雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

行基菩薩 (2) ・ 今昔物語 (巻11-2)

2016-08-18 13:47:15 | 今昔物語拾い読み ・ その3
          行基菩薩 (2) ・ 今昔物語 (巻11-2) 

     (行基菩薩 (1) より続く)

その後、智光はこの罪を詫びるために、行基菩薩の所へ行こうとした。
その頃、行基は摂津国の難波の堀江に橋を架け、また堀江をさらに掘って船着き場を造っていたので、そこを訪れた。
行基菩薩は智光の心を承知していて、彼が来るのを笑みをたたえて迎えた。智光は杖にすがったまま、うやうやしく礼拝し、涙を流しながら罪を詫びたのである。

この行基菩薩は、前世は、和泉国の大鳥郡に住んでいた人の娘であった。幼い頃、両親に大変可愛がられていた。
その頃、その家に仕えていた下童がいた。庭の糞を取り捨てさせる者である。名を真福田丸(マフクダマル)という。この童は聡明で、「自分は、生まれ難い人間という身を得ているが、下賤の身であり、仏道に励まなくては来世も期待できない。そうであるから、大きな寺に行き、法師となって仏の道を学ぼう」と決意して、まず主人に暇(イトマ)をいただきたいと願うと、主人は、「お前は、どういうわけで暇を願うのか」と言う。
「私は、前々から修行に出たいと思っていたのです」と童が答えると、主人は、「真剣にそう考えているのであれば、すぐにも許してやろう」と言って許可した。そして、「長年仕えてきた童である。修業に出て行くときには、水干の袴を遣わすように」と言って、さっそく水干の袴を準備させたが、主人の幼い娘が、「この童の修業に出るためのものです。功徳の為に」と言って、この袴の片方を縫ってやった。
童は、これを着て元興寺に行き、出家してその寺の僧となった。名を智光と言う。そこで仏法を学びたいへん立派な学問僧となった。
主人の幼い娘は、間もなく病をえて亡くなってしまった。あちらこちらへ修業に歩いていた童は、一度ふるさとに帰って来た時、主人の幼い娘が亡くなったことを知って悲しみにくれたが、どうすることも出来なかった。
その後、その幼い娘は、同じ国の同じ郡の(このあと「破損による欠字」となっている。おそらく、娘が行基として生まれ変わったことが述べられていると思われる。)

さて、行基菩薩がまだ幼い小僧でおいでであった時、河内国の某郡で法会が営まれたことがあった。
智光はその時すでに優れた老僧であり、講師として招かれた。元興寺から出かけて行き、その法会の講師として高座に登り説法を行った。聞いていた人はみな感銘を受け、たいそう尊んだ。
説法が終わって高座から下りようとすると、堂の後ろの方から、論議を仕掛ける声があった。見ると、まだ頭が青い小僧である。講師は、「どれほどの寺の僧が、この私に向かって論議をしようというのか」と不審に思って振り返ると、こう論議を仕掛けた。
『真福田が修業に出でし日、藤袴を私は縫った、その片袴を』と。
それを聞いた講師は大いに怒り、小僧をののしって、「私は公私に渡って長年仕えてきたが、少しの落ち度もない。わけも分からぬ田舎法師が、この私に論議を仕掛けるなどもっての外だ。しかも悪口を言うなど実にけしからん」と言って、怒りを表したまま出て行った。小僧は笑って、どこかへ逃げて行ってしまった。
この小僧が行基菩薩だったのである。
智光ほど智者であれば、人にののしられてもそれをとがめるべきではない。しばらく思いを廻らすべきなのである。思うに、この時のことも智光の罪に加わっているのだろう。

この行基菩薩という方は、畿内の国々に四十九ヶ所の寺を建立され、不便な場所には道を造り、深い川には橋を架けられた。
文殊の化身としてお生まれになったのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 行基と智光の年齢であるが、文中では智光の方が相当年長のように述べられているが、史実では、行基の方が四十歳ほど年長である。
他の人物と混同があるのか、あるいはまったくの創作なのかは分からないが、創作とした場合も、今昔物語の編者が創作したものではなく、当時、「真福田丸説話」として、すでに出来上がっていたと思われる。

     ☆   ☆   ☆   
   

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