雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

トランプ政権がスタート ・ 小さな小さな物語 ( 1846 )

2025-03-11 09:45:41 | 小さな小さな物語 第三十一部

トランプ氏が第47代大統領に就任し、4年の期間をおいて第二次トランプ政権がスタートしました。
アメリカの首都ワシントンは、極寒に襲われていて、異例の屋内での就任式になりましたが、映像を見る限り、熱気に満ちあふれたものであったようです。
トランプ氏の様子や、演説する姿も、1回目の時よりも落ち着いているように見えました。
就任式には、さまざまな人が招待されているようですが、IT業界の重鎮方がそろい踏みしているような映像には、アメリカという国の底力のようなものを感じました。

演説は、「アメリカの黄金時代が今から始まる」という言葉から始まりました。
その後には、「アメリカが享受すべき物を他国に奪われてきた」といった内容の演説が続き、相当強引な政策が予測されるような部分が少なくないような気がしました。
まず、前政権下の政策をことごとく変えていくと発言し、それは、国際的な取り組みにも及ぶようです。
また、事前に表明していたように、100件を超える大統領令に即座に署名するとして、会場で書類に署名していくパフォーマンス見せていました。

演説の内容の意味するところや、署名された大統領令の内容については、順次明らかになっていくでしょうが、現在判明している幾つかを記してみます。(本稿は、21日のお昼に書いています。)
* アメリカファースト(米国第一主義)が最優先。
* 不法移民対策にただちに取り組み、南部国境に軍隊を派遣する。
* 出生地に基づき市民権を付与する「出生地主義」の見直しに着手する。
* 各国から大きな関心が持たれている「関税」については具体的に触れることはありませんでしたが、米国の利益優先を貫き、「外国歳入庁」を設置する。
* 電気自動車の義務化を撤回する。
* エネルギー価格を押えるため、化石燃料を「掘って掘って掘りまくる」。
* WHO(世界保健機関)、パリ協定(地球温暖化対策の国際的な枠組み)からの脱退。
* パナマなどには触れていましたが、ロシア・ウクライナ問題には直接触れませんでした。その真意は分りませんが、おそらく間接的に意識してでしょうが、「私たちの成功は、勝利する戦いだけでなく、終結させる戦争、そして何よりも参加しない戦争によって測られる」と述べています。さらには、「かつてない世界最強の軍隊を作り上げる」とも述べています。

以上の他にも、次々と施策が進められるのでしょうが、おそらく、わが国にも直接影響を与える物も出てくることでしょう。
大統領令が出されたからといって、即座に実現するものではなく、それなりの手続きも必要でしょうし、予算を伴う物など議会の承認が必要な物もあります。また、それぞれの施策なり、脱退や廃棄が、どれだけの国民や世界の人々に幸をもたらすのか、犠牲を強いるのかは分りませんが、言葉は分らなくても、少なくとも演説の迫力は十分に感じられました。
そして、私が最も強く印象づけられたことは、『常識の革命』という言葉でした。
「常識が通じない」と感じることがあるだけに、この大統領の発言に、米国社会を、さらには国際社会を大きく変えようという意識を感じました。
トランプ大統領は、選挙中の銃撃事件にも触れて、「米国を再び偉大な国にするために、私は神に救われたのだ」と述べています。この言葉が本心からのもであり、偉大な米国がその他の国々にも恩恵をもたらす国であり続けてくれることを祈り、トランプ時代の4年間に、わが国も逞しくなっていく必要があると痛感しました。

( 2025.01.22 )

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情操が蝕まれていないか ・ 小さな小さな物語 ( 1847 )

2025-03-11 09:41:28 | 小さな小さな物語 第三十一部

私たちは、どのようにして情報を入手し、その情報をどの程度理解し消化していけるのかということは、日常生活を維持していく上で、大きな意味を持っています。
現在、世界の注目はトランプ米大統領に集中している感がありますが、その周辺から発信される情報に限定しても、正しく消化することは簡単なことではないようです。
テレビや新聞から得られる情報に限りますが、トランプ大統領が再任に至る選挙戦においても、真偽様々な情報が行き交っていたようです。
情報にも、誤った物が混在していることは、当然のことながら注意すべきなのは言うまでもありませんが、最近は、故意の偽情報、いわゆる「フェイクニュース」と呼ばれるような物が多出しているのは困ったものです。

