わが家には猫が一匹がいます。
一度犬を飼ったこともありますが、死なせたことがショックでしばらく動物を飼うのは止めていたのですが、ある切っ掛けで猫を飼うことになり、以来、一番多い時には三匹いたこともありますが、いずれも亡くなってしまいました。一番長生きしたのは二十一年生きましたが、さんざん医者通いをしましたのに、若くして死なせてしまったのもいます。全部で五匹くらいですが、獣医さんからいただいた者を除き、いずれも迷い込んできた猫たちです。
「猫可愛がり」という言葉がありますが、私自身は、それほど肩入れしていなかったつもりですが、死なれたときの辛さは、小さなものではありませんでした。それで、三匹の猫が若い方から順に死んでいき、最後の一匹を見送ったとき、もう絶対にペットは飼わないと家族で申し合わせました。
当市は、かなり早くから「犬・猫の殺処分ゼロ」を目指し、数年前から実行出来ているようです。ごく近くのお方にも、ボランティアで野良猫のケアをされていて、野良猫を捕獲して手術した後、地域猫として放したり、飼い主を探したりしてくれています。
今わが家にいる猫は、地域猫として餌をもらっていたのですが、どうやら仲間はずれにされているようなので、ボランティアの人に相談されて、飼わせていただいたものです。
三年近くなり、わが家の隅から隅まで、好き放題に動き回り、食べ物も結構口が肥えてきています。家族にも懐いてくれていますが、外に出さないので、ガラス戸越しに庭をじっと見つめている時間も長く、ふと、物思いにふけっているような姿を見せることがあります。
猫特有の表情だとは思うのですが、彼にとって、本当にわが家にいることが幸せなのかと思うことがあります。
わが家には、毎日朝夕、時には昼にも、食事をしに来る猫もいます。いわゆる地域猫です。すでに十歳を大分過ぎているそうで、家で飼うのは難しいようです。
毎朝六時前頃には、朝食を待っています。食事の後しばらくは、畑でトイレを使ったり、季候の良いときはひなたぼっこをしたり、ゴロゴロ転がったりしています。水飲み場を三ヶ所、寝たり休んだり出来る場所も四ヶ所作っていますが、夜はそこで寝ることは全くないようで、たいていは、わが家の庭から塀に登り、隣接しているボランティアの方の一階の屋根に登り、二階とベランダとの隙間辺りにねぐらを作ってもらっているようです。
ただ、真夏もそうですが、これから寒さに向かうと、毛布などでねぐらを作っているのですが、わが家では寝ないようですし、可愛そうな気がします。
厳寒の季節になると、家の中でぬくぬくとしている猫にくらべて、雪はほとんど降らない地域ですが、北風が啼く夜などは、風を避けて丸くなって寒さを凌いでいるのかと思うと哀れに感じてなりません。
しかし、同時に、猫にとっては、少々厳しい環境であっても、食べ物の心配はなく、自由気ままに動き回れる生活と、暑さ寒さの心配も食事の心配もないとはいえ、閉じ込められ、たまには人間に愛想もしなければならない環境と、本当はどちらが幸せなのかと考えたりもするのです。
折から、年末ジャンボ宝くじが売り出されています。
一等と前後賞を合わせれば10億円になるそうです。10億円あれば、老後の心配など吹き飛んでしまいそうな気がしますし、たいていの「欲しい欲しい病」も解決しそうな気がします。
ところが、世界の資産家となりますと、桁が違うどころか「億」が「兆」になっても及ばないような人がゴロゴロいるようですし、わが国に限っても、10億円以上の資産家など珍しくもないはずです。
けれども、その人たちのほとんどが幸せかと言えば、さて、どうなのでしょうか。「お金で幸せが買えるわけではない」などと青臭いことを言うつもりはありませんが、やはり、幸せという曲者は、そうそう簡単に捕まえることは出来ないようです。
どうやら、幸せというものは、頂くとか捕まえると言った存在ではなく、それぞれに育て上げるようなものなのかも知れません。
( 2024.11.23 )
お米の値段が高くなっています。
昨年の不作の関係もあって、新米が出る直前に、お米不足がささやかれるようになったと思っているうちに、かなり広範囲の地域で、スーパーなどの小売店からお米がなくなるという、何とも情けない状況が出現しました。
その時も、一部の首長の方からの「備蓄米を放出して欲しい」という要望に対して、政府は、間もなく新米が出回ること、備蓄米を流通させるには時間がかかる、などと言って実現しませんでした。
案の定、賢い輩はいるもので、お米の値段は高騰しました。なかなか手に入らず、言い値で買うしかなかった一人暮らしの高齢者の方のインタビューに答える姿に、実に腹立たしい気がしました。
