歴史散策
古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 5 )
軍事集団・大伴
前回に述べた武日命は、おそらく初めて大伴氏を名乗ったと想像できるが、それは、神代の時代から歴史上の人物として登場してくる人々との時代を生きた人物だったともいえる。
つまり、日本書紀には武日命は日本武尊の東征に従軍したと記されているので、日本武尊を実在の人物と考えるならば、武日命も実在していたと考えるのが自然だと思われる。
それは、日本書紀の年代記をベースにしてのことであるが、今からおよそ二千年ほど昔のことになる。
そして、それから遡ること数百年の昔、遠祖とされる日臣命は神武天皇の東征に従軍していた。神武天皇の即位を紀元前660年とすれば、七百年も遡ることになるが、大伴氏の祖先は、いずれも王家の軍団として存在感を示しているのである。
さらに遡るならば、天孫ニニギノミコトの降臨に際しても、大伴氏の遠祖とされる天忍日命(アメノオシヒノミコト)は、武人として先導しているのである。その時期となれば、神武天皇即位から、数百年遡るのか、百数十万年遡るのか、推定さえ困難である。
いずれにしても、大伴氏は、この国(葦原中国[アシハラノナカツクニ])に天孫が第一歩を記した時から、天皇の側近くに仕えた武人一族といえる。
大伴という名前の由来は、「大きな伴」という意味であろうが、「とも(伴あるいは部)」というのは、古代における一族的なものと考えられるが、それは、血縁も大きな意味を持っているが、それに加えて技術集団としての意味合いが強いものであったようだ。たとえば、秦氏、弓削氏、服部氏、犬養氏などといった一族は、名前からして有している技術が窺える。
大伴氏は、そうした「とも」すなわち一族をいくつか統率する立場として勢力を有していたようだ。祖先伝承の中にも、大来米(オオクメ)という部民を率いていたとか、靫部(ユケイノトモノヲ)を賜ったという記事もあり、長年にわたって強大な軍事集団として存在感を示していたと考えられる。
因みに、物部氏も同じように強大な軍事集団を誇っていたと考えられるが、物部氏が王家の主力軍団であったのに対して、大伴氏は王家そのものを守る親衛隊、近衛兵的な特徴をもっていたようである。
さて、神代の時代から実歴史への時代を生きた大伴氏の人物として武日命を紹介したが、実際は、それほど単純な事ではないのは当然といえる。そもそも、神代の時代などと簡単に言っても、その定義はなかなか難しい。天照大神(アマテラスオオミカミ)たちが、天上で様々な相談をしたといったくだりを考えると、この時代は神代の時代であり、神代の人々であると考えるのが自然と思われる。
ところが、神武天皇は天照大神の支援を受けていたという記録があり、現在に伝えられている神社の中には天照大神を祀っているものも少なくない。それらから、天照大神は本当は実在した人物であったものを神格化したのだという考え方もできる。
日本書紀や古事記をベースにすれば、疑いもなく神代の時代といえる天上の世界と、天孫が降臨して以降とは別の世界だと考えることができる。しかし、それとても、ニニギノミコトから神武天皇までが数百年なのか、百数十万年なのかさえ確定できないとなれば、ますます渾沌としてしまう。
本項においては、基本的には、渾沌としていると思われる時代こそ、神代の時代だとして考えている。
そう考えた場合、武日命がその端境期を生きた人物と仮定した場合、彼の息子である大伴武以(オオトモノタケモチ・武持とも。)は、実歴史上の人物と考えられる。
日本書紀には、「 皇后(神功皇后)と大臣武内宿禰は、天皇(仲哀天皇)の喪を匿(カク)して、天下(アメノシタ)に知らしめず。則ち皇后は、大臣と中臣烏賊津連(ナカトミノイカツノムラジ)・大三輪大友主君(オオミワノオオトモヌシノキミ)・物部胆咋連(モノノベノイクヒノムラジ)・大伴武以連(オオトモノタケモチノムラジ)に詔(ミコトノリ)して曰(ノタマ)はく、『今し天下、未だ天皇の崩りまししことを知らず。もし百姓(オホミタカラ)知らば、懈怠(オコタリ・規律が緩むこと)有らむか』とのたまふ。則ち四大夫(ヨタリノマヘツキミ)に命(ミコトオオ)せて、百寮(モモノツカサ)を領(ヒキ)いて、宮中を守らしめたまふ。 」との記述がある。
つまり、武以は、仲哀天皇が崩御した時点(日本書紀に基づけば、西暦200年。)では、朝廷の重役に就いていたことが分かる。そして、神功皇后を実在の人物とすれば、武以は疑いもなく実歴史上の人物となる。
ところが一方で、伴氏系図には、「武以が初めて大伴宿禰姓を賜う」と記されているというので、少々ややこしくなる。