今、テレビの最大の話題は、フジテレビに関するニュースです。
もちろん、私はその真相を知っているはずはなく、テレビと新聞のニュースをもとに勝手に推定しているだけなので、その点ご了解願いたいのですが、最初、このニュースを聞いたとき、「行儀の悪いタレントの事件だ」と思っただけでした。その後、高額の示談金が払われた(金額など正確ではないようですが)ということを聞いたときには、よほど悪質な事件で、示談で済ませて良いのかと感じました。さらに、フジテレビの社員も関わっている(会社は否定しているようですが)という段階になると、私などでも、「これは会社全体を揺るがす事件かもしれない」と思いました。
ところが、当事者と思われるフジテレビは、自らは当事者としての認識はなかったようで、「よくもあれほど」と思われるほどの記者会見を行ってしまい、遂に、水を掛ける程度では消えない状態になってしまったようです。

古来、諸葛孔明の時代から、「敵を欺き、自軍の弱点は隠しきる」ことが有効な戦略とされてきました。 
しかし、現代の大方の国では、治世者は選挙人の目があり、企業には株主や顧客があり、経営陣には内外に対して然るべきモラルが課せられているはずです。
また、一人前の社会人であれば、社会のルールを守ることや、自らが自らに課している誇りというものもあるはずです。
書き並べることが恥ずかしいようなことを書き並べてしまいましたが、全容がある程度明らかにされるのもこれからですが、伝えられている状況を見る限り、いざ当事者になってしまうと、書き並べるのが恥ずかしいようなことさえ、行うことが難しいらしいことが見えてきます。

オーバーな表現ですが、この一年、こうした問題を隠している会社のニュースやドラマなどを、まんまと見せられ続けていたわけです。ましてや、この事件を全く知らない社員など殆どいないはずですから、そういう条件下で笑顔を見せながら仕事に取り組んでいた社員の心痛を思うと、胸が痛みます。
また、この事件で隠れがちになっているように思われますが、兵庫県政に関わるひどい状況も、何とか対策を考えていく必要があるように思われます。詳細は述べられませんが、明らかな偽情報が、堂々とまかり通っているのです。
情報伝達の手段の多様化が、私たちの生活に恩恵を与えてくれると同様に、いつの間にか私たちの情操が蝕まれているのではないかと、気になって仕方がありません。

( 2025.01.25 )

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悲喜こもごも ・ 小さな小さな物語 ( 1848 )

2025-03-11 09:40:05 | 小さな小さな物語 第三十一部

今年の一月は、とても長いような気がしています。
毎年この季節には、「一月行って、二月は逃げて、三月去って・・・」とよく言っていた母のことを思い出します。
お正月に始まる一月は、何歳になってもそれなりの気持ちの高ぶりがあり、テレビ大好き人間には楽しみも多く、慌ただしさを感じながらも中身の濃い一か月になる事が多いように思っています。ただ、その母の命日に当たる月であることもあって、やはり「悲喜こもごも」といった方が正しいのかも知れません。

今年が、何とはなく長く感じている一つは、きっと「トランプ政権」が誕生したことにあるような気がしています。
遠い国の大統領がどなたになろうと、どのような政策をなさろうと、私などには何の関係もないはずですが、現代の世界はそれほど単純ではなく、「103万円の壁」が少々動くことよりも、トランプ大統領の雄叫びの方が影響を受けそうな気がしてしまうのは、どういう事でしょうか。
もっと卑近な例をみても、フジテレビに関わる事件にしても、真相は分らないまでも、伝えられる情報に真偽が混在しているとしても、当会社の拙劣な会見に憤りを感じたり、「ああ、やっぱりナァ」と勝手な想像をめぐらしてみたり、人の心の中が複雑怪奇なのは私に限ったことではないはずです。

一月の私の心情を「悲喜こもごも」と表現しましたが、どうもこれは、「悲喜」に限ったことではないようです。
因みに、この「悲喜こもごも」という言葉は、辞書によりますと「悲しみと喜びが代わる代わるに起ること」となっています。この説明によれば、かなり広い場面で使えそうな気がしますが、本来この言葉は、「一人の心の中で、悲しみと喜びが代わる代わる起る、あるいは混在している状態を表す」もののようです。つまり、「悲しいAさんと、嬉しいBさんが一緒にいる」ような状態を指しているわけではないのです。
したがって、一人の心の中は、「悲喜」がこもごも(交々)しているだけではなく、時によっては、「慈しみと憎しみ」が同居していたり、「希望と落胆がこもごも」といった現実を経験することも珍しい事ではありません。