お米の高騰の原因には、様々な要因があるようです。これまで安すぎたものが修正されているに過ぎないと宣う人もいます。
しかし、直近のニュースでは、昨年の1.5倍の価格になっていると報じられています。
まさか、まだ新米が出回っていないというのではないのでしょうから、諸物価の高騰が影響しているとは言え、どこかで作為的な力が働いているとしか思えないのです。年々お米の消費量は減少傾向にあったとは言え、私たちの生活にとって、必需品のトップといえる品物です。政府が、現在の価格は妥当なものだと考えているのであれば仕方がありませんが、そうでないのであれば、今すぐに備蓄米を放出すべきです。値崩れが心配だと反論するのでしょうが、値崩れ結構、減税論議より速効性がありますよ。値崩れがひどくなれば、また備蓄米を増やせば良いだけですから。
でも、きっと、「備蓄米は価格操作の為のものではない」などと、素人の意見など聞いてくれないのでしょうね。
「勘定合って銭足らず」という名言があります。
死語になりかかっている言葉のような気もするのですが、昨今、その状況を見せつけられることが多すぎるような気がします。
「2%の物価上昇」を錦の御旗のように掲げ、それによって、私たちの生活が豊かになるようなご高説を聞かされてきましたが、現在、その立派な政策は見事に達成していますが、確実に結果が出ているのは消費税額が増えて税収増に寄与しているくらいです。給与が増えているというご意見もあるかもしれませんが、物価が上がれば、トボトボとでも給料が上がらなければ国民生活は破綻しますので、当然の現象に過ぎません。
目下、「103万円の壁」という言葉が大受けですが、この問題も落とし所を模索中でしょうが、「銭足らず」の部分をどうするのか、お手並みを拝見させていただきましょう。
まあ、ぼやいてばかりいても仕方がないと、少々反省していますと、こんな見事な句が見つかりました。
『 米の高い時 双子を生んで お米・お高と 名を付けた 』
どなたの作か知らないのですが、いつ作られた都々逸なのでしょうか。お米が高い中で双子をお生みになったのですから、現代日本の模範生と言えそうです。
そう言えば、無断使用の連続になりますが、こんな都々逸もあります。
『 あきらめましたよ どうあきらめた あきらめられぬと あきらめた 』
『 隅田川さえ 棹さしゃ届く 何故か届かぬ 我が想い 』
庶民の想いが届く政治を期待しつつ、都々逸でも勉強しますか・・。
( 2024.11.26 )
『 経営の神様 AIでよみがえる 』
という見出しを見つけました。11月28日の毎日新聞朝刊の記事です。
その記事の一部を使わせていただきますと、
「パナソニックホールディングスとPHS研究所は、両社を創業した松下幸之助氏( 1894 - 1989 )を再現したAIを開発したと発表した。質問すると、幸之助氏の著作や発言のデーターを基に本人の思考を反映した回答を生成し、本人の話し方を再現した音声で答える」とあります。
「経営の神様」などと言いますと、少々オーバーな表現のようにも聞こえますが、私などには、まったく抵抗なく受け入れることが出来る表現です。
考えて見ますと、その神様が亡くなられて、はや35年が過ぎていることになります。若い方々にとっては、すでに歴史上の人物になりかけているのかもしれません。
このAIは、なお改良を続けるそうで、「経営理念の研究や社内勉強会の企画などに活用する」とされていて、残念ながら一般公開はされないようです。
ただ、松下幸之助氏に関する書物は今でも簡単に手に入りますし、ご本人の著作もかなりあります。ややもすると、合理化や効率化、あるいは他者排斥こそが経営の真髄のように言われがちな今日だけに、「経営の神様」が残された言葉を味わってみるのも、意味があるかもしれません。
これは、ずいぶん前のことですが、ある電気店の店主からお聞きした話です。
そのお方は、長年、ナショナル(パナソニックの前身の商標)の特約店(正しい呼び名ではないかもしれません。)を経営されている方でした。
ある時、幸之助氏はすでに一線から身を引かれていて、相談役だったのではないかと思うのですが、当時の松下電器産業が販売不振に陥り、業績もかなり悪化したときがありました。そこで、幸之助氏は、販売部門の先頭に立って、全国行脚をなさったことがありました。当時、ナショナル製品の販売の主流を担っていた特約店を、地域ごとに集めて、幸之助氏自身が先頭に立って販売促進の協力を依頼して回ったようです。
その店主の方も、そうした会合に参加され、その時のことを話してくれました。
