たまたま手にした本で、「とんでもハップン」という言葉を目にしました。
この言葉、昭和の30年代頃までは、かなり耳にする機会があったようですが、現代では、「使われなくなった言葉、いわゆる『死語』の代表格」の一つだそうです。
そもそも流行語などというものは、その時代時代の矛盾や憤りのようなものを背景にして生れてくるものが多いのでしょうが、そうした物は、ある時代が終れば、当然消え去っていくのが自然の流れと言えるかもしれません。
流行歌と呼ばれる物なども同様ですが、ある時代を色濃く反映する作品ほど、ある時期が過ぎれば忘れ去られる運命にあるとも言えます。しかし、そうだとしても、いくら時が流れても、一つの時代という物は、それがどのような時代であっても消え去ることなどなく、世代を超えて蘇る機会が存在しているような気もします。
「とんでもハップン」という言葉は、戦後間もない頃に姿を見せた言葉のようですが、「とんでもない」という気持ちをさらに強調するための言葉のようです。
巷から湧き出たような言葉は、ある文豪の作品の中で用いられ、さらに著名なコメディアンに使われるなどして、広く世間に知られていくようになりました。
さらに、この言葉は、「とんでもハップン 歩いて十分」と言った具合に使われることで存在感を増しました。この場合は、「飛んでも八分 歩いて十分」と言った語呂合わせなのでしょうが、この「十分」は、三分、五分、八分、十五分など色々あるようで、私などは、「とんでもハップン 駅まで十分」と覚えていました。
語呂合わせ的な意味合いを持っているとすれば、「恐れ入谷の鬼子母神」や「会いに北野の天満宮」や「敵もさるもの引っ掻くもの」などの仲間とも言えそうな気がします。
この言葉が使われ出したのは、第二次世界大戦で大敗を喫した直後の頃である事は確かなようです。誕生したのは、「学生たちの間から」「進駐軍兵士のカタコトの言葉から」などとされているようです。おそらく、「とんでもない」と「never happen 」との合成語というのが、ほぼ定説(?)になっているようです。
まさに、時代背景を色濃く反映した言葉だと言えます。敗戦直後の混乱を安易に取り上げるのは避けたいと思いますが、多くの人が、それまでの価値観や道徳観などが根底から覆されたような時代でした。理不尽とも言える変化に、「とんでもない」という言葉だけでは表現しきれないと思った人もいたことでしょう。「とんでもハップン」という言葉は、「とんでもない」の数倍の力があり、さらには、それでも足りなくて、笑い飛ばすしかないという気持ちが共感を生んだのかもしれません。
私たちの日常においても、「とんでもない」ことは、次から次へとやって来ます。そのほとんどは、これまでの経験をもとに、少々不愉快な気持ちを辛抱しさえすれば乗り越えられるものです。しかし、時には、これまでの生き様を根本的に否定されるような、あるいは、描いていた明日を全面否定されるような「とんでもない」が襲ってくるかもしれません。
「とんでもない」の数倍の神通力があるとしても、「とんでもハップン」と叫んでみても、解決の役には立たないでしょう。それでも、先人たちは、絶望のどん底の中で「とんでもハップン」と、手も付けられないような環境を笑い飛ばしたのかもしれない、と思うのです。
「とんでもハップン」に魔法のような力はありませんが、いかなる理不尽にも簡単には屈しないという根性のようなものは秘められているかもしれない、などと思うのです。
( 2025.02.18 )
「 古池や 蛙飛こむ 水の音 」
これは、ご承知のように松尾芭蕉の代表作とも言える作品です。
たまたま、図書館で松尾芭蕉に関する研究書のような書物を手にする機会がありました。その署には、「古池や・・」の句について、熱く熱く語っていました。そこで、芭蕉に関する本を数冊集めて、ざっと読み比べてみました。