今世紀が、国家を統治する手法が揺らいでいる時代と、後世になって言われるのではないかという懸念がしています。
西欧を中心に、先進国の必須条件の一つに「民主主義に基づく政治」があったと思われます。そして、民主主義政治の根幹をなすのは「幅広い国民による選挙制度」だと思うのですが、その選挙制度そのもの、あるいは選挙による国民の分断などが強まっていることは否定できず、そうした手間暇をかけるよりも、優秀な独裁者により統治する方が合理的、と考える国家が増える傾向が散見されているような気がしてならないのです。
一人一人の心の中には、様々な感情が「こもごも」混在し、折々に現れ、私たちは時には喜び、時には涙しながらも、人の世の情けを噛みしめることができるような気がするのです。強い意志は必要ですが、他の何物も受け入れない一徹さは、決して豊かな社会を築くのに適していないはずです。
国家も同様で、いくら面倒でも、様々な価値観の人々が生きていける社会を構築すべきだと思うのですが、さて、その手法が揺らいでいることに恐さを感じるのです。

( 2025.01.28 )

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ままならないことが多いが ・ 小さな小さな物語 ( 1849 )

2025-03-11 09:31:11 | 小さな小さな物語 第三十一部

一月も今日で終ります。
元旦をはじめ、何もしないとはいえお正月はそれなりの行事があるなど、今年の一月は長いなあ、と思っていましたが、終るとなると、やはりあっという間だったような気もします。人の気持ちというものは、その折々に揺れ動き、時間に対する感覚も同様のようです。
昨年は、正月早々に能登で大地震が発生しましたが、今年の一月は、地域によっては大雪に見舞われるなどしていますが、昨年よりは平穏な一月であったように思われます。

ただ、世相としては決して穏やかだとは言えないかもしれません。
一番の理由は、やはり、トランプ米大統領の登場ではないでしょうか。就任前から様々な発言が話題になっていましたが、就任と共に、発言していたように、大変なスピードで大統領令にサインしており、すでに幾つかの国は対応に大わらわのようです。
今のところ、わが国には直接的な要求は示されていませんが、何分、我らが首相は会談さえも実現していませんから、トランプ大統領にすれば、重要度が低いのか、信頼性が高く急ぐ必要のない国と見ているのか、微妙なところです。ただ、首相にすれば、トランプ大統領の動向が気にならないはずはなく、ままならない国会運営と合せ、その心境は如何に、などと考えてしまいます。

異常気象などという言葉は、最近では「枕詞」程度の説得力しかありませんが、今年になってからも、「大寒」当日はポカポカ天気で、数日後の「立春」の頃からは厳しい寒波の到来が予想されています。着る物をとっかえひっかえ忙しく、旅先などでは、ままならない思いをされた人もいるのでしょう。
目下、さらし者状態になっているフジテレビの経営陣ですが、拙劣と言えばそれまでですが、良かれと思って開いた記者会見が、むしろ傷を深くしてしまったようで、心外なことこの上ないことでしょう。実質的な支配者と噂されている人物こそが、矢面に立つ経営陣にとって、まさに「ままならない」存在なのでしょう。

かつて、かの白河法皇は、ままならぬものとして「賀茂川の水、双六の賽の目、山法師」と述べています。
白河法皇の時代から千年近くの時間が過ぎていますが、その状況に変化が無いようです。
賀茂川の治水は格段に向上しているでしょうが、わが国全体を見渡せば毎年のように深刻な水の被害が発生しています。サイコロの目を自由に出せる人もいるようですが、我が身を見れば、宝くじは愚か年賀状の当選番号さえままなりません。山法師となれば、あちらの国にもこちらの国にもいるようですし、話題の会社にも存在しているようです。
しかし、私たちの日常となれば「好事魔多し」という言葉があるように、小市民としては、「ままならない」程度が張りのある日々を送れるのかもしれません。有頂天になっている人よりも、些細なことに心を痛めている人の方が親しみを感じますし、寒い寒い立春を迎えた場合には、大好きな「暦の上では春ですが・・」という名文句を思う存分使うことが出来ますしねぇ。

( 2025.01.31 )






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今年の立春は2月3日 ・ 小さな小さな物語 ( 1850 )