ところで、この氏姓(シセイ/ウジカバネ)の制度というのは、私など興味本位で歴史を学んでいる者にとっては、なかなか理解しにくいところがある。そこで、その概要を記しておきたいと思うが、後世では、「自称」というものが増えるなど、説明不足がある部分はご容赦願いたい。
まず、古代の原始共同体においては、おそらく血族による集団が他集団に対抗するために拡大していったと考えられるが、やがて、氏族や部族という集団が社会の単位になっていったようである。それらも、やはり血縁が重視されることに変わりはなかったと考えられるが、氏族の場合は、技術や技能といったものが中核となって拡大していったと考えられる。一方の部族の場合は、地域ごとの集団がベースになったようである。「臣(オミ)」とか「連(ムラジ)」などという名乗りは、日本書紀などを見る限り、相当早くから登場してきているようであるが、果たして厳密な基準に基づいて与えられていたものかどうかは断定しがたい。
やがて、大化の改新を経て律令制度が定着していくにしたがって、皇族と以外は何らかの姓(カバネ)を有するようになり、氏姓制度は定着されたとされるが、その一方で、姓による一族全体の評価よりも個人の能力を評価することが強まり、氏姓制度に変化がみられるともいわれる。
姓は、同族の中の特定の者に与えられたもので、その限りにおいては身分を表していることになる。大臣・大連という姓がよく登場するが、臣の中の上位格、連の中の上位格といった意味であろうが、大臣・大連が政権の最上位格であったと考えられる。
それでは、それらの姓がどのように与えられたのか、その概要を見てみる。
「臣(オミ)」・・・ヤマトの地名を一族の氏の名前としていて、かつては王家に並ぶ立場にあった勢力で、ヤマト王権においても最高の地位を占めることの多い姓である。例えば、葛城氏・平郡氏・巨勢氏・春日氏・蘇我氏などである。
「連(ムラジ)」・・・ヤマト王権での職務や役割を一族の氏の名前としていて、王家に従属していて、官人としての立場にある。ヤマト王権の成立に重要な役割を果たした一族といえる。例えば、大伴氏・物部氏・中臣氏・忌部氏・土師氏などである。
「伴造(トモノミヤツコ)」・・・「連」とも重なり合うが、主に「連」のもとで、ヤマト王権の各部司を分掌した豪族。例えば、弓削氏・服部氏・犬養氏など。また、秦氏・東漢氏などの帰化人。「連」「造(ミヤツコ)」「直(アタイ)」「公(キミ)」などを称した。
「百八十部(モモアマリヤソノトモ)」・・・さらに「伴造」の下位に、部民を直接指揮する多くの伴(トモ・従者)がいた。「首(オビト)」「史(フヒト)」「村主(スグリ)」「勝(スクリ)」などを称した。
「国造(クニノミヤツコ)」・・・地方の代表的な豪族で、「君(キミ)」「直(アタイ)」が多いが、中には「臣」を称する者もいた。
「県主(アガタヌシ)」・・・「国造」より古くからあり、これより小規模な豪族で、地名を氏としていた。
以上に加えて、天武天皇十三年(684)には、「八色の姓(ヤクサノカバネ)」が定められた。この制度の主目的は、これまでの姓(カバネ)の上位に新しい姓を儲けて、皇族や諸王を統率しようとしたものと考えられる。
新しい四つの姓は、真人(マヒト)・朝臣(アソン/アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)で、真人には、継体天皇から数えて五世以内の者に与えられ、その他の諸王には朝臣以下が与えられたようである。また、これまでの臣・連などの姓の有力豪族には、朝臣・宿禰などが与えられていったようである。
しかし、平安時代の頃になると、臣籍降下した平氏や源氏に朝臣が与えられ、やがて、藤原朝臣との三氏で有力貴族や武士が占められるようになってしまい、身分のとしての色合いは薄れていったようである。
説明が長くなってしまったが、「大伴武以が初めて大伴宿禰姓を賜った」という記録が残されていることが、かなり気になるのである。
氏姓制度について長々と説明させていただいたのは、「宿禰」という姓は、正式の身分制度として登場するのは、西暦でいえば684年のことで、武以が仲哀天皇に仕えていたとすれば、四百年以上の差が生じてしまうのである。
もちろん、「宿禰」という名前は、古い時代から登場してはいる。武内宿禰や野見宿禰などは著名であるが、実在の有無はともかく、彼らの場合は尊称であって、身分を示す姓ではない。仲哀天皇崩御の頃に、すでに「連」の姓を有している大伴武以がさらに「宿禰」を与えられたということに疑問を感じるのである。
単に、尊称として与えられたということも皆無とはいえないが、どうやら、大伴武以という人物も、神代の時代を色濃く残していた人物なのかもしれない、と思うのである。