芭蕉の句としては、私などは「 閑さや 岩にしみ入 蝉の声 」が一番好きなのですが、多くの書物は、「古池や・・」の凄さについて述べられているような気がしました。その理由としては、この句によって芭蕉は開眼したかのように、それまでとは次元が違うほどの句を生み出しており、それは、単に芭蕉というより、俳句の芸術としての地位を一段高めたと言わんばかりの評価をなさっている研究者も少なくないようです。
芭蕉は、1644 年に伊賀国上野で誕生しました。徳川家康が江戸に幕府を開いて40年ばかり後のことです。生家は、いわゆる土豪であったようですが、この頃は武士ではなく農民の身分でした。
1662 年、十九歳の頃に武家の家に仕えていますが、雑用などを担当する仕事だったようです。ただ、この出仕が俳諧への道に進むのに役立ったようですが、むしろ、俳諧に熱心な人物に仕えたのかもしれません。
「古池や・・」の句が詠まれたのは、1688 年、芭蕉四十三歳の時です。
「 旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる 」の句を残して亡くなったのは、1694 年、五十一歳の時でした。
「古池や・・」を詠んでから亡くなるまでの8年間は、芭蕉がそれまでとは異次元の飛翔を遂げた期間だったのかもしれません。
残念ながら、私には、芭蕉の俳句が、一茶や蕪村と比べて、どれほど凄いのかが分りません。また、同じ芭蕉でも、「芭蕉に『古池や・・』以後の作品がなければ、ごく普通の作者に過ぎない」と断じている人もいますが、その差もよく分っていません。
先日、テレビで「茹で卵が最も美味しい作り方」といった情報を伝えていました。某国のさる大学教授が、長年研究を重ねて、最も美味しくなる茹で方を見つけ出したそうです。実に、ご苦労なことですが、試食した結果は、普通に茹でた物と微妙な差のようでした。しかし、その微妙な差にこそ研究の意味があるのかも知れません。
そう言えば、いつも思うことですが、甲子園球場の近くのちょっとした飲屋を五軒も回れば、阪神タイガースを10連覇に導けるような秘策を語ることが出来る御仁が、三人や四人はすぐに見つかります。「藤川監督も真っ青」と言ったところですが、野球が少し分っている人にとっては、与太話は笑い飛ばすことが出来ますが、野球というものが全く知らない人がいるとすれば、その人にとっては、与太話とプロの監督の作戦とは、微妙な差にしか感じないかもしれません。
「プロとアマの差は何か」という話をを聞くことがあります。
ある人は、「お金をもらえるのがプロで、支払うのがアマだ」と一刀両断の如く答えてくれました。
しかし、この答えもある一面を捕らえているに過ぎないような気がします。技術的なレベルから論じることが出来そうな気もしますし、精神的な面からも判別する仕方がありそうな気もします。
また、単なるプロと言うことではなく、本当のプロに値する人物を見つける場合も、ちょっとした経験や知識があれば判別出来る場合もあれば、その道の達人とされる人でさえ判別出来ない微妙な差の場合も少なくありません。
そのように考えてみますと、自分がプロと呼ばれるだけの仕事をしてきたのかと考えると、忸怩たるものがあります。長年、給料という報酬を得ていながらです。
ただ、考えようによっては、自分の人生は、まさに命を懸けて歩いているのですから、プロと表現出来そうな気もします。ひとつ、我が人生に、プロとしての微妙な味付けを目指しますか・・。
( 2025.02.21 )
「一日が終る。何ということもなかったが、まあ、無事な一日であったことで良しとするか・・」などと、一日を振り返ることが少なくなっているように思います。
それでも、寝床に着いた時には、一日の終りを漠然と認識してはいるのですが、私は、寝床で本を読むのが長年の習慣で、なかなか止めることができません。ほとんどの場合、小説の類いですが、それも、興味のある物と今一つ取っ組みにくい物の最低二冊は用意しています。体調の良い時は楽しい物を、早く眠りたい時は少々難解な物を読むことにしています。どちらの場合も、あっという間に眠気に誘われてしまうことが多く、一日を振り返ることなく、ほとんどありません。
