歴史散策
古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 2 )
大伴氏の誕生
歴史上に大伴氏が登場するのは、とてつもなく遠い時代までさかのぼる。神話の時代も我が国の歴史の流れの中にあると考えた場合のことであるが。
「日本書紀」の巻第二の冒頭部分を引用してみよう。
『 天照大神の子 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、高皇産霊命の女 栲幡千千姫を娶り、天津彦彦火瓊瓊杵尊を生みたまふ。故、皇祖 高皇産霊尊、特に憐愛を鍾めて崇養したまふ。遂に皇孫 天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、芦原中国の主とせむと欲す。・・・ 』
( アマテラスオオミカミのこ マサカアカツカチハヤヒアマノオシホミミノミコト、タカミムスヒノミコトのみむすめ タクハタチヂヒメをめとり、アマツヒコヒコホノニニギノミコトをうみたまふ。かれ、ミオヤ タカミムスヒノミコト、ことにうつくしびをあつめて あがめひだしたまふ。ついに スメミマ アマツヒコヒコホノニニギノミコトをたてて、あしはらのなかつくにの きみとせむとおもほす。・・・ )
「 天照大神の子である マサカアカツカチハヤヒアマノオシホミミノミコトは、タカミムスヒノミコトの御娘である タクハタチヂヒメを娶り、アマツヒコヒコホノニニギノミコトをお生みになった。そこで、ミオヤ タカミムスヒノミコトは、格別に生まれた子を寵愛し貴んで養育された。やがて、スメミマ アマツヒコヒコホノニニギノミコトを立てて、葦原中国の君主にしようと思われた。・・・ 」
文中の名前を読むだけでも大変だが、最初に出て来た名前に、次には「皇祖」あるいは「皇孫」という部分が加えられて出てきている。これらは、いずれも尊称のようなものと思われるが、一般的には、それも加えたものとされているようである。さらに、一人の人物にも、数多くの名前があり、なかなか分かりにくいが、例えば、アマツヒコヒコホノニニギノミコトは、単に「ニニギノミコト」と表現することも多いようである。
このあと「日本書紀」は、
[ ニニギノミコトを君主にさせるには、今の葦原中国は、「蛍火なす光る神」と「蠅声(サバヘ・ハエのようにうるさく騒ぐ)なす邪神がおり、また、草や木もみな精霊が宿っていて、物を言って不気味だ。]
ということで、先に、邪鬼(アシキモノ)を平定させるために誰かを派遣しようという事になった。
神々が相談した結果、天穂日命(アマノホヒノミコト・天照大神の玉から生まれた子の一人)を葦原中国平定に派遣したが、大己貴神(オオアナムチノカミ・スサノオノミコトの子の五世の孫)に篭絡されてしまって、三年経っても何の報告もしてこなかった。その為、天穂日命の子を派遣したが、彼も父と同様になり、何の報告もしてこない。
その後も別の神を平定に向かわせたが、なかなかうまく行かず犠牲者も出してしまう。ニニギノミコトが葦原中国に天降るまでには、多くの天上の神々や地上の国神(クニツカミ)との駆け引きがあり、天降る途中でまだ危険だと引き返してしまうくだりも記されている。
天孫降臨の場面には、「一書に曰く(あるふみにいわく)」として、幾つもの話が載せられている。また、本稿は「日本書紀」をベースにさせていただいているが、「古事記」も加えるとさらに複雑になる。
また、天照大神が最初に葦原中国を統治させようと思ったのは、天照大神と素戔嗚尊(スサノオノミコト)の誓約によって生まれた長男(次男とも)であるマサカアカツカチハヤヒアマノオシホミミノミコトであったが、まさに天降ろうとした時にニニギノミコトが誕生したので、この皇孫に、八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)・八咫鏡(ヤタカガミ)・草薙剣(クサナギノツルギ)の三種の宝物(ミクサのタカラモノ)を与えて、天降らせたとされる。
そして、「一書に曰く」として、次の記事が載せられている。
『 高皇産霊尊(ニニギノミコトの母の父)は、真床覆衾(マトコノオウフスマ・新生児をくるむ衣類)を天津彦国光彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコクニテルヒコホノニニギノミコト・ニニギノミコトの別称)にお着せして、天磐戸(アマノイワト)を引き開けて、天八重雲(アマノヤエクモ)を押し分けて、天降らせ奉った。
その時、大友連の遠祖 天忍日命(トオツオヤ アマノオシヒノミコト)は、来目部(クメベ)の遠祖 天槵津大来目(アマノクシツオオクメ)を率いて、背には天磐靫(アマノイワユキ・矢を入れる武具)を負い、腕には厳めしい高鞆(タカトモ・弓の弦が当たるのを防ぐ武具)を着け、手には天梔弓・天羽羽矢(アマノハジユミ・アマノハハヤ・・ハゼノキで作った弓・大蛇をも射殺せる矢。「羽羽」は大蛇のこと。)を取り、八目鳴鏑(ヤツメノナリカブラ・多くの穴がある鏑矢)を添え持って、頭槌剣(カブツチノツルギ・柄頭が槌のようになっている剣。わが国固有の物らしい? )を帯びて、天孫の先に立った。・・・ 』
天孫降臨にあたって、大伴氏の遠祖は、来目部の遠祖を率いて、ニニギノミコトの先に立って警護に当たったのである。
天孫が降臨する場面前後については、「日本書紀」と「古事記」の間でも相違があるし、天降った場所についても諸説ある。
しかし、大伴氏の遠祖が天孫の側近くで警護に当たったことは、ほぼ共通していると思われる。つまり、大伴氏は、天照大神の御代からの武門を誇っていたのである。
