主義(誇張表現あり)の舅と、考え方が合わずに困っていた。
わたしの目から見ると、姑こそ、何であんな無駄遣いをしたがるのか、理解に苦しんだ。
わたしは、舅派。
そのせいか、舅と同じ感性であるが故に、微妙に違う些細な点が気になって、あまりウマは合わなかった。

Aおばあさんには、さらに上に姑Bがいた。
夫の母(わたしの直属の姑)が新婚旅行中に、その大おばあさんBが亡くなり、急遽、新婚旅行の日程を変更して舅と姑は旅先から帰ってきたとか。
1951年没。
その時、姑の姑、Aおばあさんは、49歳。まだ若い。
翌年には初孫が誕生している。50歳で初孫。
これは、姑も40代中半で初孫なので、同じようなものか。
(しかしまあ、時代は変わり20歳ぐらい今のほうが結婚、出産年齢が遅くなっている)

と、それはそれとして。
姑の姑、Aおばあさんは、カシコイ人だった。
身長は低めで体重も普通だと思われるが、落ち着いた風情で、どっしりしていた。
話す言葉や、書く文章も、折り目正しいイメージで、近寄りがたいオーラを放っていた。
おちゃらけではないが、ユーモアやウィットも備えていたような気がする。
姑は冗談をよく言う、朗らかなタイプ。
ただし、脳の回転が速すぎて神経質。
わたしは、脳の回転が遅すぎるノーテンキ天然なので、接点がまるでなく噛み合わないため、衝突や摩擦も生じなかった。

おばあさんたちは、優秀でカシコイ人ばかりなのに、わたしの代になって急に質が暴落した。
子供への DNAは、わたし分を引き継がなかったようなので、やれやれ。
わたしは、単に、貸し農園のごとく、畑をお貸ししたのみ。
姑たちが横から上手に水をやり、肥料を足し、日射を調節した成果なのだろう。
だが肝心の種そのものは、あまり簡単には手に入らない貴重なものだったようだ。
子供たちはそれで良かったと思われるが、過保護の夫だけが修正されないまま、次の時代に移ってしまった。
母親の手によって自立能力を潰された。
潰されたものを今更、わたしは手を加えたくない。
と、突然、快晴後の土砂降り、天使と悪魔のように豹変するわたし。
ランダムに混ざっている。

Aおばあさんは、長男(わたしの舅)とソリが合わなかった。
厳しすぎる息子と、厳しいおばあさん。
似たもの同士のような気がする。
息子(わたしの夫)は、正反対。
わたしも甘々。
こんな夫婦では、姑が手を出したくなるのもわからなくない。
夫を非難することは、自分を非難するのと同じ。
自分のことは、嫌というほど非難しているが、あまりやり過ぎると(自省の念が強すぎると)こころの病気になってしまう。
まあほどほどに反省して、ほどほどに鬱憤も晴らして、、、と。

Aおばあさんのことを書こうと思っているのに、またまたまだやっていないタスクがじわじわ重くのしかかって来た。
そろそろ限界かな、と。
重い重いお尻を無理やり上げなければならない時が、目前。
ああ憂鬱。 
でも、グズグズ動かないで後で困るのはもっと憂鬱。
窮地に陥る直前の、窮地。
なんでこんなに、わたしはお尻が重いのだろう。
嫌になる。
(Aおばあさんのことは、もうアタマから飛んでいる)

それと、ブログ村さま
ずーーーっと、不具合が続きます。
どうにかなりません?





お気楽

2022-06-12 | 暮らし
なんだかお疲れ気味。
楽しい行事、スケジュール目白押しなのに。
体調は管理できても、気分はなかなか言うことを聞いてくれない。
難儀。
こんなに自分の感情をコントロールする努力をしているのに。
わたしは天然だから、プラスもマイナスも自然体なのか、、、

今、気になっているタスクが2つあって、ずしんと頭に重く乗っている。
はやくクリアしないと、憂鬱気分が続くではないか。
本格的に梅雨入りするまでにどうにかしないと。