幸之助氏は、松下本社の商品開発力や特約店への支援不足を、頭を下げて謝って、「何としてもナショナルを蘇らせて下さい」と訴えたそうです。
すると、数十人の店主たちからは拍手が起り、何人かは幸之助氏のもとに駆け寄り、「会長(?)、あなたに、頭を下げさせて申し訳あります。頑張ります、頑張りますとも」などと言葉をかけ、何人もの人が涙を流していたそうです。
「『いい親父たちが泣きやがって』と思いながら、気がついたら、私も涙を流していましたよ」と、その店主の方は私に話してくれながら、涙を浮かべておられたのを覚えています。
当時、私は、このお話を聞いたとき、まるで教祖と信者みたいだと感じました。
松下幸之助氏というお方の経営能力など、私などにはまったく判断出来ません。ただ、このお話を聞いて以来、松下幸之助氏を、とてつもない人間力をお持ちの方だと判断するようになりました。
これは、確か、ドラッカーの書に書かれていた言葉だと思うのですが、「経営者が必ず身につけていなければならない大事な要素が一つだけある。それは品格である」と教えています。
松下幸之助氏が「経営の神様」と称されたのには、確かに一代でわが国有数の企業に育て上げた、いわゆる経営力に優れていたのでしょうが、その基板をなすものは、人間力、あるいは品恪と言われる資質を磨き上げられていたからではないでしょうか。
これは、何も経営者に関わらず、大小に関わらず組織の上に立つ人は心すべきだと思えてなりません。
( 2024.11.29 )
毎年のことながら、十二月の声を聞くと、月日の流れる早さを思い知らされます。
一年は、おまけの年もありますが、ふつうは三百六十五日、一年は十二ヶ月と決まっていますが、『時』の流れる早さは微妙に違っていて、十二月は他の月とは違うスピードで流れるような気がしてなりません。
一年を十二ヶ月に区切った先人の知恵は、月の満ち欠けから生み出されたものでしょうが、一年を生きる上で、実に大きな働きをしているように感じます。もし、一年に「月」という区分けがなくて、三百六十五日を通しで過ごすとなりますと、一年は、何とも変化に乏しいものになったような気がします。
「今日は、令和六年の三百三十六日か・・」などと言い出しますと、少々悪ふざけが過ぎるかもしれませんが。
お陰様で私たちが頂戴している十二ヶ月には、それぞれ顔を持っているように思います。
一月には一月の顔が、二月には二月の顔が、そして、三月以降も同様で、季節を反映したり、行事に彩られたり、時には、それぞれの私的な事情なども影響を与えます。そうした中で、十二月は、一年の終りの月ということもあって、他の月とは少し違う顔を持っているような気もします。
十二月のことを師走と呼ぶことがありますが、こうした異名は各月にあります。十二月の場合も、少し調べるだけでも十個を遙かに超えます。幾つか挙げてみますと、「師走(シワス)」「極月(ゴクツキ)」「暮来月(クレコヅキ)」「春待月(ハルマチヅキ)」「限月(カギリツキ)」「弟月(オトトツキ)」「親子月(オヤコツキ)」など、まだまだあります。読み方も数種類あるようですが、意味の分りにくいものもあります。
例えば「師走」ですが、現在の私たちは、「普段ゆったりとしている師(僧侶または先生)でも、十二月になると忙しく走り回るから」といった意味で理解しているのがほとんどですが、実は、平安時代の頃には、すでにこの言葉の語源は不明だとされていたようなのです。
「弟月」も、いくつかの説明がされているようですが、「一年で一番末の月だから」というのには納得出来ます。
「親子月」も同様ですが、「旧年十二月を親、新年一月を子と見たてて」と言われるとよく分りますが、「十二月は星が多く見える時で、月を親、星たちを子と見たてて」と言うのもあり、私はこの説明が好きです。
少々くどくなりましたが、複数の名前や性格を持っているのは、何も「月」に限ったことでなく、物や人や自然現象などにも多く見られます。ダイナマイトなどもそうですし、私たちの命の古里ともいうべき海もそうでしょう。
中でも人間様は、顔も心も腹も、時と場合によって、二つも三つも持っているようです。名探偵などは変装上手ですし、かの江戸川乱歩氏の名作には怪人二十面相が登場しますし、寄席芸に至っては、百面相さえ演じられます。
政治家などは、幾つの顔を持ち、幾つの腹を持っているのか知りませんが、心根などは厚いベールで包み込んで、幾つもの顔とそれと見せない腹芸を駆使できないことには一丁前の政治家とは言えないのかもしれません。
私たち自身も、時には、顔も心も腹も変化しているようです。