2025-03-11 09:29:38 | 小さな小さな物語 第三十一部

厳しい寒波と共に『立春』がやって来ました。
個人的に大好きなフレーズである「暦の上では春ですが・・・」を使い放題ですが、あと数日、地域によっては雪による被害が心配されていますので、くれぐれもご注意下さい。
『立春』は、二十四節気の最初であり、自然の移り変わりということから見れば、一年の始まりとも言えます。八十八夜や二百十日は、立春を基準にして数えられます。
「一年の計は元旦にあり」という言葉があるように、私たちの生活パターンは1月1日を起点にしていますが、熟慮したはずの「一年の計」は、早くも揺らぎ始めています。『立春』は、一回目の微調整を図るチャンスかもしれません。

今年の立春は、本日2月3日ですが、違和感を感じた人もいらっしゃるかもしれません。
と言っても、立春の日がいつかという関心よりも、私たちには「節分」が何日だということの方が関心が強いようで、4年前( 2021 年)に、節分の日が2月2日になった時には、百何年ぶりの珍事だと報じられていました。
立春は節分の翌日ですから、その年の春分が2月3日であったことも珍事のはずですが、あまり報じられませんでした。
参考書によりますと、立春とは、「太陽黄経が315度になった瞬間が属する日」となっています。残念ながら私にはこの意味を解説することが出来ませんが、立春の日が年によって変ることがあるのは、一年がきっちり365日ではなく、閏年だけでも完全に調整出来ないことから不規則な形で変化するようです。
これまでの数十年でいえば、立春の日は2月4日がふつうのように思っていましたが、これからの35年間ばかりは4年に1度程度が2月3日になり、その先はさらにその比率が高まり、今世紀末の頃には3/4程度が2月3日立春になるようです。

私たちは、地球という星に生を受け生かされています。
日の出に感激し、日没に涙し、月の満ち欠けに心情を移入してしまいます。四季に恵まれている私たちは、桜の便りを待ちかね、秋には紅葉を楽しみ、夏や冬の厳しさや、台風や地震など自然災害の恐ろしさに身を震わせます。
私たちを取り巻いている自然の規則正しく、時には荒々しく変化する状況を受け入れながら懸命の日々を過ごしていますが、その一方で、立春の日や節分の日を調整しているような微妙な変化や、この宇宙の遙か彼方で起っている変化や、この地球の変化にさえも感じ取っていないものはたくさんあるような気がします。

電車に乗っていて、駅に少し長い時間止まっている時などに、横の線に止まっていた電車が動き出した時、一瞬、自分の乗っている電車が動き出したのかどうか分らなくなることがあります。自分の乗っている電車が動き出した時でも同様です。
錯覚といえばそうなのでしょうが、さらに言えば、太陽の進行も月の動きも、何も彼らだけが動いているわけではなく、この地球自身も動き続けているのですが、コペルニクスやガリレオに指摘されてもなかなか認めることが出来ず、現在に至っても私たちは実感することが出来ません。
日常生活においても、激しく動き回ったり、主張の激しい人が目立ちがちですが、多くの場合、それらが正しいとは言えない場合が多く、殆ど動くことなく、静観を決めたり堪え忍んでいる姿の奥にこそ真実や正義が秘められていることが多いことを私たちは学ぶ必要があります。
我が県政はズタズタになっていますが、それにつけても、真実とはいわないまでも、事の正否を今少し真剣に見定めようとする努力が必要だと痛感しています。

( 2025.02.03 )

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情報発信の責任 ・ 小さな小さな物語 ( 1851 )

2025-03-11 08:22:51 | 小さな小さな物語 第三十一部

フジテレビに関する事件は、今なお収束の方向が見えていないようです。
外野席の私などは、最初は極めて行儀の悪い一タレントの問題だと思っていたのですが、どうやら、その背景にフジテレビの社員が不愉快な形で関わっていると伝えられ、とんでもないことだと思っていると、この問題を提起した週刊文春の記事に一部誤認があり訂正記事が出されるなど、真相はなかなか複雑そうです。
そして、事件の重点は、完全にフジテレビの経営体制の問題に移った感があります。