と言いつつ、子供たち一家や、夫は、病気にもならず、毎日、仕事や学校、保育所に通い、心身健康で有り難く幸せである。
朝はわたしの気分がほんの少し下がったが、それはブログの書き始めの時だけで、すぐ回復した。
ああ、良かった。

昨日、今日と2部制スケジュール構成で、楽しい時間を過ごした。
アドレナリン出っ放しである。

ちなみに、最近、他のgooユーザーさんのブログを読むことがある。
アピールチャンスで自薦、紹介されているブログ記事で、なんとなく興味を引かれた記事を読む。

今朝、読んだブログは、わたしと同世代の男性ブロガーさんが書く、ご夫婦と、長男さん一家(夫婦+子供二人)と、次男さん一家(夫婦+子供は二人)で、親御さんが入所している施設にお見舞いに行く話だとか、GWに、交代で息子さん一家が実家に帰省して泊まる話などが書かれていた。
ここで、キーとなるのは、ブロガーさんは、男性ということ。
微笑ましい話だったが、息子一家のお泊まりはかなりデリケートで、奥さんたち(自分の妻と息子の妻。嫁姑の関係)はとても疲れる。
そのあたり、じいちゃんは気楽でいいなあと思った。
妻たちは、お泊まりなどとは、、、めちゃくちゃバテていると想像する。
おそらく、奥さんの心情を推測る息子さんであれば、気が気ではないと思う。

そういうことに無頓着、無神経な男性はお気楽でいいなあ、と。
女性間の感覚を理解できないと思う。
自分のケースに置き換えて感情移入すると、むしろ腹立たしくなってくる。

我が家の場合、次女の夫(娘婿A)がうちに泊まるのも、お互い気を使うので、娘婿Aは泊まらないで帰宅する。
(バス、徒歩を挟み、電車で2駅離れた場所)
土曜日の夕方に集まった場合、夜、娘婿Aを解放してあげると、日曜日、彼は一人でゆっくりできる。
日頃、子育てに追われる次女夫婦、一人の時間を作ってあげる次女の娘婿Aに対する気遣いでもあるようだ。
そして何よりもわたしも喜ぶ。

長女は、夫(娘婿B)の実家(新幹線利用)に泊まる時は最低限の日数にして、あとは旅館に泊まったりしている。
旅行気分であるが、長女も娘婿Bも、娘婿のご両親も、ほっとしている。
全員ウィンウィン。
(ただし、かなり遠方に住んでいる娘婿Aの実家の場合は、生まれてまだ1年未満の子供と滅多に会えないこともあり、泊まる)

男性は本当にそのあたり、気がつかないようだ。うとい。
何の問題もなく楽しそうなブログ内容に、奥さんたちの気遣いや気疲れをわたしは一人で感じている。
男性のブログはそのあたりがどうも、複雑、わたしの神経に微妙に刺さる。
中には、丸く収める人もいるだろうけれど。


そこへもってくると、、、
同じ実家でも、実家の実家であれば、生活していない上に家族の歴史が積み重ねられているので、ほどよい距離感が保てるため、各家族、全員集合でお泊まりになっても、快適な時間が過ごせる。
過去の思い出も詰まり、また、今、思い出を作り、それぞれ一人一人が未来への思い出を紡ぐ。






朝から涙

2022-06-11 | 無題
次の行動に移る用意をするまで、あと1時間。
さて。
さあ、遊ぼう!!
わたしのブログタイム。
うきうき、にこにこ。

しかし、ブログ村さん、またまたわたしコーナーの記事とリンクしない。
直近3つあるうち、2つはリンクした。
なんで、最後の1つだけ放置?
もう知らん。
またそのうち、忘れた頃に、ブログ村さんの気分次第の時間にリンクされることだろう、、、。

ブログとはまた離れたリアルなところで、朝から、センチメンタル気分。
涙。
またか。
行ったり来たり。
そうやって大人になる?
いや、もう大人なわけで。というか高齢者枠。
そうやって老化に向かう?
天然、自然の目薬で目を洗い、潤す。
目薬要らずで、ありがたい?
なかなかエコです、はい。

ではあるが、気持ちを整理するのは、どうすればよい?
自分に言い聞かせる? 言いくるめる?
理詰めで納得させる?
理性と感情を闘わせ、理性を応援する?
フレー!フレー!理性!!