あまり激しく変化する人とは、お近づきになりたくないような気もしますが、まったく変化しない「一本気」というのも、付き合いにくいものです。
観音様は、衆生を救うためには、姿を変えて現れるといわれていますから、顔や姿を変えることは、必ずしも良くないことではないのですが、近しい人との間では、あまり揺れ動くことのない付き合いをしたいものです。
ただ、相手には、顔も心も揺らぎはほどほどで、腹芸といえば見え見えの愛嬌程度というのを望むのですが、さて、自分自身の方はといえば、「こんな仕打ちを受けて、にっこり笑えというのか」という気持ちを抑えるだけの表情も腹芸も、もちろん心根も持ち合わせていないのですよ、ねぇ・・・。
( 2024.02.08 )
「再生エネルギーが電気代高騰の一因」という記事を見ました。
この数年、原油などの価格高騰、円安などにより、電気料金やガス料金が高くなっています。年々厳しさを増す猛暑は、家庭の光熱費負担をさらに厳しくしています。政府は、電気料金などに補助金を実施したり、終了しては復活させたりと、何とも一貫性のない施策を繰り返しています。
私たち下々の苦しい生活を少しでも緩和させようと政府も腐心されているのでしょうが、その電気料金の中に「再生エネルギー賦課金」が、そんな施策をあざ笑うように増加しています。
地球温暖化云々と言った遠大な課題のため、再生エネルギーの比率を高めていかなくてはならないという事のようですが、そのコスト増を使用者に分担させるという手段は、うっかりしていると合理的なように感じてしまうのですが、何だか変なような気もします。
先日、「今年の7~9月のエンゲル係数が29.3%になった」と言った記事が出ていました。
わが国のエンゲル係数は、2001 ~ 2014 の間頃は概ね23%程度、2015 ~ 2019 の間頃は概ね25%程度、2020 ~ 2022 の間は27%前後、そして、直近では、30%に向かって順調に増加中です。
「2%の物価上昇」という立派な目標をかかげて下さったおかげで、エンゲル係数は見事なまでに順調に増加しており、私たち下々の生活を圧迫してくれています。ただ、今から60年ほど前のわが国のエンゲル係数は38%程度だったというデーターがありますから、30%程度は十分堪えられるので、どんどん値上げいたしましょう、という意見をお持ちの人もいるのでしょうねぇ。
エンゲル係数というのは、1857 年に、ドイツの社会統計学者であるエルンスト・エンゲル氏が発表したものです。えんげるの法則とも言われますが、一般に、家庭の総支出のうちの食料費支出の割合が、低いほど生活に余裕があり、高いほど生活が逼迫しているというものです。
国家や民族や生活様式によっても差があるでしょうし、当時に比べて現在は、例えば通信費などの比重が増えるなど消費内容は変化していると思われますが、エンゲル係数の理論は今も健在のようです。
もちろん、食費関係の支出よりも、生活の余裕度を示す指数はあると提唱された方もいるようですが、わが国では、この種の統計では、エンゲル係数より有力な指数はないようです。
そういえば、再生エネルギーのコスト高分を国民に分担させる一つの原因は、エンゲル係数を低く見せるためではないかとも思うのですが、これは「げすのかんぐり」でしょうね。
私たちの日々の生活は、係数を気にして生活しているわけではありませんが、国家のさまざまな施策は、こうしたデーターに基づいて立案・実施されているのだと思うのですが、多くの国民を対象とする制度は、どうしても不具合・不公平な面が発生してしまいます。
「103万円の壁」が話題になり、まるで鬼の首でも取ったようなつもりで検討が行われているようですが、単純に「178万円]に引き上げたりすれば、新たな障害が多出するはずです。
また、生活保護制度は、わが国の国民にとっては最後とも言える「安全ネット」だと思うのですが、実は、それより明らかに厳しい条件下で生活している人が少なくないはずです。そうした人の数を政府は把握しているのでしょうか。社会は適切な手を差し伸べているのでしょうか。
先に述べましたエンゲル係数は、生活が苦しいほど高くなる傾向があるのは確かですが、ある限界を超えますと、その指数は低下を始めます。「飲まず食わず」という生活を強いられますと、エンゲル係数は低下するのです。
この国に生れて、この国で懸命に生きている人の誰もが、「エンゲル係数の理論内に収まる生活」が保てる社会でありたいと願うばかりです。
( 2024.12.05 )
「四字熟語は四字熟語か?」という見出しを何かで見た記憶があります。
四字熟語については、当コラムでも何回も使わせていただかせていますし、ある時期にはかなり熱心に勉強したこともありました。
もちろん、それらの多くを記憶しているわけでもなく、その意味もうろ覚えのものがほとんどですが、何かの折に、ふと思い浮かべ、引用するなどして利用させてもらっています。
四字熟語や名句や語源などを集めた本などを何冊も読んだはずですが、その中に、「四字熟語」について説明されている物はなかったような気がします。
「四字熟語」を辞書で調べてみますと、「漢字四字で構成される成句や熟語」とあります。
それでは、成句や熟語とは何かとなりますと、その意味を調べますと、ますます複雑になり「四字熟語を定義すること」は簡単なことではないようです。つまり、絶対必要な条件は「漢字四つ」ということのみで、それ以外の「成句や熟語」の部分は、狭苦しい条件で縛り付けるべきではないような気がします。
そう考えますと、「四字熟語も四字熟語」ということになりますが、四字で表現される言葉はまだまだ増えていくでしょうから、「まだ完成途上の未熟な四字熟語」ということではないでしょうか。
そう考えますと、「民主主義」という言葉もよく似ているような気がします。
「民主主義」の語源は、ギリシャ語の「人民」と「権力」という語を結合させたものだそうです。
その意味するところは、「権力は人民に由来し、権力を人民が行使する」という考え方であり、そうした政治形態を指します。そして、基本的人権・自由権・平等権、あるいは、多数決原理、法治主義などがその目指すための手段と思われます。
第二次世界大戦において、イギリスを勝利に導いたウィンストン・チャーチル元首相は、「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」と述べたと伝えられています。この言葉は、「民主主義こそが最良の政治体制だ」と述べていると説明されることが多いですが、少し違うような気もします。
確かに、チャーチルというお方は皮肉な物言いが多かったそうですが、この言葉の場合、「民主主義が最良」と言っているのではなく、「民主主義は最悪だが、これまでの政治体制よりましだ」と言っているのであって、いつの日にか、民主主義を上回る優れた政治体制が登場することを否定しているわけでは無いと思うのです。
欧米を中心に、多くの国々が民主主義政治を目指して来ました。民主主義先進国と言われるような国から見れば、明らかに違う政治体制を取っている国の多くも、自らは、民主主義国家だと主張している所が少なくありません。
それはともかく、この数年、民主主義国家と言われる国々で、その政治体制に綻びのようなものが見えてきているように思えてなりません。例えば、その根幹をなす「多数決の原理」も、多数の支持さえ受ければ品格も何も関係ない、といった風潮が見られることが多く、時には、諸悪を包含した多数勢力も力を持ち始めてます。
チャーチルが亡くなって60年ほどが立ちますが、未だに民主主義を遙かに勝る政治体制は登場してきていません。とすれば、「最悪の中でもまだましな政治体制」である民主主義を育てていくしかないのかもしれません。
つまり、「民主主義」も四字熟語の仲間かもしれませんが、「まだ完成途上の、未熟な未熟な四字熟語」なのでしょうねぇ。
( 2024.12.08 )
内戦が続き、多くの難民を輩出し続け、体制内でも残虐な弾圧政治が行われていたと伝えられてきたシリアのアサド政権が崩壊しました。
内戦は十数年に及んでいると思うのですが、ここしばらくは、ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルとハマスやラヒズボラとの紛争に世界の関心が集まっている感がありましたが、その間隙を突くように反政府勢力が攻勢をかけましたが、わすが12日ほどでアサド政権は崩壊、アサド大統領は家族とともにロシアに亡命しました。
反政府軍によるダマスカス侵攻に当たっては、政府軍の抵抗はほとんどなかったと伝えられています。おそらく、中東問題や軍事の専門家といわれる人たちの中で、このあっけないほどのアサド独裁政権の崩壊を予測した人はいらっしゃったのでしょうか。
新聞などの解説によりますと、これまでアサド政権を支えていた、ロシア・イラン・ヒズボラの三者が、いずれも自分たちの紛争への対処で精一杯で、アサド政権への十分な軍事支援は行えない状態になっていたようです。また、もともとアサド政権を支えている勢力は、人口の1割程度だそうですから、一端崩れ始めると、民衆による支える勢力は極めて脆弱だということになるようです。
現在のところ、反政府軍への政権委譲は武力を伴わない形で進められるように伝えられていますが、アサド政権を担ってきた勢力の一部や、反政府軍といっても、一枚岩ではないようですし、どの程度組織だった統制が確立しているのかも不明ですから、シリアという国家がどのような変貌を遂げるのか、現時点で見通すことは難しそうです。
国家が成立に至るには、さまざまな行程を経ているようです。
わが国などは、地理的な条件もあって、比較的早い段階で国家が形成されたと言えます。神武以来というのは言いすぎでしょうが、飛鳥時代、もう少し下るとしても、平安時代の頃からは、一応「日本国」は出来上がっていたと考えてよいような気がします。
しかし、当時の為政者たちにある「日本国」というのがどういう形体、あるいは範囲と考えていたのか、正しくはよく分りませんが、当時の為政者と、現代のわが国とには相当の差異があるでしょうし、今日の姿に至るには、それなりの歴史があり、言い尽くせないような悲劇が数多く繰り返されています。
その原因は、自然災害もあれば人為的な行動もあり、また、わが国自身による事もあれば、他国からの圧力もあります。それは、逆にわが国が善悪両面で他国に影響している事もあるはずです。
今、シリアが新しい局面に立っていることは確かでしょう。
しかし、新しいスタート地点に立ったと考えるには、あまりにも課題が多すぎるような気がします。政権の崩壊と言っても、今回の場合は国家の崩壊と言っても過言ではないような変化が必要とされているように思われるからです。
例えば、アサド政権下で権力側にあった人々の影響をどう考えるのか。新しい政権作りを進めるとみられる反政府勢力が、幾つかあるとされる集団が協力関係を築くことが出来るのか。さらには、国土の広い範囲が戦乱に荒廃してしまっている状態をどのように復興させるのか。人々が生活出来るだけの衣・食・住をどのように確保するのか。これまで、さまざまに影響を与え、あるいは美味い汁を吸っていた勢力や国々とどう調性を図るのか・・、等々、解放を喜んでいる人々の映像を見ると、心が痛みます。
今、私たちの国では、国会が開かれ、さまざまな討議が行われています。いずれも、私たちの生活を良くするために腐心してくれているのでしょうが、シリアの人々から見た場合、どのように見えるのでしょうか。
恐怖政治と呼ばれるような強権をほしいままにし、他国からの軍事支援を受けていても、国家の崩壊は、私たちが考えているより遙かに簡単に怒ると言うことを、私たちは今少し真剣に考える必要があるように思えてならないのです。
( 2024.12.11 )
つい最近、万葉集の勉強を始めました。
と言っても、図書館にある万葉集に関係しているような本を、片っ端から読みあさっている程度ですが、これが、なかなか面白いのです。
万葉集は、そのほとんどが万葉仮名を用いて記されていますが、当然ながら私には手も足も出ませんので、ごくたまに私たちがよく目にする読み下しされた物と比べる程度です。
万葉集には4,500首以上もの歌が載せられていますが、そのうちの2,100首ほどは作者不明になっています。
まだ全部に目を通すことは出来ていませんが、パラパラと見ていくだけでも、よく知っている歌や、どこかで見た覚えのある歌が意外に多いような気がしました。実は、万葉集は私たちと案外近い所に存在しているのかもしれません。
それにしても、万葉仮名というのは、実にすばらしい知恵だと思いました。
正確な発生経緯などは勉強していないのですが、要は、古代の日本で使われていた言葉を表記するために、漢字の意味はまったく無視して、音だけを借用して当てはめて表記しているのです。
古事記や日本書紀は漢文が主体として用いられていますが、歌謡の部分などには万葉仮名が用いられています。その事から、当時は、上流階層に限られたのでしょうが、かなり広く用いられていたのかもしれません。しかし、現在の私たちが見ることが出来る文献としては、万葉集が突出している事から「万葉仮名」と名付けられたようです。
万葉集には、現在に伝えられている著名な歌人やドラマの一場面を彷彿とさせるような相聞歌などが数多く登場します。
その中に、柿本人麻呂と山部赤人という歌聖がおります。
この歌聖と称せられるようになったのは、古今和歌集の紀貫之による仮名序の中で、
『 かの御時、正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける。
( 中略 )
また、山の辺赤人といふ人ありけり。歌にあやしく妙なりけり.