やり直し会見とかでは、何と10時間を越えて、延々と質疑応答が続きました。最初の少しばかりは生放送を見ましたが、よくも飽きもせずに続けられたものと、感心と言うより気の毒になってしまいました。
果して、10時間もの質疑応答で、会社側か記者側のどちらかに具体的な成果が合ったのでしょうか。
会見の冒頭で、会社側は社長などの辞任を表明しましたが、おそらく、質疑の論点の一つを前もって消しておこうとの配慮だったのでしょうが、どうやら、会社経営の実権者は社長などではないらしいことがあからさまに発言されることで、効果はなくなってしまった感じでした。

結果としてですが、馬鹿らしいと思うほどの時間を要した原因には、進行の拙さがあり、質問者の節操の無さもあると思うのですが、「問題の当日のことに関して、フジテレビ社員が直接関与していたかどうか」で相当の時間を食っていたようですが、この件に関しては週間文春が誤認があったと訂正していますので、全く無駄な時間を消費したようです。訂正は会見の直前だったようですが、双方がそれを確認しておらず、それ以前の記事をベースで論じ合っていたようなので、ぜひビデオで見直して、質問の拙さ、答弁の拙さを確認して欲しいものです。
せっかくの記録的な時間を掛けた記者会見ですが、回答側に実質的な最高権力者がおらず、質問側の多くが自らが調査した知識がなかったのだとすれば、実りある成果が生れるはずがありません。

知識などと言うものは、所詮、誰かから学んだか、勝手に頂戴したかのどちらかでしょうが、いつの間にか自分自身独自の物のように誤解してしまう部分があります。
また、私などはその典型かもしれませんが、誰かの意見をほんの少しいじっただけで我が物にするなどはよく目にしますが、よほど注意を払わないと下品な意見になってしまいます。
もっと困るのは、悪意で発進された意見を、全く無知なために、あるいは承知の上で拡大させてしまうことで、多くの不幸を生み出しています。
現代は、さしたる知識がなくても、それほどの費用を掛けることもなく、多くの情報を発信することが出来る時代です。しかも、わが国は、無防備と言えるほど法や秩序による規制が希薄です。
その善悪についても様々語られていますが、少なくとも、いくら小さな意見であっても、拡散する可能性のある発信を行う場合には、最低限、自身に恥じないだけの自己規制は必要な気がします。
そうしたことを考えるにつけ、メディアの王様とも言えるテレビ界において、不愉快な事件が発生していることが残念でなりません。

( 2025.02.06 )

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日米首脳会談 ・ 小さな小さな物語 ( 1852 )

2025-03-11 08:21:11 | 小さな小さな物語 第三十一部

石破首相とトランプ大統領による第一回目の日米首脳会談が、無事終りました。
おそらく、石破首相にとっては、大成功の首脳会談だったのではないでしょうか。
トランプ大統領側から見ても、そう悪いものではなかったように思われます。トランプ大統領の胸の内や、数日後の発言や行動など、とても予測することなど出来ないのでしょうが、トランプ大統領にすれば、今は、日本に対して強引な要求を突きつけるより、日本側の努力を待つ時だと考えているような気がするのです。
と言うのも、大統領に正式就任する前からの様々な発言や、就任後の次々にサインしている大統領令などは、名指しされた国家などはもちろん、それ以外の国々から批判の声があり、国内においても相当の軋轢が伝えられています。
トランプ大統領の真意がどの程度のものなのか、多くの人が戸惑いながらも対応策を練っており、「話半分」だとしても、実現させていくのは簡単なことではないはずです。

その点わが国は、国家間の関係としはとても安定していると考えられます。もちろん、貿易の不均衡は米国にとって気に入らないでしょうし、防衛力の増強や、米軍基地の問題など課題は少なくないとしても、トランプ大統領としては、喫緊の課題が山積している中、日本との課題は一息ついた後でも良いと考えているのかもしれません。
今回の首脳会談は、顔見せというわけではないでしょうが、石破首相に対するリップサービスが過ぎたのではないかと感じるほどでした。まさか、褒め殺しというわけではないでしょうが、石破首相がトランプ大統領が望んでいるであろう方向に向けて努力しようとしていると感じたのではないでしょうか。