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古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 5 )
軍事集団・大伴
前回に述べた武日命は、おそらく初めて大伴氏を名乗ったと想像できるが、それは、神代の時代から歴史上の人物として登場してくる人々との時代を生きた人物だったともいえる。
つまり、日本書紀には武日命は日本武尊の東征に従軍したと記されているので、日本武尊を実在の人物と考えるならば、武日命も実在していたと考えるのが自然だと思われる。
それは、日本書紀の年代記をベースにしてのことであるが、今からおよそ二千年ほど昔のことになる。
そして、それから遡ること数百年の昔、遠祖とされる日臣命は神武天皇の東征に従軍していた。神武天皇の即位を紀元前660年とすれば、七百年も遡ることになるが、大伴氏の祖先は、いずれも王家の軍団として存在感を示しているのである。
さらに遡るならば、天孫ニニギノミコトの降臨に際しても、大伴氏の遠祖とされる天忍日命(アメノオシヒノミコト)は、武人として先導しているのである。その時期となれば、神武天皇即位から、数百年遡るのか、百数十万年遡るのか、推定さえ困難である。
いずれにしても、大伴氏は、この国(葦原中国[アシハラノナカツクニ])に天孫が第一歩を記した時から、天皇の側近くに仕えた武人一族といえる。
大伴という名前の由来は、「大きな伴」という意味であろうが、「とも(伴あるいは部)」というのは、古代における一族的なものと考えられるが、それは、血縁も大きな意味を持っているが、それに加えて技術集団としての意味合いが強いものであったようだ。たとえば、秦氏、弓削氏、服部氏、犬養氏などといった一族は、名前からして有している技術が窺える。
大伴氏は、そうした「とも」すなわち一族をいくつか統率する立場として勢力を有していたようだ。祖先伝承の中にも、大来米(オオクメ)という部民を率いていたとか、靫部(ユケイノトモノヲ)を賜ったという記事もあり、長年にわたって強大な軍事集団として存在感を示していたと考えられる。
因みに、物部氏も同じように強大な軍事集団を誇っていたと考えられるが、物部氏が王家の主力軍団であったのに対して、大伴氏は王家そのものを守る親衛隊、近衛兵的な特徴をもっていたようである。
さて、神代の時代から実歴史への時代を生きた大伴氏の人物として武日命を紹介したが、実際は、それほど単純な事ではないのは当然といえる。そもそも、神代の時代などと簡単に言っても、その定義はなかなか難しい。天照大神(アマテラスオオミカミ)たちが、天上で様々な相談をしたといったくだりを考えると、この時代は神代の時代であり、神代の人々であると考えるのが自然と思われる。
ところが、神武天皇は天照大神の支援を受けていたという記録があり、現在に伝えられている神社の中には天照大神を祀っているものも少なくない。それらから、天照大神は本当は実在した人物であったものを神格化したのだという考え方もできる。
日本書紀や古事記をベースにすれば、疑いもなく神代の時代といえる天上の世界と、天孫が降臨して以降とは別の世界だと考えることができる。しかし、それとても、ニニギノミコトから神武天皇までが数百年なのか、百数十万年なのかさえ確定できないとなれば、ますます渾沌としてしまう。
本項においては、基本的には、渾沌としていると思われる時代こそ、神代の時代だとして考えている。
そう考えた場合、武日命がその端境期を生きた人物と仮定した場合、彼の息子である大伴武以(オオトモノタケモチ・武持とも。)は、実歴史上の人物と考えられる。
日本書紀には、「 皇后(神功皇后)と大臣武内宿禰は、天皇(仲哀天皇)の喪を匿(カク)して、天下(アメノシタ)に知らしめず。則ち皇后は、大臣と中臣烏賊津連(ナカトミノイカツノムラジ)・大三輪大友主君(オオミワノオオトモヌシノキミ)・物部胆咋連(モノノベノイクヒノムラジ)・大伴武以連(オオトモノタケモチノムラジ)に詔(ミコトノリ)して曰(ノタマ)はく、『今し天下、未だ天皇の崩りまししことを知らず。もし百姓(オホミタカラ)知らば、懈怠(オコタリ・規律が緩むこと)有らむか』とのたまふ。則ち四大夫(ヨタリノマヘツキミ)に命(ミコトオオ)せて、百寮(モモノツカサ)を領(ヒキ)いて、宮中を守らしめたまふ。 」との記述がある。
つまり、武以は、仲哀天皇が崩御した時点(日本書紀に基づけば、西暦200年。)では、朝廷の重役に就いていたことが分かる。そして、神功皇后を実在の人物とすれば、武以は疑いもなく実歴史上の人物となる。
ところが一方で、伴氏系図には、「武以が初めて大伴宿禰姓を賜う」と記されているというので、少々ややこしくなる。