人麿は赤人が上に立たむことかたく
赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける。 』
と記しており、これを以て後世の人は二人を歌聖と呼ぶようになったのです。
もっとも、貫之は、人麿は「歌の聖」と述べていますが、赤人は「人」と述べていて、歌の技量は同等としているだけで、歌聖は柿本人麿一人だという人もいるようです。
いずれにしても、二人は宮廷歌人として名高い存在であったことは確かのようです。また、貫之は人麿を正三位と述べていますが、実際は、人麿も赤人もその動静は万葉集にのみ残されていて、正史には見当たらないようなので、二人とも貴族ではなく六位以下の官人だったと考えられます。
しかし、二人とも教科書の定番といいたいような歌を詠んでいます。
人麿 『東(ヒムガシ)の野にかぎろひの立つ見えて かえり見すれば月傾きぬ』
赤人 『田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける』
(この歌は、新古今和歌集では「田子の浦にうち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ」となっていて、これが小倉百人一首に選ばれています。)
万葉集には、紀貫之が勝手に述べただけとはいえ、歌聖と称される歌人が二人もおり、天皇や皇族や貴族をはじめ、あらゆる階層の人々の歌が載せられています。特に、2,100首にも及ぶ作者不明の作品は、詠み手の俗姓は想像し放題なのです。
それぞれの作者がどのような思いで詠んだのか、その心境や目にした風景を想像することはとても楽しいものです。
『万葉集の風景』というカテゴリーで、出来るだけ多くの歌をご紹介していきたいと思っておりますので、ぜひ覗いてみて下さい。
( 2024.12.14 )
シリアのこれからが注目されています。
恐怖政治で長らく政権を保っていたアサド政権は、あっけなく崩壊し、ダマスカスでの市街戦は避けられたことは何よりです。ただ、政権が委譲されることになる反政府勢力と言われる人々が、どのような政権を、そしてどのような国家を築いていくのかが注目されます。
現在伝えられている情報では、「シリア解放機構」のジャウラニ指導者が暫定政権を主導するようで、国民に対して「この国の建設に取りかかろう」と呼びかけているようですが、この勢力は、国連などからテロ組織に指定されていますので、このあたりがどうなるのか注目されます。
ただ、打倒アサドに動いた反政府勢力には、主な勢力でもあと二つあって、米国の支援を受けているクルド人を主体とする「シリア民主軍」、トルコの支援を受ける「シリア国民軍」とがあります。トルコはクルド人勢力と敵対関係にありますが、この二つの勢力は、米国の仲介で停戦に合意したとも伝えられています。
これらの三つの勢力がどのように協力し合えるのか、今後のシリアにとって重要な鍵を握っていることになるでしょう。
わが国には、「三人寄れば文殊の知恵」という教えがあります。「凡人でも三人集まって知恵を絞れば、知恵を司る文殊菩薩に匹敵する力を発揮することが出来る」といった意味ですが、教えはすばらしいのでしょうが、三人が本気で知恵を寄せ合うことは簡単なことではなく、「三人寄ってもゲスはゲス」という憎らしい言葉もあります。
シリアには、そのようなゲスはいないと思うのですが、アサド政権崩壊後の新しい国家建設にあたっては、先の三勢力に加えて、残っている旧アサド支持勢力、三勢力以外の小さな勢力群、まだ基地が残っているロシアの影響、さまざまな理由はあるとしても空爆や進軍を行っているイスラエル、クルド人がらみのトルコ等々、とても『三人寄れば・・」ではなく、「船頭多くして船山に登る」現象にならないのか、さらには、蜂の巣を突いたかのような状態を招かないのか、期待と同様に懸念材料も山ほどあります。
シリア情勢に限らず、ウクライナ問題も、ややもすると私たちとは離れた存在と感じがちです。しかし、ロシアと北朝鮮の連携は、そうそう遠い問題ではなく、最も近い国である韓国の政治の混乱も気になります。
