『 お天気も世間も騒がしい 』
今朝早く 外に出た瞬間 涼しさを感じました
今シーズン 初めてのことで
さすがに 季節は動いているようです
ただ 次から次の台風で
13号は 関東周辺を 直撃しそうなので
くれぐれも ご注意して下さい
それにしても お天気も 世間も
騒がしいことです・・・
☆☆☆
『 花すすき 』
花すすき 我こそ下に 思ひしか
穂にいでて人に 結ばれにけり
作者 藤原仲平朝臣
( 巻第十五 恋歌五 NO.748 )
はなすすき われこそしたに おもひしか
ほにいでてひとに むすばれにけり
* 歌意は、「 花すすきよ 私こそ心の内で 思いを寄せていたのに 公然と態度に表して他の男と 結ばれてしまったものだ 」といった、失恋の歌でしょう。ただ、作者の生涯を覗いてみますと、何か考えさせられてしまう部分があるように思ってしまいます。
* 作者の藤原仲平は平安時代前期の公卿です。生没年は、875 - 945 で、行年七十一歳です。
父は藤原基経です。基経は藤原北家の嫡流で、長年にわたって政権の実力者として君臨し、摂政・太政大臣にまで昇った人物です。
母は人康(サネヤス)親王の娘です。人康親王は仁明天皇の第四皇子です。
仲平は、基経の次男として誕生しましたが、同母の兄弟には、兄の時平、弟の忠平、姉の穏子は、醍醐天皇の中宮となり朱雀・村上天皇の生母になっています。
異母の兄弟姉妹も多く、歴代天皇に多くの姉妹が入内しています。
* このように、藤原氏、中でも北家の台頭が著しい時代に、嫡流家の次男として誕生した仲平は、恵まれた官暦を昇っていきました。
兄の時平と同様に、殿上童を勤め、正五位下に叙された後、宇多天皇の加冠により元服しました。
正五位下を与えられたのが 887 年ですから、十三歳にして貴族の地位を得たことになり、元服はその三年後です。
その後、右衛門佐に任ぜられ、近衛府少将・中将など武官も経験し、894 年に従四位下に叙されました。二十歳になった頃の事で、順調すぎる昇進でした。
* しかし、900 年に、五歳年下の同母弟の忠平が、従四位下に昇ったばかりで参議に抜擢されました。同じ従四位下といっても、参議は公卿として扱われますから、大変な差がつくことになります。
同母の兄弟で、仲平に大きな落ち度がなかったようなので、忠平はよほど優秀で周囲の期待が大きかったということのようです。
この事は、当然仲平の不満は大きかったでしょうし、周辺の取り直しもあったのでしょうし、特に宇多上皇の意向が働いたらしく、忠平の参議は解かれ、その後は、従四位上、正四位下と仲平が先行しました。
そして、908 年正月に忠平が参議のに昇ると、翌 2 月に仲平も参議に就き、ほぼ揃って公卿となりました。仲平が三十四歳の時でした。
* ところが、909 年に兄の時平が没すると、氏長者の地位は忠平に与えられました。この時、仲平と大きな衝突があったような記録が残されていませんので、一族や天皇周辺の意向も、忠平の氏長者就任は当然のことと考えられていたようです。
しかし、これによって、二人の昇進には大差が付いていきました。仲平は、氏長者に就くのと前後して従三位権中納言となり、その後も、大納言、右大臣、左大臣と昇進を重ね、仲平が追いつくことはありませんでした。
それでも仲平も、藤原氏傍系の参議たちに追い越されながらも、917 年に従三位中納言、927 年に大納言に昇り、933 年には右大臣に任ぜられました。忠平に遅れること二十年にしての大臣職就任でした。
937 年には左大臣にまで昇りましたが、945 年に病没しました。
* 作者 藤原仲平の最終官位は、「正二位・左大臣兼左近衛大将兼皇太子傅」です。
人臣としては最高位といえる出世ですし、常に政権の中心近くに位置し、大きな失策は伝えられていません。
温和な人柄であったと伝えられている一方で、さすがに、弟に先行されてことには不満があったらしく、時々政務をないがしろにすることがあったと、政権の頂点にあって苦心していた弟の忠平を嘆かせたとも伝えられています。
さて、この仲平という人物は、自らの生涯をどう考えながら最期を迎えたのでしょうか。
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