ロシアによるウクライナ侵攻が始まって三年になります。
侵攻が始まった時には、一週間か十日で終るとご高説を述べていた方もいらっしゃいましたが、すでに三年になりますが、終結の道筋さえ見えていません。
おそらく、侵攻が始まった時点では、ウクライナ国民がこれほどの団結力と抵抗を示すとは思わなかったことと、米欧諸国がこれほどの軍事支援を実施するとは予想しなかったのではないでしょうか。同時に、ロシア側には、自国の軍事力の読み間違いと、早い段階での落とし所を見誤ったような気がします。
戦乱に至った原因には、少なくとも開戦に至ったのはロシア側に責任があるように思うのですが、そこに至るには、私などではとうてい理解出来ない柵(シガラミ)が数多く存在しているのでしょう。
そして、ウクライナはもちろんロシアにも、主張すべき正義が存在しているのでしょうが、正義らしい物と正義らしい物がぶつかり合っているうちに、多くの人が命を落しています。
ここに来て、トランプ米大統領の登場により、微かに、停戦への灯りがともったかに見えました。私などもそう思った一人です。
ただ、このところの情報は、やや悲観的に受取っています。おそらく、彼一流の手法なのでしょうが、同盟国への配慮がなさ過ぎるように思われます。もしかすると、同盟国などという意識は持ち合わせていないのかと思ってしまいます。
米国のウクライナに対する莫大な支援は、苦しい生活環境にある米国民の一部は大反対かもしれません。開戦に至る前、あるいはその直後に、ウクライナが大幅な譲歩を受け入れておれば、今日ほどの被害は防げたかもしれません。しかし、その場合、そう遠くない日に、第二、第三のウクライナが誕生してしまう可能性が高いでしょう。
そして、わが国がその候補でないなどと断言出来る人などいるのでしょうか。
「一日の終りが、何はともあれ無事であった」というだけのことが、ただそれだけのことが望めない人々が、大勢います・・・。
もしかすると私たちは、極めて偶然に、あるいは類い希な幸運のもとに、平穏な一日の終りを迎えているのかもしれません。
大袈裟すぎるかもしれませんが、私たちの国も、つい八十年前の頃には、多くの人が辛い日々を送っていたのです。そうした日々を避けるためには、私たちの国は、簡単には他国の侵略を許さない国力が必要なように思えてなりません。
そして、その手段は、軍事力なのか、経済力なのか、外交力なのか、文化や教育の向上なのか、その他多くの条件が考えられ、おそらく、それらのどれもが必要なのでしょうが、さて、そのバランスの取り方となれば、難しい限りです。
( 2025.02.24 )
「遠交近攻(エンコウキンコウ)」という言葉があります。
広辞苑によりますと、「中国、戦国時代に魏の范雎(ハンショ)の唱えた外交政策。遠い国と親しく交際を結んでおいて、近い国々を攻め取る策。秦はこれを採用して他の6国を滅ぼした。」と説明されています。
日常生活で、この言葉を使う機会はあまりないと思うのですが、比較的よく知られている言葉です。しかし、この言葉を現代人が広く知るようになったのは、それほど古いことではありません。
この言葉は、1941 年に発見された「兵法三十六計」にある言葉だそうで、かの有名な孫子の兵法とは別です。兵法書としては、古くから伝えられている「孫子」や「呉氏」などの方が評価が高いようです。
「敵の敵は味方」というのも、発想としては似ているような気がします。それに、現在の国際関係などには、これに該当しそうな状況が幾つが実在しているように思われます。
「敵の敵は味方」という言葉は時々耳にしますので、実際にそういう状況が見られるからなのでしょう。
それでは、この関係を裏返した、「味方の味方は敵」という言葉はどうなのでしょうか。このような言い方はあまり聞きませんから、通常は、「味方の味方は味方」というのがごく常識的な関係だと思いたいのですが、現実的にはそうそう甘くはない、という状況も少なくありません。むしろ、「味方の味方は味方」という関係が崩れた場合のダメージは大きくなります。さらに言えば、「味方と思っているが本当に味方?」という関係もたくさん存在しているようです。
