雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

松の夕風

2019-06-12 08:26:23 | 新古今和歌集を楽しむ
     五十鈴川 空やまだきに 秋の声
                したつ岩根の 松の夕風   
  


                      作者  大中臣明親

( No.1885  巻第十九 神祇歌 )
             いすずがは そらやまだきに あきのこえ
                          したついはねの まつのゆうかぜ 
  



* 作者 大中臣明親(オオナカトミノアキチカ)は、土御門天皇の御代に活躍した人物らしいが、生没年ともに未詳。

* 歌意は、「 五十鈴川のあたりは 空はまだ秋の気配はしないが 下にある岩に根を絡ませた松に吹く夕風は すでに秋を感じさせる 」と解釈した。
なお、五十鈴川は著名な川であるが、ここでは、伊勢神宮(内宮)そのものを指していると考えられる。また、空(上)と岩根の松(下)を対比させている。

* 作者の大中臣明親が活躍した時期は、第八十三代土御門天皇( 在位期間 1198-1210 )の御代を含む頃とされている。
時代は、平安時代末期から鎌倉時代初頭の動乱の時代である。土御門天皇の父である後鳥羽院が承久の乱で隠岐に配流されたのが1221年のことである。なお、後鳥羽院は、新古今和歌集を勅撰した天皇でもある。
明親は、正五位下左近将監に就いていたと伝えられているので、中級の貴族といえる。ただ、平安時代の頃に比べれば、中級貴族の権威や経済力は低下していたと思われる。そういった影響もあってか、明親の伝えられている消息は極めて少ない。

* 大中臣氏は、古代からの有力氏族である。中央政権において、祭祀を司る一族であったが、それは現代人が考えるより遥かに重要な任務を担当していたのである。
一族の中で、現在の私たちが最も周知している人物としては、藤原鎌足であろう。鎌足は中臣氏であるが、その功績により天智天皇から「藤原」姓を賜ったが、それは死の前日のことで、鎌足自身は藤原姓を名乗ることはなかった。
鎌足の後継者は嫡子の不比等とされていて、不比等は鎌足をも凌ぐ大政治家になるが、鎌足が死去した時にはまだ幼く、嫡子と認知されているような状況ではなかったらしい。実質的な後継者は甥で婿養子であった意味麻呂で、藤原姓も引き継がれ、中臣氏の多くが藤原姓を名乗ったらしい。

* その後、文武天皇の勅により、不比等とその子孫のみが藤原姓を名乗るようになり、他の一族は、先祖伝来の中臣姓を名乗ることに定められた。
その後、意味麻呂の息子の清麻呂は、正二位右大臣にまで昇り、769年に孝謙天皇(上皇)より「大中臣」姓を賜り、一族は大中臣姓となった。
明親はその子孫にあたる。

* 新古今和歌集に入選している明親の和歌は、この一首だけである。
大中臣氏は古代からの名族であり、貴族社会を牛耳っていた藤原氏とは先祖を同じくしているが、この頃には両一族に親近感などなかったと考えられる。さらに言えば、正五位は殿上人の資格を有するが、貴族あるいは官邸社会においては目立つ立場でもないし、政治的な動きに加わったという記録もないようである。歌人としても、それほどの評価を受けていたとは考えられない。
しかし、たとえ一首といえども、堂々と勅撰集に選出されているのである。

* もしかすると、現在に伝えられてはいないが、後鳥羽天皇あるいは土御門天皇に格別の功績があったのか、もしかすると、この和歌自体に、特別な意味が含まれているのかもしれない、などと想像してみるが、何も示唆してくれない。
和歌に詠まれているように、岩根の松をなびかせる夕風のような生涯を送った人物だったのかもしれない。

     ☆   ☆   ☆ 

                    

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 惜しかった | トップ | 安倍首相 イラン訪問 »

コメントを投稿

新古今和歌集を楽しむ」カテゴリの最新記事