熱戦を繰り広げている高校野球も、いよいよ決勝戦を残すばかりとなりました。決勝戦は仙台育英対下関国際という新鮮な対戦となり、どちらが勝利しても初優勝ということになります。
全試合を見ているわけではなく、多くはダイジェスト的なもので見ていますので、余り生意気な意見はまずいとは思うのですが、今大会に限ったことでありませんが、大熱戦の試合ばかりでなく、大差がついてしまった試合も幾つかあります。手に汗握る接戦は見る者にとっては楽しいのですが、大差がついてしまった試合は、少々辛さも感じてしまいます。一度負ければそれで終るというトーナメントだけに、大差で負けている選手やその背景などを考えますと、そうした試合を最後まで見るのは忍耐力を必要とします。
ところが、例えば「10対0」といった大差の試合の場合、明らかな実力差という試合もあることにはあるのですが、実際は、それほどの差はなく、結果として大差となったという試合の方が多いように感じられます。
特に最近は、東北や北海道など、かつては寒い国は、特に春の大会は不利だとされていましたが、そうした地域差は殆ど感じられなくなっています。また、都道府県によって参加校数にかなりの差があるため、レベルに差があるようにも感じられるのですが、多くの地域に野球強豪校が誕生していることもあって、その差も小さくなっているようです。
そうした代表校同士でも、一つの切っ掛けから、実力差を遙かに超えた差がついてしまうようです。そして、その切っ掛けとなるものは、幾つもの要因が積み重なることもあるのでしょうが、一つの判断、一つのプレー、といった一瞬の出来事に端を発しているように思えてならないのです。
念願果たした甲子園の晴れ舞台で、敗戦の直接原因になった当事者の気持ちはどうなのだろうか、と心配してしまうことがあります。しかも、それは、ほんの一瞬のうちに起ってしまいます。時には、その一瞬によって、長い間、時には生涯にわたって、うずき続く重荷になることさえあるようです。
そして、こうした事は、野球などスポーツだけで発生することではなく、私たちの日常、あるいは生涯にわたって、大きな転機となる一瞬というものが存在しているようです。時には、その一瞬の判断の結果のため、大きなダメージを受けてしまうこともあるようなのです。
「よく考えて判断せよ」「誰々のアドバイスを聞きなさい」「慎重に慎重に」などと注意してくれる人がいるとしても、最後の決断は自分一人にしか下すことが出来ません。それも、一瞬のうちにです。幾ら熟慮したとしても、決断するのは一瞬です。
そう考えてみますと、私たちは、毎日毎日、様々なことを決断していることになります。重大なこともありますが、起き上がる瞬間、歩き出す瞬間、右に曲がる瞬間、ある返事をする瞬間、どれもこれも一瞬の判断に基づいているのです。そのほとんどは、無意識であったり、習慣として判断しているのでしょうが、その一瞬の判断によって大事が出現することがあります。
プラスに働く場合は問題ないのですが、マイナスに働いた場合、私たちは堪えられないほどのダメージを受けてしまうことがあります。
私たちの生涯は、極論すれば、一瞬を膨大な回数繰り返しているものかも知れません。その一瞬一瞬ごとに、私たちは決断しているのです。その殆どは無意識のうちにですが。
従って、どんなに辛いことや、絶対に取り返しのつかないようなミスだとしても、それがすべてというわけではないと思うのです。どうも、くどくなってしまいましたが、一瞬の行動や判断のミスで、人生そのものを投げ出さないで欲しいと願うのです。
( 2022.08.21 )
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