第二次世界大戦で惨敗してから八十年。
敗戦直後、わが国は、米国の占領政策のもとで苦しい時を過ごしました。戦争を生き延びながら、飢餓に倒れ、疾病に倒れた人も多く、屈辱的な経験を強いられた人も少なくないはずです。そうした実体験を見聞きした人も少なくなってきました。
日米関係については、様々な考え方や評価があるのは当然です。特に、東西冷戦が厳しかった頃などは、国会においても、市民社会においても、政治的な対立が目立ち、その背景に日米関係の在り方に対する意見の対立があったように思います。
しかし、結果として、現在のわが国にとって、二国間の関係としては、日米関係が最も重要なことは多くが認めるところではないでしょうか。
経済や技術交流など重要な分野は多方面に及びますが、やはり、防衛面においては、昨今の国際状況を勘案すれば、極めて重要です。しかも、この面では一方的と言うほどわが国が頼るというのが実体でしょう。

地球儀を見ますと、わが国は、特異な位置に存在しているものだと思ってしまいます。
どの辺りを世界の中心として考えるかによって変ってきますが、ユーラシア大陸の東端の、しかも海を隔てた島国として存在しています。そのため、古来より大陸や南方の諸国の影響を受けながらも、独特の文化を育ててきているように思われます。
さらに、現時点で言えば、そのわが国が、太平洋を隔てた米国と、防衛面で強いつながりを持っているという事実は、実に不思議な気がします。
国家の品格を何をもって評価するかとなりますと、なかなか難しいことになりますが、国家の存亡ということになりますと、防衛面を無視することは出来ません。その事が軍事力強化と直結させることは危険ですし、経済力強化、外交力、文化交流など多面的にレベルを向上させることが必要なのでしょうが、すべての国が同じように考えるかどうか・・・、考えは、堂々巡りをしてしまいます。
ただ確かなことは、現在のわが国にとっては、日米関係はとても重要だということだと思います。石破首相、ご苦労様でございました。

( 2025.02.09 )

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ペニシリン記念日 ・ 小さな小さな物語 ( 1853 )

2025-03-11 08:18:51 | 小さな小さな物語 第三十一部

朝、歯を磨きながら暦を見るのが習慣のようになっています。
一日当りの記事はごく少ないカレンダーですが、たいていの日は見てしまいます。それによりますと、今日は旧暦の1月15日で、旧暦では小正月にあたります。
現代の私たちの生活では、旧暦を用いることはほとんどありません。旧暦のお正月も、特別な行事などをなさるご家庭は少ないのでしょうが、昨今は、春節とやらで中国などから大勢の観光客が訪れることから、注目されるようになりました。しかし、旧暦では小正月もそれなりの行事があったようですが、今日では、ほとんど意識することもありません。
そこで、今日を記念日としているものにはどのようなものがあるのか調べてみました。
「ボンカレーの日」「ブラジャーの日」「ダーウィンの日」「ペニシリン記念日」など、様々な記念日が設けられています。

その中で、「ペニシリン記念日」というのに強く惹かれました。最近ではあまり耳にしませんが、かつては、特効薬の代表のように私などは思っていました。
この記念日は、「1941年(昭和16年)2月12日、イギリスのオックスフォード大学付属病院で、世界で初めてペニシリンの臨床実験に成功した」のを記念したものだそうです。
ペニシリンは、1928年、イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミング( 1881 - 1955 )によって、アオカビなどから発見された世界で初の抗生物質だそうです。医薬品として実用化されるのには十数年を要しましたが、これにより、第二次世界大戦では多くの負傷兵などを感染症から救ったとされ、20世紀における偉大な発見の一つと言われているそうです。フレミングは、この功績でノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

ペニシリンが抗生物質の最初とされていますが、カビなどによって感染症などを防ぐ治療法などは、古代エジプトやギリシャなどでも行われていたという記録があるそうです。
その近代的な研究は19世紀末頃からのようですが、ドイツの医師・細菌学者であり、炭疽菌ゃ結核菌やコレラ菌などを発見し、近代細菌学の父といわれるロベルト・コッホ( 1843 - 1910 )は、私たちも馴染み深く、多くの学者が彼の教えを受けています。
その一人であるパウル・エールリヒ( 1854 - 1915 )は、ドイツの細菌学者・生化学者ですが、化学療法の創始者とされ、「化学療法」「特効薬」という概念を初めて用いた人物です。彼も、ノーベル賞を受賞しています。
そして、わが国の北里柴三郎( 1853 - 1931 )もその一人です。「血清療法」を発見し、破傷風菌の培養や、ペスト菌を発見するなど、「近代日本医学の父」と称されていますが、残念ながら、ノーベル賞は、第一回の生理学・医学賞の候補となりながら受賞を逃しています。受賞したのは、血清療法をジフテリアに応用した人物だっただけに、とかくの噂もあったようです。まさか、人種差別のようなものはなかったのでしょうが、わが国の国際的地位ということは関係していたような気もしてしまうのです。
幸い、新紙幣の千円札には、北里柴三郎さんの肖像画が使われていますので、お目に掛る機会も多いでしょうから、その偉業を偲びたいものです。