わが国の首脳は、何もかも承知で万全の備えを行ってくれているのでしょうが、103万円がどうの、裏金がどうのと大騒ぎですが、何だか世界の揺れ動く情勢とピントが外れているような気がしてなりません。
そう言えば、自・公に国民が加わった103万円の壁、文殊の知恵など望んでいませんが、大騒ぎしたからには、ネズミ一匹程度の成果はあったのでしょうねぇ。
( 2024.12.17 )
先日、ソフトバンクグループの会長兼社長である孫正義氏が、今後4年間で1000億ドル(約15兆円)を米国で投資し、少なくとも10万人の雇用を創出する計画を発表しました。
トランプ次期大統領と共同記者会見を行った様子がテレビでも伝えられていましたが、両者の喜色満面の様子は、何だか誇らしいようなものを感じてしまいました。
かつて、バブルの頃だったと思うのですが、何かの対談かインタビューで、当時の投資規模の凄まじさを、「最近は、豆腐屋でもあるまいし、『一丁(1兆円)、二丁(2兆円)ですよ」と語っていたことが思い出されました。
わが国に、こうしたスケールの人物がいらっしゃることに誇りを感じますが、その一欠片(カケラ)でも二欠片でもいいですから、わが国に落してくれないかと、うらめしさも感じてしまいました。
前回トランプ氏が大統領に就任したときにも、500億ドルの投資を行ったようですので、孫氏はトランプ氏の経済政策に相当の期待を寄せている結果なのでしょう。
トランプ氏については、さまざまなスキャンダルも伝えられていますし、現実にいくつかの裁判を抱えての選挙戦でしたが、それに勝ち抜いたのには、熱烈なファンばかりでなく、「何かやってくれるのではないか」という魅力を感じる人も少なくないという結果の勝利だったような気もします。
実際に、勝利が決まるや否や、戸惑いを見せる人たちを尻目に、強烈な存在感を示しています。その存在感の多くが、一般常識を遙かに超える関税であったり、強硬な制限であったり、恫喝に近い要求であったりしますが、トランプ氏が発言すると、「冗談でしょう」と聞き流すことが出来ない迫力を感じます。
きっと、何もかも計算ずくなのでしょうが、熱烈なファン層にとっては、そのあたりがたまらないのでしょうね。
また、トランプ大統領夫妻は、安倍元首相夫人の昭恵さんをフロリダの自邸に招待され、その様子についてメラニア夫人は、三人での写真と共に、「私たちは、亡き安倍元総理大臣を懐かしく思い起こし、彼のすばらしい功績をたたえた」と投稿しています。
石破首相はじめ、多くの国の首脳たちが面談を望んでいると伝えられている中で、おそらく分刻みの多忙な時間を割いて昭恵夫人を迎えられたと思うのですが、単純すぎるかもしれませんが、トランプ氏といえども血の通ったあたたかな人間なのだ、と強く感じました。同時に、各地で混乱を極めている悲惨な戦いを、少しは沈静化へと導いてくれるのではないかと、希望のようなものを感じました。
「過ぎたことは夢、来るものは希望」という言葉を見たことがあります。アラブの諺だそうですから、私などが感じるのとは少し違う意味合いを持っているのかもしれません。
過ぎたこととはいえ、罪人は罰を受けるべきですし、悪さをしたと自覚する部分は修正すべきですが、過去は過去、拘りすぎることは考え物です。やってくるものがすべて希望に満ちたものだという純粋な心根は、すでにどこかに置いてきてしまっていますが、明日という日に願いを懸ける気持ちは大切にしたいと思います。
今年も、あと十日あまり、年賀状はまだ手付かずですし、年の瀬という実感もまったく感じておりません。しかし、月日は確実に流れています。
何が出来るわけでもなく、どうしても為さなければというほどの事も持っていませんが、やはり、この十日ほどは重みがあるような気もします。
「来るものは希望」と感じられるように、今年の澱(オリ)は少しでも洗い流しておくことにしますか・・。
( 2024.12.20 )