東西冷戦時代と呼ばれた時代が終ったことで、世界の秩序は大きく変化し、多くは、比較的平穏な時代を迎えたと考えられていたように思われます。しかし、局地的な紛争は常に発生しており、砲火を交えない争いは絶えることがありません。
そして、もしかすると、ロシアによるウクライナ侵攻は、そうした微妙なバランスを打ち砕く切っ掛けだった可能性を感じます。そしてさらに、米露による停戦交渉が実現し、終結までに至った場合の条件によっては、世界の秩序が大国同士によって決められていく危険な道筋の入り口になる可能性さえ感じてしまいます。
世界の歴史は戦争の歴史だと言われることがよくあります。まさにその通りだとしても、この80年、軍事的侵略を経験していない私たちは、戦争の歴史を過去のものと錯覚している面があるように思えてなりません。
大国による侵略を、その国より遙かに弱小な国が、一国で防ぎきることは不可能です。
それどころか、国内の騒乱さえ和解できない国が数多くありません。
第二次世界大戦後、軍事大国同士が本格的に戦う場面は避けられてきましたが、その裏では、「遠交近攻」や「敵の敵は味方」といった戦略が繰り広げられ、最近では、「味方の味方は味方?」とか、「誰が味方?」といった複雑な国際情勢が表面化してきています。
幸い、わが国は、いくつかの島嶼が占領をされ、あるいは占領される危機にありますが、まずまず平和を保ってきました。
それは、世界全体の秩序が、大きく崩れなかったからこそです。しかし、よく見てみれば、その安定は、巨大な国や勢力の微妙なバランスが辛くも保たれていたからかもしれません。その微妙なバランスとは、「三すくみもどき」とでも表現したいような、互いに相手の隙を狙っているようなバランスだとすれば、やがては大崩れする可能性を否定することは出来ません。
さて、こうした前提が正しいとすれば、私たちはどのような国を目指すべきなのでしょうか。軍事大国は無理であっても、ハリネズミのような鋭い針を備えるのか、話せば分かると無手勝流の平和外交を進めるのか、おそらく、中途半端にその中間を進むのでしょうが、これも又々、そのバランスが難しいのですよねぇ。
( 2025.02.27 )
かつて、あるお方からこんな話を聞いた記憶があります。
「交渉事は、五分五分で解決ということはまずない。ほとんどの場合、一見、五分五分のように見える場合が多いが、厳密に言えば、どちらかが優位になっているはずだ」
実は、その当時、複数のお方から似た話を聞いた記憶がありますので、何かの講演か、ネタ本のような物があったのかもしれません。
そのお方は、経営に携わっていて、若造の私にご自分の経験もまじえて話してくれました。
「商売上の交渉においては、『4.5対5.5』くらいになるのが理想で、その『5.5』をどうして勝ち取るかが成功への極意だと思う。これが、『4対6』や『3対7』では商談は決裂する可能性が高いし、もし、同じ相手から二度三度と『3対7』程の有利な取引が出来た場合には、かなりの危険を察知すべきだ。たとえば、商品に何らかの欠陥があるか、相手企業に問題が発生しているかなどだ」と。
交渉事といっても、千差万別、様々な場面が存在しています。
商談といっても、その場限りの小さな売買もあれば、企業その物の身売り話もあります。
隣近所や地域の自治会においても、ちょっとした交渉事は数多く発生しますし、国家間の交渉事の場合でも、互いの善意をベースにした物もあれば、一国の運命をかけた物もあるでしょう。
それらのいずれの交渉事においても、互いに自分側が有利になるように努力し合います。誠意を表面に置き、詭弁や暴力をちらつかせることもあるかも知れません。そうして、何とか妥協点を見つけるのでしょうが、おそらく、五分五分などということはめったにないと思われます。