ここ数年、人類はコロナウィルスによる感染症に苦しめられました。
先に述べた学者方は、細菌学者として著名ですが、多くの研究や発見が積み重ねられても、なお私たちは、感染症の恐怖から逃れることは出来ていません。結核は、今も感染症として世界で最も多くの死者を出していて、その数は160万人( 1921 年)に及びます。何せ、地球上に存在している細菌の数は、「5×10の30乗」だそうですから、どの程度多いのか計算が出来ません。
ウイルスが生物なのかどうかは意見が分かれるところですが、その数は細菌をさらに上回るそうです。
さらに、私たちの体内や表面には380兆個のウイルスが存在しており、細菌は一桁二桁少ないとしても、天文学的な数がまつわりついているようです。
どうやら、彼らと真っ正面からぶつかり合う作戦は、賢明ではないようですよ。と言って、仲良しになるのも難しそうですしねぇ・・・。

( 2025.02.12 )

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見切り千両 ・ 小さな小さな物語 ( 1854 )

2025-03-11 08:17:26 | 小さな小さな物語 第三十一部

「負けるが勝ち」という言葉があります。
江戸いろはかるたの「ま」で使われていますので、よく知られている言葉です。言葉の意味も、別に難しいというほどのこともないのですが、いざ実践するとなりますと、それほど易しいことではなさそうです。
ドラマなどで、商人が顧客に向かって、「持っていけ、泥棒!」などと言って商品を大安売りする場面がありますが、これなどは、商人は「この場は負けて、後で勝ちを頂こう」という作戦と思われます。もっとも、多くの商人はそれほど甘くありませんから、「負けた振りして、がっぽり頂いた」と舌を出しているかもしれません。
私たちが経験する例としては、「家族やごく親しい仲間との間で意見が激しく対立することがあった時」などに、強引に相手を言い負かした時は、必ずと言っていいほど後で苦い思いをします。こうした時などは、「負けるが勝ち」を思い出すべきなのでしょうね。

場面によっては一歩引き下がる、つまりその場面では負けると言うことも大切なことは良く分るのですが、いつもいつも「負けるが勝ち」を続けるわけには行きません。
しかし、この言葉に類した言葉は少なくありません。「損して得取れ」「急がば回れ」「叩かれた夜は寝やすい」なども同じ考えから生れたのでしょうし、かの有名な「三十六計逃げるに如かず」は、戦場においても、時には負けを認めるのが良策だと教えています。
また、この言葉は「江戸いろはかるたの『ま』」だと紹介しましたが、「いろはかるた」は地域によって少しずつ違う言葉(ことわざ)が使われています。
『ま』を見てみますと、江戸は「負けるが勝ち」ですが、京都は「まかぬ種は生えぬ」であり、大坂や尾張は「待てば甘露の日和あり」となっています。全く違う言葉ですが、この三つの言葉、似た精神を持っているように思うのです。
(「待てば海路の日和あり」という言葉もよく見ますが、「甘露」の方が本家のようです。)

「見切り千両」という言葉ももあります。
株式市場など、相場の世界で用いられる格言の一つですが、短い言葉でズバリと言い切っているすばらしい言葉だと思います。
この言葉の意味は、「狙いと違って損を抱えてしまった場合、いつまでもぐずぐずしていないで、ある時点でスパッと損切りしなさい」と言う教えです。「いくら含み損を抱えても、清算しない限りは損では無い」と言って、何年でも抱え込んでおく投資法もあるようで、多くの場合は、十年ほど覚悟すれば利食いするチャンスは訪れるとも言います。しかし、運用効率としては優れているとは思えず、思惑が外れた場合、自分自身に正直に負けを認めさせて、スパッと「見切り千両」を実行出来るようにならなくては、相場で生き抜くことは難しいとも教えているようです。
また、古来、負け戦になって退却する場合、退却軍の最後を守る「殿軍(シンガリグン)」は、一番難しく、犠牲者も多く出しますが、その頑張りが捲土重来を果たせるか否かの鍵を握っているとも言われています。