ところで、この氏姓(シセイ/ウジカバネ)の制度というのは、私など興味本位で歴史を学んでいる者にとっては、なかなか理解しにくいところがある。そこで、その概要を記しておきたいと思うが、後世では、「自称」というものが増えるなど、説明不足がある部分はご容赦願いたい。
まず、古代の原始共同体においては、おそらく血族による集団が他集団に対抗するために拡大していったと考えられるが、やがて、氏族や部族という集団が社会の単位になっていったようである。それらも、やはり血縁が重視されることに変わりはなかったと考えられるが、氏族の場合は、技術や技能といったものが中核となって拡大していったと考えられる。一方の部族の場合は、地域ごとの集団がベースになったようである。「臣(オミ)」とか「連(ムラジ)」などという名乗りは、日本書紀などを見る限り、相当早くから登場してきているようであるが、果たして厳密な基準に基づいて与えられていたものかどうかは断定しがたい。
やがて、大化の改新を経て律令制度が定着していくにしたがって、皇族と以外は何らかの姓(カバネ)を有するようになり、氏姓制度は定着されたとされるが、その一方で、姓による一族全体の評価よりも個人の能力を評価することが強まり、氏姓制度に変化がみられるともいわれる。
姓は、同族の中の特定の者に与えられたもので、その限りにおいては身分を表していることになる。大臣・大連という姓がよく登場するが、臣の中の上位格、連の中の上位格といった意味であろうが、大臣・大連が政権の最上位格であったと考えられる。
それでは、それらの姓がどのように与えられたのか、その概要を見てみる。
「臣(オミ)」・・・ヤマトの地名を一族の氏の名前としていて、かつては王家に並ぶ立場にあった勢力で、ヤマト王権においても最高の地位を占めることの多い姓である。例えば、葛城氏・平郡氏・巨勢氏・春日氏・蘇我氏などである。
「連(ムラジ)」・・・ヤマト王権での職務や役割を一族の氏の名前としていて、王家に従属していて、官人としての立場にある。ヤマト王権の成立に重要な役割を果たした一族といえる。例えば、大伴氏・物部氏・中臣氏・忌部氏・土師氏などである。
「伴造(トモノミヤツコ)」・・・「連」とも重なり合うが、主に「連」のもとで、ヤマト王権の各部司を分掌した豪族。例えば、弓削氏・服部氏・犬養氏など。また、秦氏・東漢氏などの帰化人。「連」「造(ミヤツコ)」「直(アタイ)」「公(キミ)」などを称した。
「百八十部(モモアマリヤソノトモ)」・・・さらに「伴造」の下位に、部民を直接指揮する多くの伴(トモ・従者)がいた。「首(オビト)」「史(フヒト)」「村主(スグリ)」「勝(スクリ)」などを称した。
「国造(クニノミヤツコ)」・・・地方の代表的な豪族で、「君(キミ)」「直(アタイ)」が多いが、中には「臣」を称する者もいた。
「県主(アガタヌシ)」・・・「国造」より古くからあり、これより小規模な豪族で、地名を氏としていた。
以上に加えて、天武天皇十三年(684)には、「八色の姓(ヤクサノカバネ)」が定められた。この制度の主目的は、これまでの姓(カバネ)の上位に新しい姓を儲けて、皇族や諸王を統率しようとしたものと考えられる。
新しい四つの姓は、真人(マヒト)・朝臣(アソン/アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)で、真人には、継体天皇から数えて五世以内の者に与えられ、その他の諸王には朝臣以下が与えられたようである。また、これまでの臣・連などの姓の有力豪族には、朝臣・宿禰などが与えられていったようである。
しかし、平安時代の頃になると、臣籍降下した平氏や源氏に朝臣が与えられ、やがて、藤原朝臣との三氏で有力貴族や武士が占められるようになってしまい、身分のとしての色合いは薄れていったようである。
説明が長くなってしまったが、「大伴武以が初めて大伴宿禰姓を賜った」という記録が残されていることが、かなり気になるのである。
氏姓制度について長々と説明させていただいたのは、「宿禰」という姓は、正式の身分制度として登場するのは、西暦でいえば684年のことで、武以が仲哀天皇に仕えていたとすれば、四百年以上の差が生じてしまうのである。
もちろん、「宿禰」という名前は、古い時代から登場してはいる。武内宿禰や野見宿禰などは著名であるが、実在の有無はともかく、彼らの場合は尊称であって、身分を示す姓ではない。仲哀天皇崩御の頃に、すでに「連」の姓を有している大伴武以がさらに「宿禰」を与えられたということに疑問を感じるのである。
単に、尊称として与えられたということも皆無とはいえないが、どうやら、大伴武以という人物も、神代の時代を色濃く残していた人物なのかもしれない、と思うのである。
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