とは言うものの、頑張っても改善しない。
自然にまかせると、一向に良い方向に向かわない。
病気や怪我も治らない。
むしろ膿んでくる。
しかし、外科的治療をする勇気がない。
受け身、なすがまま、自然派のわたし。
ハッキリした行動を選び取り、能動的に選択する人が見ると、イライラすることだろう。
時間に任せても、化膿している場合、抗生物質のお世話にならなければ、いたずらに苦しい時間を過ごすだけ。

わたしにも、気持ちの波がある。
躁状態と鬱状態が交互に繰り返される。
これも人間の自然なメカニズムの一つかも知れない。
別に方針として考え取り入れたわけではないが、そういう時は、薬の力を借りることなく、天然の涙で洗い流す。

悲しみやイライラ、嫌な感情、負の思いは誰にでもある。
皆さん、どうやって対応しているのだろう。
決して克服しているわけではないと思う。
自分に正面から向き合って受け入れるか、あるいは、ぷいと横を向いて知らん顔する。
あまり生真面目に受け入れようと頑張らなくてもいい。
自分に無理を強いるのはよくない。
しんどい。
何ごとも自然の流れに身を任せる。
濁った水も、静かに放置すると、やがて固体は沈澱する。
だが、溶けてしまった液体の場合、待てど暮らせど、濁りは元のように戻らない。
どうする?
どうしようもない。
そう。どうしようもないのだ。

一度、全て捨てて、容器を洗浄して、また新しく一から入れ直す?
しかし、真水には生物は棲息しにくい。
少々、濁りや他との混ざりがあるほうが、栄養になることがある。
ただし、栄養のつもりが腐っていることもある。
悪貨は良貨を駆逐することもある。
体調を崩してみて初めて腐っていることに気づく。
自覚症状がなくどんどん悪化している場合もある。
気づいた時は手遅れ。

まあ色んなケースがあるわけで。
自分で考えて決めてもうまくいかない。
そんな時は、手を離す。身体の力を抜く。
流れに身を任せる。
これ、映画の「はい、泳げません」で、水泳コーチの綾瀬はるかが言っていた。
深い示唆がいっぱい詰まっていた。

ちなみに、話はころっと変わるが、
俳優の長谷川博己、好きだなあ。
お笑い場面は、力が入り過ぎて、その力の入れ方はワザとなんだろうけれど。
ダンスにも、力を入れて、力を抜く、という動きがある。
前に力を押し出しながら後退する、というのもある。
運動も人生も共通点があると感じる。

ブログで1時間遊ぶ予定がまだ30分しか経っていない。
今日のブログはあんまり、わたしを救ってくれなかった。
だけど、時間潰しもまた、良いのかも知れない。
まあなんでもいいのだ。

こうやって大きくなるんだ、、、

2022-06-10 | 日々のこと
どうにか、ブログ村・マイページに蝶ブログがリンクされたようだ。
が、、、自分のテンションはすっかり下がった後。
こんなブログにでも、テンションはある、、、のだ。

ちなみに、昨日、もうじき5歳孫U(女児)が、何やら歌っている。
ものすごく大きな声で、聞いたことも見たこともない、何語?何のジャンルの音楽?という、歌詞付きの延々流れるような曲。
肺活量や気合いが要りそうなオペラ風。
作詞作曲U、演者、歌手U。
お腹から声を出しているかんじだが、高い音域が続く。
何を言っているのか、まるで見当もつかない言葉らしき歌詞を、音程、リズムに合わせて歌っている。
彼女は日本語もちゃんと理解し、聞いたり話したりするのに、あの言語は何だろう。
U語。自分の世界に浸っているようだ。