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古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 2 )
大伴氏の誕生
歴史上に大伴氏が登場するのは、とてつもなく遠い時代までさかのぼる。神話の時代も我が国の歴史の流れの中にあると考えた場合のことであるが。
「日本書紀」の巻第二の冒頭部分を引用してみよう。
『 天照大神の子 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、高皇産霊命の女 栲幡千千姫を娶り、天津彦彦火瓊瓊杵尊を生みたまふ。故、皇祖 高皇産霊尊、特に憐愛を鍾めて崇養したまふ。遂に皇孫 天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、芦原中国の主とせむと欲す。・・・ 』
( アマテラスオオミカミのこ マサカアカツカチハヤヒアマノオシホミミノミコト、タカミムスヒノミコトのみむすめ タクハタチヂヒメをめとり、アマツヒコヒコホノニニギノミコトをうみたまふ。かれ、ミオヤ タカミムスヒノミコト、ことにうつくしびをあつめて あがめひだしたまふ。ついに スメミマ アマツヒコヒコホノニニギノミコトをたてて、あしはらのなかつくにの きみとせむとおもほす。・・・ )
「 天照大神の子である マサカアカツカチハヤヒアマノオシホミミノミコトは、タカミムスヒノミコトの御娘である タクハタチヂヒメを娶り、アマツヒコヒコホノニニギノミコトをお生みになった。そこで、ミオヤ タカミムスヒノミコトは、格別に生まれた子を寵愛し貴んで養育された。やがて、スメミマ アマツヒコヒコホノニニギノミコトを立てて、葦原中国の君主にしようと思われた。・・・ 」
文中の名前を読むだけでも大変だが、最初に出て来た名前に、次には「皇祖」あるいは「皇孫」という部分が加えられて出てきている。これらは、いずれも尊称のようなものと思われるが、一般的には、それも加えたものとされているようである。さらに、一人の人物にも、数多くの名前があり、なかなか分かりにくいが、例えば、アマツヒコヒコホノニニギノミコトは、単に「ニニギノミコト」と表現することも多いようである。
このあと「日本書紀」は、
[ ニニギノミコトを君主にさせるには、今の葦原中国は、「蛍火なす光る神」と「蠅声(サバヘ・ハエのようにうるさく騒ぐ)なす邪神がおり、また、草や木もみな精霊が宿っていて、物を言って不気味だ。]
ということで、先に、邪鬼(アシキモノ)を平定させるために誰かを派遣しようという事になった。
神々が相談した結果、天穂日命(アマノホヒノミコト・天照大神の玉から生まれた子の一人)を葦原中国平定に派遣したが、大己貴神(オオアナムチノカミ・スサノオノミコトの子の五世の孫)に篭絡されてしまって、三年経っても何の報告もしてこなかった。その為、天穂日命の子を派遣したが、彼も父と同様になり、何の報告もしてこない。
その後も別の神を平定に向かわせたが、なかなかうまく行かず犠牲者も出してしまう。ニニギノミコトが葦原中国に天降るまでには、多くの天上の神々や地上の国神(クニツカミ)との駆け引きがあり、天降る途中でまだ危険だと引き返してしまうくだりも記されている。
天孫降臨の場面には、「一書に曰く(あるふみにいわく)」として、幾つもの話が載せられている。また、本稿は「日本書紀」をベースにさせていただいているが、「古事記」も加えるとさらに複雑になる。
また、天照大神が最初に葦原中国を統治させようと思ったのは、天照大神と素戔嗚尊(スサノオノミコト)の誓約によって生まれた長男(次男とも)であるマサカアカツカチハヤヒアマノオシホミミノミコトであったが、まさに天降ろうとした時にニニギノミコトが誕生したので、この皇孫に、八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)・八咫鏡(ヤタカガミ)・草薙剣(クサナギノツルギ)の三種の宝物(ミクサのタカラモノ)を与えて、天降らせたとされる。
そして、「一書に曰く」として、次の記事が載せられている。
『 高皇産霊尊(ニニギノミコトの母の父)は、真床覆衾(マトコノオウフスマ・新生児をくるむ衣類)を天津彦国光彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコクニテルヒコホノニニギノミコト・ニニギノミコトの別称)にお着せして、天磐戸(アマノイワト)を引き開けて、天八重雲(アマノヤエクモ)を押し分けて、天降らせ奉った。
その時、大友連の遠祖 天忍日命(トオツオヤ アマノオシヒノミコト)は、来目部(クメベ)の遠祖 天槵津大来目(アマノクシツオオクメ)を率いて、背には天磐靫(アマノイワユキ・矢を入れる武具)を負い、腕には厳めしい高鞆(タカトモ・弓の弦が当たるのを防ぐ武具)を着け、手には天梔弓・天羽羽矢(アマノハジユミ・アマノハハヤ・・ハゼノキで作った弓・大蛇をも射殺せる矢。「羽羽」は大蛇のこと。)を取り、八目鳴鏑(ヤツメノナリカブラ・多くの穴がある鏑矢)を添え持って、頭槌剣(カブツチノツルギ・柄頭が槌のようになっている剣。わが国固有の物らしい? )を帯びて、天孫の先に立った。・・・ 』
天孫降臨にあたって、大伴氏の遠祖は、来目部の遠祖を率いて、ニニギノミコトの先に立って警護に当たったのである。
天孫が降臨する場面前後については、「日本書紀」と「古事記」の間でも相違があるし、天降った場所についても諸説ある。
しかし、大伴氏の遠祖が天孫の側近くで警護に当たったことは、ほぼ共通していると思われる。つまり、大伴氏は、天照大神の御代からの武門を誇っていたのである。
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