雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

万づのことよりも

2014-07-01 11:00:06 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第二百二十段  万づのことよりも

万づのことよりも、わびしげなる車に、装束わるくて物見る人、いともどかし。
説教などは、いとよし。罪うしなふことなれば・・・。
それだになほ、あながちなるさまにては見苦しきに、まして、祭などは、見でありぬべし。下簾なくて、白き単衣の袖などうち垂れてあめりかし。
ただ、その日の料と思ひて、車の簾も仕立てて、「いと口惜しうはあらじ」と、出でたるに、まさる車など見つけては、「何しに」とおぼゆるものを・・・。まいて、いかばかりなる心にて、さて見るらむ。
     (以下割愛)


どんなことよりも、貧弱な車に乗って、粗末な服装で物見に来る人は、全くいらいらします。
お説教などを聴聞する時は、まあいいでしょう。もともと罪を消滅させるためのものですから・・・。
それだってやはり、あまりひどい格好ではみっともないのに、まして、賀茂祭りなんかは、見に来なければいいんですよ。下簾もない貧弱な車に乗って、それでいて出だし衣でもしているつもりなのでしょうか、粗末な白い単衣の袖などを簾の外へ垂らしているんですからね。
私なんかは、ただその日のためにと心掛けて、車の簾も新しくして、「まあまあ恥ずかしいことはあるまい」と思って、出掛けたところが、自分のよりよく仕立てた車なんかを見つけると、「何のために出てきてのか」と思ってしまいますのに・・・。ましてや、そんな人たちは、どんな考えで、そんな恰好で見物するのでしょう。

「いい場所に車を据えよう」
と思い、急がせたので、早くに出てきて行列を待っている間、車の中で坐り直したり立ち上がりなどして、暑いやら窮屈なやらでくたぶれ切った頃、斎院のお相伴に呼ばれている殿上人、蔵人所の衆、弁官、少納言といった人たちが、七台八台と車を連ねて、院の方向より走らせてくるのを見ると、「準備は完了したらしい」と、緊張するとともに、嬉しくなります。
高貴な方々の観覧の桟敷の前に車を据えて見るのも、なかなか興味深いものです。
桟敷の殿上人が、私の車へ挨拶の使いを寄こしたり、桟敷の主人が、前駆けを奉仕する者たちに水飯(スイハン・乾飯を水や湯で柔らかくしたもの)を振舞うとて、桟敷の階段のもとに前駆けたちが馬を引き寄せるのに、れっきとした家の子息などには、桟敷から従者などが下りて、馬の口取りなどしているのが、可笑しい。それほどでもない者には、見向きもされないのですから、とてもお気の毒です。(斉王の前駆けには、良家の君達も加わっていたらしい)

いよいよ、斉王の御輿がお通りになると、物見の車は一斉に轅を下げて(車体が前に傾き、叩頭の礼をすることになる)、御輿が通り過ぎますと慌ててもとに戻すのも可笑しい。
自分の車の前に据える車は、従者がやかましく制するのですが、
「どうして、据えてはいけないわけがあるのだ」
と言って、無理に据えるものだから、従者はそれ以上は言いかねているのに車中の主人同士が話し合っているなんてのも、面白い風景です。

立錐の余地もないほど車が重なり合っている所に、お偉方の御車が、お供の車を沢山連れて来るのを、「一体どこに据えるつもりなんだろう」と見ていますと、御前駆けの者たちが、次々に馬から降りて、先に据えてある沢山の車を、片っ端から除けさせて、お供の車までずらりと据えさせたのは、いやはやお見事なものですよ。
追い払われた沢山の車が、轅に牛をつないで、すいている場所のある方へがたがた揺すりながら行く姿は、実にみじめなものです。それも、きらびやかで身分のいい人の車なんかには、それほど高飛車なことはしないし、まったく身勝手なものですよ・・・。
反対に、田舎くさい下々の車を、しきりに呼び寄せて、見やすい場所へ据えさせてやったりしている人もあるのですよ。



全体としては、賀茂祭りの見物の様子を描いていますが、所々に身分社会の現実が感じられます。
少納言さま自身、枕草子全体を通してみますと、身分をわきまえない人に対して厳しく、中下級とはいえ貴族らしさを強く感じるのですが、最後の部分などは、人間的な心根も評価されていたのです。
コメント
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