あまりにも不思議な楽曲だったため、昨夜、娘にLINEで聞いてみた。
「テンションが上がっている時は、Uはあんなかんじ」という返事をもらった。

音楽は家庭の影響を受けると考える。
クラッシックがいつも流れている家、ロックやヘビメタがガンガンかかっている家、ビートルズ・オンリーの家、フォークソングが静かに流れる家、民謡、演歌、歌謡曲、洋楽、、、色々だろう。
娘の家は、無音。
音楽はかかっていない。
だが、保育所やTV、映画などでは映像、音楽の嵐。
好みや偏りも多少あるかも知れないが、洗練された教養が滲み出そうなものから、ガチャガチャした雑多なものまで、どれが良い悪いではなく、趣味の問題。
だとすると、孫Uの、あのエスペラント語のごとき、オリジナル楽曲は、どこから来たのだろう。

Uは、少し前はお絵描きに夢中。
絵心やセンスがあるかというと、うーーん、、、で、好きな色鉛筆だけがどんどん減り、買い足すことになる。

Uは4歳の時には、別の名前を自分に命名し、今や、家族以外にもその名前で呼ばれている。
けったいな子ではあるが、独自のキャラを作っている。
顔は乳幼児の頃とかなり変化して、目がパッチリ、色白で、ハッキリした顔立ち。
この子の妹が1歳10ヶ月なのだが、最近、急に喋るようになり、ビックリ。
しかも、単語、語彙、擬態語が正確で驚く。
今まで話さなかったが、自分の脳内にはしっかりプールされ、理解していたのがわかる。
こちらから具体的に言葉の見本を示さなくても、自分の引き出しから言葉をチョイスして話す。
うちの部屋のフロアに小さい点々のようなものが落ちていて、「あら、これなにかしら?」とわたしが言ったら、ベビーちゃん妹は、「ゴミ!」と答えたのには、ひっくり返りそうになった。
いやはや恐れ入りました。
赤ちゃんと思っていても、2年もしないうちに、どんどん進化する。
楽しくもあり、驚きでもあり、目を見張るものがある。
こうやって、わたしたちは大きくなってきたのだ。
今更ながら、当たり前とは言え、感慨深い。



不具合の、ぼやき

2022-06-10 | ブログ
ブログ村さま、蝶ブログを更新してもリンクされません。

ここのところ、連続。前にもそういうことがあった。
不具合。
一応、わたしはgooは有料会員ではあるものの、ブログ村は無料なので、発言権はないと弱々しく思っている。
こうやって、次の記事を更新した頃に、前の記事と同時に、ブログ村の自分の記事コーナーに、お目見えとなる。
これがいつもの流れ。
どこかで、記事が渋滞しているのだろう。
詰まって出てこないかんじ。

試しにこの記事をアップしてみる。
2つ、記事が同時に現れてくることだろう。
超個人的に、結構、気になる。
単なるシステム不具合なんだけど。

と、2つ目をアップしたものの、まだ不具合は続き、ブログ村に反映されない。
今回は長い、、、。

お友達はテレビ

2022-06-09 | 暮らし
珍しくブログ村エッセイの注目記事に、AIが選んでくれた。ランクイン。
人気ブロガーさんが、しばらく更新しないと、ベスト10内にポストが空くようだ。
あまり意味がない注目記事なのだが、想像するには、記事内の言語が、巷の検索ワードに複数ヒットすることもあるのだろう。

だがしかし女史(わたしの娘世代)ブロガーさん、今、ちょっと忙しいのかな。
彼女のブログ、強烈(な時もあり)面白いんだけど。
同じ、わたしの娘世代でも、全然違うところが実に刺激的。
部分的に同じところもあるが、どうも違う。
そりゃあそうだ。
赤の他人だから。

話はころっと変わるが、昨夜、TVの深夜番組を観た。
タワマン最上階に住んでいるのはどんな人?という、森三中の一人がレポート。
マンションやクルマの所有品の話の中で、数億円だとか、数千万円だとかの金額がぽんぽん出てきた。
35歳の息子さんがいる、60歳ちょっとぐらいの男性だったが、奥さんは29歳のべっぴんさん。
息子さんの奥さんは32歳?だったか、、、それより若い。
まるで、奥さんまで、億の付く所持品の一環のような印象を受けた。

