枕草子 第百八十七段 風は嵐
風は、
嵐。
三月ばかりの夕暮に、ゆるく吹きたる雨風。
八、九月ばかりに、雨にまじりて吹きたる風、いとあはれなり。雨の脚横ざまに、騒がしう吹きたるに、夏通したる綿衣のかかりたるを、生絹(スズシ)の単衣かさねて着たるも、いとをかし。この生絹だに、いと所狭く、暑かはしく、取り捨てまほしかりしに、「いつのほどに、かくなりぬるにか」と思ふも、をかし。
暁に、格子・妻戸をおし開けたれば、嵐の、さと顔にしみたるこそ、いみじくをかしけれ。
九月晦・十月の頃、空うち曇りて、風のいと騒がしく吹きて、黄なる葉どもの、ほろほろとこぼれ落つる、いとあはれなり。桜の葉・椋の葉こそ、いと疾くは落つれ。
十月ばかりに、木立多かるところの庭は、いとめでたし。
風は、
嵐が面白い。
三月頃の夕暮に、ゆるく吹く雨混じりの風も良い。
八、九月の頃に、雨に混じって吹いている風は、しみじみと風情があります。雨足が横向きになり、騒がしく吹いている時に、夏の間使っていた綿入れの着物を掛けているのを、下してきて生絹の単の衣と重ねて着ているのが、何だか可笑しい。この生絹の単さえ、ひどく窮屈で、暑苦しく、脱ぎ捨てたいくらいだったのに、「いつの間に、こんなに涼しくなったのか」と思うのも、しみじみとします。
明け方に、格子や妻戸を押し開けると、嵐の名残の風がさっと顔に冷たく染みてくるのも、とても風情があります。
九月の末から十月の頃、空が曇ってきて、風がとても騒がしく吹いて、たくさんの黄色の木の葉が、ほろほろとこぼれおちるのは、とてもしみじみと感じられるものです。桜の葉や椋の葉は、とりわけ早々と落ちてしまいます。
十月頃は、木立の多い庭は、実にすばらしいものです。
文中の「夏通したる綿衣の・・・」の部分ですが、第四十一段にも同様の表現が出てきますが、夏の間、寝冷え防止などのために、厚めの衣を被って寝たようなのです。生活の知恵なのでしょうね。
それにしても少納言さま、「風は、嵐」と書き出していますが、荒っぽいのがお好きだったようですね。
風は、
嵐。
三月ばかりの夕暮に、ゆるく吹きたる雨風。
八、九月ばかりに、雨にまじりて吹きたる風、いとあはれなり。雨の脚横ざまに、騒がしう吹きたるに、夏通したる綿衣のかかりたるを、生絹(スズシ)の単衣かさねて着たるも、いとをかし。この生絹だに、いと所狭く、暑かはしく、取り捨てまほしかりしに、「いつのほどに、かくなりぬるにか」と思ふも、をかし。
暁に、格子・妻戸をおし開けたれば、嵐の、さと顔にしみたるこそ、いみじくをかしけれ。
九月晦・十月の頃、空うち曇りて、風のいと騒がしく吹きて、黄なる葉どもの、ほろほろとこぼれ落つる、いとあはれなり。桜の葉・椋の葉こそ、いと疾くは落つれ。
十月ばかりに、木立多かるところの庭は、いとめでたし。
風は、
嵐が面白い。
三月頃の夕暮に、ゆるく吹く雨混じりの風も良い。
八、九月の頃に、雨に混じって吹いている風は、しみじみと風情があります。雨足が横向きになり、騒がしく吹いている時に、夏の間使っていた綿入れの着物を掛けているのを、下してきて生絹の単の衣と重ねて着ているのが、何だか可笑しい。この生絹の単さえ、ひどく窮屈で、暑苦しく、脱ぎ捨てたいくらいだったのに、「いつの間に、こんなに涼しくなったのか」と思うのも、しみじみとします。
明け方に、格子や妻戸を押し開けると、嵐の名残の風がさっと顔に冷たく染みてくるのも、とても風情があります。
九月の末から十月の頃、空が曇ってきて、風がとても騒がしく吹いて、たくさんの黄色の木の葉が、ほろほろとこぼれおちるのは、とてもしみじみと感じられるものです。桜の葉や椋の葉は、とりわけ早々と落ちてしまいます。
十月頃は、木立の多い庭は、実にすばらしいものです。
文中の「夏通したる綿衣の・・・」の部分ですが、第四十一段にも同様の表現が出てきますが、夏の間、寝冷え防止などのために、厚めの衣を被って寝たようなのです。生活の知恵なのでしょうね。
それにしても少納言さま、「風は、嵐」と書き出していますが、荒っぽいのがお好きだったようですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます