雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

老いの繰り言 ・ 小さな小さな物語 ( 1568 )

2023-02-02 15:34:16 | 小さな小さな物語 第二十七部

「老いの繰り言」という言葉、何とも哀れみを感じてしまいます。
この言葉を辞書で調べてみますと、「老人が同じことをくり返して、くどくど言うこと」とあります。この説明から考えますと、老人のどうにもならない欠点を冷たく突き放しているように説明されていると感じるですが、個人的には、少し違うのではないかと思うのです。
「繰り言」というくらいですから、同じ意味の言葉を繰り返すのでしょうが、第三者にとっては、特に若い人にとっては迷惑なことが少なくないのでしょうが、その繰り言には、くどさや頑迷さはあるとしても、悪意は含まれてはいないはずです。含まれているのは、必死さであったり、もどかしさであったり、言い表されないような悲哀のようなものを感じてしまうのです。

「老害」という言葉も嫌な言葉ですが、時々お目にかかりますし、その状態を実感することも少なくありません。
老害とされるものも、「自分の能力を過信する。自分が常に正しいと思って疑わない」「頑固で融通が利かない」「プライドが高く、学習する気がない」等々、延々と続きそうなほど説明されています。
確かに、個人の家庭内のことであれば、家庭崩壊の原因になることもあるのでしょうが、それほど多くないように思われます。もっとも、それには、堪え難きを堪えている人がいての事なのかも知れませんが。
ただ、これが社会的に指導的な立場にある人の場合、「困ったことだ」では済まず、それによって泣きを見る人は多く、社会的な損失も少なくないはずです。そして、この問題の困ったことは、当の本人は認識していないことが多く、社会的地位が高ければ高いほど、その首に鈴を付けに行く人がいないと言うことなのです。

「青春の詩」という詩があります。訳詞は幾つもあるようですが、『 青春とは人生のある時期を言うのではない。心のあり方を言うのだ。・・・ 』といった詩です。
この詩は、ドイツ出身のアメリカ人、サミュエル・ウルマン( 1840 - 1924 )という人の詩ですが、かつては、人生の応援歌という位置付けで、「青春は年令ではない」とばかりに、小父さんたちが訓話に取り入れていました。もっとも、その陰では、この詩を訓話に取り入れるようになると、すでに老害が始まっている証拠だといって笑う輩も少なくなかったようです。
この詩は、あのダグラス・マッカーサー元帥が大変好んで引用したそうで、わが国に進駐中にも、額にしたり訓話に用いたそうです。
個人的には、余り好きな詩ではありませんが、青春時代が年令に関係ないと言うのには賛成できませんが、年令だけでやたら老化や老害を云々するのにも反対です。

病床にある、尊敬していた大先輩が、こんな話をして下さったことを覚えています。
「人間は、どんな状態であっても、意外に生きられる物のようだよ。若い頃は、年寄りのくどさが嫌になったり、元気な時には、体が動かなくなってどうするのだろう、などと考えたものだが、いざその身になってみると、少し違うものが見えてくるんだ。若い者には、六十歳、七十歳の者が考えていることが理解できないかも知れないが、逆のことも言えて、幾ら俊才といえども二十歳の若者に六十歳の者が経験してきたすべてを知ることは出来ない。同じように、八十歳であれば八十歳の、百歳であれば百歳なればこその、何かが見えてくるような気がするんだ。その気にさえなれば、何歳になっても、明日には何が見えてくるのか、わくわくするもんだよ」と。
人は何歳になっても、どんな状態になっても、新たな発見を求めることは可能らしいのです。少なくとも、そう考えたいと思うのです。
老害を振りまいていないか自制する必要はあるとしても、ある年令になれば、「老いの繰り言」大いに結構だと思うのです。ただ、問題は、その「ある年令」がいつなのかが、なかなか自分で判断できないことなのですよ。

( 2022.08.18 )


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