もっと違う側面からアプローチも出来ると思うが、番組の意図としては、あういうテイストになるのだろう。
MCの俳優やお笑いタレント(漫才コンビ)は、反応やコメントをしていたが、番組制作上の流れを意識してのものだと思われる。
羨ましいと思う人も中にはいるかも知れないが、おそらく冷ややかな目なのではなかろうか。
ある意味、取材を受けて、かわいそうな気がした。
空洞、中身のない贅沢、、、実質を伴わないものだった。
別の日常があるはずなのに、番組上、ああなってしまったのだろう。
わたしの目には、軽くて薄っぺらで冷たく映った。
どこがいいの?
そう感じるのは、年齢の違いか?
いや、旦那さんはわたしと同世代だ。
価値観の違い、嗜好の違いが、あそこまでハッキリしているのは、むしろ潔いかも知れない。
番組としては、まあ成立。
ただし、深夜枠なのが気になる。
MCの俳優が、最後にちょこっと、こう言った。
「若い時から叩き上げで頑張ってくると、こうなるんだろうね」


最近はTV人気も低下している。
インターネット番組や、YouTubeなど、自分から探して近づいて行くものに吸引力があると感じる。
TV局が視聴者受けを狙って制作しても、スカスカの手ごたえではないだろうか。
そもそもTVを見ている人、層って???

とかなんとか、わたしは毎日、TVを19時から観る。
NHK専科。デイリーニュースがメイン。
番組が新編成され、興味を失ったものもある。
ニュースは、スマホ(インターネット)でも随時、リアルタイムに近い時間に飛び込んで来る。

世の中の提案と、わたしのニーズが一致しないことがある。
ニーズを満たすには、自分仕様でオリジナルに動くしかないが、世に出ている商品や提案をアクセント的に受け入れて楽しむのも良いと思う。

高齢の人々はこれから増える一方。
家の中で、じっとTVを観て日々過ごすのは、個人の性格、体力、環境、嗜好による。
寝たきりゼロを目指すために、政府は色々呼びかけ啓蒙している。
時間はあっても、お金がナイ、、、
健康面が不安、、、そういう人々、、、
時間がない高齢の人はあまりいないと思う。
一般的に、余りある時間をいかにして使うか、、、
色々である。

(あれこれ、書こうとしたが、話が広がりすぎて纏めるのに時間が足りない、気力がもたないので、このまま放置する)

外に出てみるのがオススメ。
いろんな発見、刺激の元がごろごろ。
ただし、あまりにも場違いな場所に身を置くのは居心地が悪い。





人生サイクル繰り返し

2022-06-07 | 人生
思えば、わたしも子供が小さい頃(ちょうど今の孫たちぐらいの時)、毎週末、夫の実家に行っていた。
土曜日お泊まり。日曜日の夜に帰宅した。
旅行にも舅、姑と一緒に行った。
やがて、子供たちは塾が始まり、学年も上がり、小学校高学年にもなると土日帰省はなくなった。
盆、正月、彼岸、法要など、節目節目には帰っていたが。
次に通う時期が来たのは、舅の病気入院の頃。
舅が他界してからは、姑は健康おひとりさま期間(15年)後、4年の不健康年月を経て長寿を全うした。

そう思うと感慨深い。
まさに、同じ流れ。
わあわあ楽しく活動的な子育て交流時期が過ぎると、しばらく安定した後、次は、、、
順番に時は流れる。

活動期に参加し、若いエネルギーの活気をもらい、次の静かな本格的余生に移るまでの前期間が、まさに今。

家族の歴史は繰り返されている。
パラパラと時のページをめくっていく、TV番組のファミリーヒストリーを見ているようだ。

近年は医療も更に進化しているため、おじいさんと、おばあさんの寿命の差は昔ほど大きくない。
とは言え、(姑の場合は平均的だと思われるが)舅を送ってから15年の余生、待ち時間がある。

姑の姑が発病し入院して亡くなったのも、わたしの次女(姑の孫、姑の姑のひ孫)が生まれた次の年。
つまり、、、数人いる、ひ孫誕生の、最後あたり、または、中盤あたりに、この世とお別れ。
ひ孫を抱く腕も(ベビーを落としそうで)弱々しい頃。
わたしの祖母も、ひ孫誕生の頃にサヨナラ。
枯れ木に新芽。
世代が確実に1ページ1ページと進んでいっている。