昨日早朝、「アメリカとウクライナとの鉱物資源の共同開発に関する交渉が決裂した」と報じられていました。それも、大勢の記者や報道カメラの前で、トランプ大統領とゼレンスキー大統領が激しく罵り合う状況になり、用意されていたであろう合意文書の調印どころか、これからの両国間に深い溝を作ってしまったのではないかと懸念されます。
テレビ報道されている部分だけを見る限り、個人的には、ゼレンスキー大統領には、かなり読み違えがあったのではないかと感じました。
交渉事が五分五分でまとまることなどは希有の事と言えますが、そもそも、交渉に入る当事者間の力関係も、五分五分であることなどまずない事を忘れてはならないのです。
まあ、両大統領のことですから、何らかの妥協点を導き出すものと期待していますが。
外交の場において、「ウイン-ウインの関係」とか「ウイン-ウインの提案」といった言葉を耳にすることがあります。これが、交渉事の理想型だと考えられているからでしょう。
しかし、交渉事ですから、本当は五分五分の結果は極めて難しいのですが、例えば論点が二つの場合、それぞれが望む方を一つずつ有利に導くことによって「ウイン-ウイン」は成立するのだと思います。たとえそれが、客観的の見て不公平に見えても、国家や企業が存続していくために有効な契約ということはあるはずです。
残念ながら、ウクライナがアメリカと五分五分の立場で交渉することは、立前はともかく実質的には無理な話で、どうもその辺りを読み違えたように感じました。もちろん、現在のアメリカが弱者に対する配慮が欠けているように思うのは今回に限りませんが。
( 2025.03.02 )
『 裏を見せ 表を見せて 散るもみじ 』
この句を私はとても好きで、当ブログでは何度も使わせていただいています。
この句に初めて出会ったのは、ずいぶん昔のことですが、その頃は、「潔い言葉」といった感覚で受取っていたのですが、年を経るに従って、つまり、自らの年を重ねることによって、その色合いのような物が少しずつ変化してきたように感じています。
「表裏一体」という言葉があります。
辞書によりますと、「二つのものの関係が、密接で切り離せないこと」とあります。実はこの言葉を、私は「全員が力を合わせて」といったような意味で使ったことがあります。その時、漠然としてですが、「一枚のものの表と裏が力を合せて」といったイメージで使ってきていました。ところが、辞書の説明によりますと、この表と裏は別物のようです。
一枚の物には、表と裏があり、その二つが接することはありません。その物を曲げるとか破るかすれば表と裏は接することが出来ますが、それは、ルールや原理を逸脱すれば、ということになります。
しかし、物体の場合はその通りですが、物体以外の物となりますと、かなり様子が違ってきます。
「彼は裏表のない人間だ」「彼には裏があるからなぁ」などと言った表現をすることがあります。大体において、前者は良い評価を表し、後者は悪い評価を表しています。
ただ、前者は、「彼は正直者だ」と同じように、軽く見られる場合に使われることもありそうです。
その点、後者の場合は褒め言葉で使われることは、まずありません。「裏家業」などもあまり良い意味では使われないようですが、「裏には裏がある」「裏を返す」「裏をかく」などは、「表」では表現できない味があるような気もします。また、表を表面的と捉えれば、その裏に当たる所には、その人物の本当の姿や価値が秘められているのかもしれません。
最初に挙げました『裏を見せ 表を見せて 散るもみじ』は、良寛さんの辞世の句として紹介されることがあります。
ただ、良寛さんの最期を看取ったとされる貞心尼の著書「蓮の露(ハチスノツユ)」によりますと、「本人の言葉ではないが、息を引き取る寸前に貞心尼に告げられた言葉」らしいのです。
良寛さんについては、少々勉強したことがあるのですが、相当凄まじい生涯を送った人物のようです。故郷を棄て、仏門の道も厳しい修行の結果その道も棄てて、故郷に戻ります。私などは、子供たちと遊ぶ好々爺のような姿を描いていましたので、苦難の末に悟りのような物をつかんだ人物なのだと勝手に思っていました。しかし、そうした人物であっても、死に臨んで、信頼し慈しんでいた人にこの句を告げたのには、まだ最後に見せるべき『裏』があったからなのでしょうか。
そこそこ生きてくると、あまり表と裏が違う生き方は負担が大きいのではないかと、思うようになります。かと言って、最期に見せるべき『裏』が何もないのも寂しいような気もするのですが・・・。
( 2025.03.05 )
『 羽生善治九段は凄い 』
藤井聡太七冠が 王将戦に勝利しタイトルを守った
これで タイトル獲得数は28期となり
歴代5位となった
その圧倒的な強さは ますます鋭さが増している感じだが
タイトル獲得数の 歴代1位は 羽生善治九段で
何と99期 今さらながら その凄さが分る
☆☆☆
『 枝を踏み外して落ちそうになるのやら、枝伝いに動きながら寝ぼけたような声で鳴くのやら、昼間に見るのとはまるで違って、間抜けで愛敬たっぷりなんですよ。』
カラスって、とても賢い鳥だってご存じですか。
でもね、面白いところもあるのですよ。
夜になると、それぞれ、塒(ネグラ)に帰るのですが、夜中になっても寝場所が定まらないのがいるらしく、互いに場所を取り合って騒ぎだすの。
そのうちに、枝を踏み外して落ちそうになるのやら、枝伝いに動きながら寝ぼけたような声で鳴くのやら、昼間に見るのとはまるで違って、間抜けで愛敬たっぷりなんですよ。
ところがね、夏の夜は短くて、それでなくとも忍ぶ逢瀬の時間はあまりにも短いものでしょう?
それなのに、空がほんの少しでも白みかけてくると、まだ後朝(キヌギヌ)の別れには切ないと思っていますのに、部屋の真上のあたりから、明けガラスが声高く鳴いて飛び立っていくのですよ。
何だか、昨夜からの逢瀬を見透かされているような気がして、可笑しくなってしまいますわ。ほんとに、いやですよねぇ・・・。
( 「麗しの枕草子物語 カラスって面白い」 より )
『 大船渡市の山林火災鎮圧 』
大船渡市の山林火災 発生から12日にして
本日の午後5時に 市が鎮圧を宣言した
関係者のご苦労に 敬意を表し
被災された方々に 御見舞い申し上げます
わが国の 山林火災の中で
自然発生するのは ごく僅かだそうで
今回のものも 人が何らかの形で関わっている可能性が高い
原因追及や 今後の消火・防火体制の検討がなされるだろうが
大規模火災に対して 人力の限界を 見せつけられたような気がする
初期段階での 強力な消火体制が 必要なのだろう
☆☆☆
『 朝な朝な ・ 万葉集の風景 』
朝な朝な わが見る柳 鶯の
来居て鳴くべき 森に早なれ
作者不明
( 巻10-1850 )
あさなあさな わがみるやなぎ うぐいすの
きゐてなくべき もりにはやなれ
意訳 「 朝な朝なに 私が見ている小さな柳たちよ 鶯が やって来て住みついて鳴くほどの 森に早くなっておくれ 」
* 万葉集の巻10は、ほとんどが作者不明です。
多くの歌を収集する段階で、作者がはっきりしない作品も当然あると思われますが、万葉集の場合、伝承の過程で作者名が分らなくなったという例は少ないような気がするのです。つまり、作者不明の多くは、意識的に記録されなかったような気がしてなりません。例えば、最初に収集に当たった人が、名前を記す必要がないと考えたとか、記録しても意味がないと考えたとかなどです。
あるいは、地方の農民などの場合、単なる呼び名しかなく、記録するほどのことはないと考えたのかもしれません。
* 掲題の歌も、どのような地域の、どのような生活を送っていた人物の作品かまったく分りません。
現代の私たちには、鶯と柳という組み合わせは、新鮮というか不自然というか微妙なところですが、作者の鶯や柳に対する温かな気持ちが込められているすばらしい作品と感じました。
この時代の庶民の生活がどのようなものであったのか知らないのですが、自然の流れをのびのびと受取っている様子を伝えてくれています。個人的に大変好きな歌です。
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