雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ゼレンスキー大統領 国連総会出席

2023-09-19 18:57:40 | 日々これ好日

     『 ゼレンスキー大統領 国連総会出席 』

    ゼレンスキー・ウクライナ大統領が
    国連総会に出席のため 米国ニューヨーク市に
    到着したとのニュース 
    対ロシア戦での支援を求めて ゼレンスキー大統領の
    積極的な外交が目立つ
    ロシアのプーチン大統領は 海外渡航に制限があるようだが
    親しい関係国との外交努力は 実に積極的だ
    両国とも 積極的に 話し合いで交渉しているのに
    両国間では 話し合いという行動は 霧消しているようだ
    国連というのは 難しい問題を
    話し合いで解決する場だと 思うのだが
    全く期待できないのが 実に残念だ

                  ☆☆☆
    
     

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紅葉せぬ

2023-09-19 08:12:24 | 古今和歌集の歌人たち

    『 紅葉せぬ 』


 紅葉せぬ ときはの山は 吹く風の        
         音にや秋を 聞きわたるらむ

           作者  紀淑望

( 巻第五 秋風下  NO.251 )
    もみじせぬ ときはのやまは ふくかぜの
              おとにやあきを ききわたるらむ


* 歌意は、「 青々として紅葉しない ときわの山は 吹く風によって秋の訪れを 味わっているのだろう 」といったものでしょうか。
この和歌の前書き(詞書)には、「秋の歌合しける時によめる」とありますから、実感というより、やや技巧が感じられるような気がします。
「ときはの山」が実在かどうかは不明ですが、「常磐の山=常緑樹の山」として詠んだものでしょう。

* 作者 紀淑望(キノヨシモチ)は、平安時代前期の貴族、学者です。
紀氏は、祖先をたどれば武内宿禰まで遡る名族です。この時代においては、必ずしも一流の氏族ではなかったのでしょうが、古今和歌集の撰者である紀貫之・紀友則に見るように、学術分野を中心に中下級の貴族として、一定の勢力を保っていました。淑望もそうした一人と言えます。ただ、貫之や友則とは、五、六代前に枝分かれしていて、血統としてはかなり遠くなっていたようです。

* 淑望の父は、従三位中納言・紀長谷雄です。長谷雄も学術の世界で名を上げ、菅原道真や宇多天皇・醍醐天皇から評価され公卿の地位まで上っていますので、政務面の能力も高かったのでしょう。
淑望の生年は未詳です。
896 年に文章生となり、902 年に民部少丞に任ぜられています。この年は、父の長谷雄が参議に就いた年にあたりますので、父の影響があったのかも知れませんが、民部少丞と言う役職は従六位下程度ですから、それほど大きな恩恵とは思われません。
906 年に、従五位下刑部少輔に叙任、貴族の仲間入りを果たしています。
財政・司法といった文官を務め、後には大学頭の就き、保明親王(醍醐天皇第二皇子)の東宮学士も勤めています。
912 年に従五位上に昇りましたが、919 年に逝去しました。行年は不詳ですが、五十歳前後だったのでしょうか。

* 現在、私たちが紀淑望という人物と出会う一番の機会は、古今和歌集の「真名序」の作者だということではないでしょうか。
古今和歌集には、「真名序」と「仮名序」があります。作者は、漢文による真名序が紀淑望、仮名序が紀貫之ということで、ほぼ定説になっています。
ただ、研究者はともかく、趣味として古今和歌集を学ぶ程度の者にとっては、真名序はなじみが薄いようです。私も同様です。
そこで、解説書などの力を借りてですが、この二つはほぼ同じ内容でありながら、所々差異があるようです。また、古今和歌集にはいくつかの伝本がありますが、真名序が伝えられている物は少ないようです。内容も、仮名序に比べて真名序の方がやや稚拙とされているようです。その一方で、まず真名序が書かれて、それに従って仮名序が書かれたという意見の方が有力なようなので、どうも分りにくいのです。

* しかし、伝えられている淑望の経歴を見る限り、学者としての力が貫之に劣るとはとても思われません。ただ、真名序が淑望の作だとした場合、なぜ彼が執筆したのかという疑問が残ります。
まず、なぜ撰者でもない彼が選ばれたのか、ということです。淑望が学者として評価が高かったとしても、歌人として決して高名でもなく、古今和歌集には掲題の一首が採用されているだけなのです。また、古今和歌集の編纂において中心的な役割を果たしたと思われる貫之とは、同じ紀氏とはいえ、血脈的にはかなり遠い関係で、特に優先させるとは思われないのです。
ただ、選ばれる理由があるとすれば、漢学者としてよほどの評価を受けていたか、醍醐天皇辺りから強い意向が働いたとか、それくらいしか見当たらないのです。

* 作者の紀淑望が学者として一流であったことは確かなのでしょう。ただ、個人的には、真名序の作者というのには首を傾げてしまうのですが、これは、ほぼ定説になっていることです。
そこで、あえて推定すれば、彼の父の長谷雄は、あの「竹取物語」の作者候補の一人に挙げられていますので、もしかすると、淑望にも当時の人たちを惹き付ける文章力が知られていたのかも知れません。

     ☆   ☆   ☆


 

 

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