わたしも、人生ベルトコンベアに乗せられ動いている。
孫誕生から、ひ孫誕生までの、ほぼ林住期。
その期間にも、前半と後半がある。
前半は積極的、能動的に参加、後半は静観。
ベルトコンベアが途中で故障したり止まったりしない限り、順調に次に進んでいく。
最期もベルトコンベアは動き続けてくれないと、ややこしい。
人生100年が、人生120年に突入する時代。
20年も延長されると、老後の資金が足りません。

関係ない人には何の関係もない、全く面白くない話になってしまった。

結局、断捨離か、、、うんざり

2022-06-07 | 日々のこと
イベント続き。
今が花。
1週間、休みなし、ノンストップ状態。
自分が主催しないから、着いていくだけ、脳みそ空っぽ、楽々参加。

その中でも、最近、定着しつつある流れ。
トップの上司(姑)がいなくなり、わたしは中間管理職から1番上にトコロテン方式で上がったのも束の間、すぐ下(長女)が突き上げてきて、すごい勢いで追い越して、真上に来た。
下にはまだ次女が控えているのだが、もはやわたしの下ではなく、長女の下の雰囲気。
長女は部下に自分の夫(娘婿A)や次女やら、従えている。
次女の夫(娘婿B)は、子供世代全員5人中、1番年長ということもあり、従えていない。
次女は夫(娘婿B)に気を使っているようで、実家に来るのも、Bの顔色を伺いながら。

企画、立案は長女、実行補佐は、長女の夫、
わたしは、ただ参加するのみ。
一応、立場上は、皆んなの上に位置するのだが、実質的には下にいる。
夫は別枠に君臨している。
一応、全員で11人、息子を入れると12人。
昔風ではない、今風の大家族を形成している。
それぞれは別に住む核家族なのだが、不思議な求心力があり、わりと仲良く頻繁に集まって交流、行動している。
家父長制ではない、どこかに、その求心力は存在している。
娘たちの子供がまだ小さいこともあり、今はよく集まるが、やがて、子供が大きくなるにつれ、徐々に集まらなくなってくることだろう。
集まるのは仏事の時だけ、なんてことになりそうだ。
圧倒的に長女のほうが、子供の数が多いため、勢力も強い。
長女が進化型・家父長制の(父でも夫でもなく)牽引役になることだろう。
我々は形骸化するのみ。
いずれ消滅するが、しっかりした人材を遺したので、まあなんとかやってくれると思う。
わたしは20年前倒しで早く、身支度、老い支度、終い支度。
ただし、精神的に。
家の中身はそのままに、まだまだ愛着あるガラクタと共に残り時間を享受する。
老人ホームに入る時に、必要なもの(貴重品)だけ伝えて、あとは全部、チェックせずに捨てる。
もし、未練が残り、捨てられなければ、そして更に「捨てておいてね」と頼めなければ、
「モノは家に置いておくから心配しないでね」と娘に言ってもらって安心して、老人ホームに入る。
入るや否や捨てられる可能性はあるが。
知らぬが仏。
家族にお手数をかけるが、まあ許していただきたい。

ちなみに、姑も何度か断捨離をしていた。
モノの量はちょっとは減ってマシになっていたと想像する。
だがしかし、昨年リフォームした時は、うんざりした。
コンパクトな部屋なのに、たくさんのモノが詰まっていた。
全部、運び出す、あのモノとの格闘作業は結構、疲れた。
とは言うものの、2部屋だけだったので、それほど多いとは言えないまでも、やっぱりうんざりした。
(2部屋といっても、4部屋ある1階の半分の面積。台所&食堂、応接室)
頑張ってどうにかモノを移動したおかげで、リフォームすることができ、その効力もあり、皆んなが集まるようになった。

それはそうと、断捨離プロ指南の人がアドバイスするには、洋服は(使用)賞味期限を設けて、それより過ぎたら捨てよ、と。
聞くだけ聞いて、実行しません、わたし。

限りなく眠いので、結論に至らず、ほったらかして寝ます。
おやすみなさい。