「負けるが勝ち」そして「見切り千両」。
実践される場面は様々だとしても、私たちは、逆境に立った時にこそ真価が問われるような気がします。
折から、はや三年に及ぼうとしているロシアによるウクライナ侵攻は、大変な犠牲を積み上げて、今、微かながら停戦の息吹が芽生えています。
ウクライナはもちろん、ロシアの蒙っている損失も小さなものではありません。現時点では、この戦いに勝者など存在していません。今こそ、「負けるが勝ち」が意味するところを噛みしめて、「見切り千両」を断行すべき時を迎えているのではないでしょうか。
「その後の絵図面なしの『見切り千両』など話にならない」といった声が、おそらく両陣営から出てくるのでしょうが、日々失われ続けている命の重さを、指導者たちは受け止めて欲しいものです。

( 2025.02.15 )

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とんでもハップン ・ 小さな小さな物語 ( 1855 )

2025-03-11 08:15:58 | 小さな小さな物語 第三十一部

たまたま手にした本で、「とんでもハップン」という言葉を目にしました。
この言葉、昭和の30年代頃までは、かなり耳にする機会があったようですが、現代では、「使われなくなった言葉、いわゆる『死語』の代表格」の一つだそうです。
そもそも流行語などというものは、その時代時代の矛盾や憤りのようなものを背景にして生れてくるものが多いのでしょうが、そうした物は、ある時代が終れば、当然消え去っていくのが自然の流れと言えるかもしれません。
流行歌と呼ばれる物なども同様ですが、ある時代を色濃く反映する作品ほど、ある時期が過ぎれば忘れ去られる運命にあるとも言えます。しかし、そうだとしても、いくら時が流れても、一つの時代という物は、それがどのような時代であっても消え去ることなどなく、世代を超えて蘇る機会が存在しているような気もします。

「とんでもハップン」という言葉は、戦後間もない頃に姿を見せた言葉のようですが、「とんでもない」という気持ちをさらに強調するための言葉のようです。
巷から湧き出たような言葉は、ある文豪の作品の中で用いられ、さらに著名なコメディアンに使われるなどして、広く世間に知られていくようになりました。
さらに、この言葉は、「とんでもハップン 歩いて十分」と言った具合に使われることで存在感を増しました。この場合は、「飛んでも八分 歩いて十分」と言った語呂合わせなのでしょうが、この「十分」は、三分、五分、八分、十五分など色々あるようで、私などは、「とんでもハップン 駅まで十分」と覚えていました。
語呂合わせ的な意味合いを持っているとすれば、「恐れ入谷の鬼子母神」や「会いに北野の天満宮」や「敵もさるもの引っ掻くもの」などの仲間とも言えそうな気がします。

この言葉が使われ出したのは、第二次世界大戦で大敗を喫した直後の頃である事は確かなようです。誕生したのは、「学生たちの間から」「進駐軍兵士のカタコトの言葉から」などとされているようです。おそらく、「とんでもない」と「never  happen 」との合成語というのが、ほぼ定説(?)になっているようです。
まさに、時代背景を色濃く反映した言葉だと言えます。敗戦直後の混乱を安易に取り上げるのは避けたいと思いますが、多くの人が、それまでの価値観や道徳観などが根底から覆されたような時代でした。理不尽とも言える変化に、「とんでもない」という言葉だけでは表現しきれないと思った人もいたことでしょう。「とんでもハップン」という言葉は、「とんでもない」の数倍の力があり、さらには、それでも足りなくて、笑い飛ばすしかないという気持ちが共感を生んだのかもしれません。

私たちの日常においても、「とんでもない」ことは、次から次へとやって来ます。そのほとんどは、これまでの経験をもとに、少々不愉快な気持ちを辛抱しさえすれば乗り越えられるものです。しかし、時には、これまでの生き様を根本的に否定されるような、あるいは、描いていた明日を全面否定されるような「とんでもない」が襲ってくるかもしれません。
「とんでもない」の数倍の神通力があるとしても、「とんでもハップン」と叫んでみても、解決の役には立たないでしょう。それでも、先人たちは、絶望のどん底の中で「とんでもハップン」と、手も付けられないような環境を笑い飛ばしたのかもしれない、と思うのです。
「とんでもハップン」に魔法のような力はありませんが、いかなる理不尽にも簡単には屈しないという根性のようなものは秘められているかもしれない、などと思うのです。

( 2025.02.18 )

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