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雅工房 作品集

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歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 7 )

2017-12-31 08:45:35 | 歴史散策
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               古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 7 )

政権の中枢へ

第十三代允恭(インギョウ)天皇の御代に日本書紀に初めて登場した大伴室屋が次に登場するのは、第十五代雄略天皇の即位の時である。
『 天皇、壇(タカミクラ)を泊瀬(ハツセ)の朝倉(現在の奈良県桜井市辺り)に設け、即天皇位(アマツヒツギシロシメ)す。遂に宮を定めたまひ、平群臣真鳥(ヘグリノオミマトリ)を以ちて大臣(オオオミ)とし、大伴連室屋(オオトモノムラジムロヤ)・物部連目(モノノベノムラジメ)を以ちて大連(オオムラジ)としたまふ。 』
と、日本書紀に記されている。
この「大連」という職位であるが、「連」姓を有する者たちの代表といった身分であり、「大臣」は「臣」姓を有する者たちの最高位という身分であろう。
まだ律令政治が行われる以前のことで、どれほど系統だった身分制度、あるいは政治体制が整っていたかは不明な部分もあるが、「大臣」「大連」がヤマト政権の執政の中心職位であり、後の左・右大臣的な身分であったと考えられる。
大伴室屋が允恭天皇の御代で衣通郎姫(ソトオシノイラツメ)のために働いた時が、例えば二十歳だとすれば、大連に就いたのは五十代半ばという計算になる。当時の平均的な寿命がどのくらいだったのか推定のしようがないが、五十代半ばというのはかなり高齢と考えられる。

室屋が大連に就いた翌年に、日本書紀に記録がある。何とも不愉快な記事ではあるが記しておく。
『 雄略天皇二年の秋七月、百済の池津媛は、天皇のお召しに背いて、石河楯(イシカワノタテ)と密通した。天皇は大いに怒り、大伴室屋大連に詔(ミコトノリ)して、来目部(クメベ・大伴氏配下の一族)に、夫婦の手足を木に縛りつけて、桟敷の上に置いて、火で焼き殺させた。 』とある。

次に登場するのは、雄略天皇七年の記事で、『 天皇、大伴大連室屋に詔して、東漢直掬(ヤマトノアヤノアタイツカ)に命(オオ)せて、新漢陶部高貴(イマキノアヤノスエツクリベコウキ)・鞍部堅貴(クラツクリベケンキ)・画部因斯羅我(エカキベインシラガ)・錦部定安那錦(ニシコリベジョウアンナコム)・訳語卯安那(オサボウアンナ)等を以ちて、上桃原・下桃原・真神原の三所に遷(ウツ)し居(ハベ)らしむ。』とある。
この記事に至る経緯は、やはり雄略天皇の暴君ぶりを示すものであるが、概略を紹介しておく。
『 吉備上道臣田狭(キビノカミツミチノオミタサ)は、自分の妻・稚媛(ワカヒメ)を、天下に並ぶ者とてない大変な美人であると朋友たちに自慢していた。天皇(雄略)は、これを聞いて内心喜び、稚媛を召して女御にしようと思った。そこで、田狭を任那国の国司に任じた。そして、しばらくすると稚媛を召した。
田狭にはすでに兄君・弟君(エキミ・オトキミ)を設けていた。ところが、すでに任地に着いたところで、妻が天皇に召されたということを聞いた。田狭は腹を立て、援けを求めるために新羅国に入ろうとした。新羅はわが国に朝貢しておらず緊張関係にあった。
そこで天皇は、弟君と吉備海部直赤尾(キビノアマノアタイアカオ)に新羅を討つように命じた。その時、西漢(カワチノアヤ・・東漢{ヤマトノアヤ}に対する語で、河内地方に居住していた帰化人の一族)が側にいて、「自分より技術の優れた者が、韓国(カラクニ)には大勢います。召してお使いなさいませ」と申し上げた。そこで天皇は、申し出た西漢歓因知利(カワチノアヤノカンインチリ)に弟君らに同道させて百済に向かわせて巧みな者を献上するよう命じた。
命令を受けて弟君は軍勢を率いて百済に入った。そこで情勢を集めるうちに新羅に向かうことの困難を知って、田狭を討つことなく引き返した。百済から献上された今来(イマキ・新来の渡来人)の技術者を大島(朝鮮半島沿岸の小島らしい)に集めて、風待ちを理由に数か月滞在した。
田狭は、わが子・弟君が自分を討つことなく引き返すことを喜んで、天皇が自分の妻(弟君の母)を奪い取ったこと、自分は日本に帰る意思がないことを伝え、弟君の身も危険であることを密かに伝えた。
弟君の妻の樟媛(クスヒメ)は国家への忠誠心が深く、夫の反逆心を憎み、密かに夫を殺し、室内に隠し埋めて、海部直赤尾と共に今来の技術者を率いて大島に滞在を続けた。天皇は、弟君がいなくなったことを聞いて、使者を派遣して帰国させた。
こういう経過を経て、大伴大連室屋が処置にあたるわけであるが、このことから、大伴氏が帰化人に強い影響力を持っていること、また、部民に対する支配を職務としていることが垣間見られる。

雄略天皇八年三月、雄略天皇は新羅征討を決意する。上記にもあるように、朝鮮半島との緊張関係は続いていた。
天皇は自ら出征しようと思ったが、神が「行ってはならない」と戒めたので、出征することが出来なかった。そこで、紀小弓宿禰(キノオユミノスクネ)・蘇我韓子宿禰(ソガノカラコノスクネ)・大伴談連(オオトモノカタリノムラジ)・小鹿火宿禰(オカヒノスクネ)等を大将に任命して新羅討伐を命じた。
この時、紀小弓宿禰は大伴室屋大連に、「私は臆病者とはいえ、謹んで勅(ミコトノリ)をうけ賜りました。但し、今は、私の妻が亡くなったばかりで私の世話をする者がおりません。どうぞ、この事を天皇に申し上げてほしい」と申し出た。室屋がその事を天皇に伝えると、天皇はたいへん嘆かれて、吉備上道采女大海(キビノカミツミチノウネメオオアマ)を紀小弓宿禰に与えて身辺の世話をさせ、その窮状を援けた。
妻を亡くして不便をしている事を天皇に申し上げる武将といい、それならばと、側に仕えている采女を与える天皇も天皇だと思われるが、これが当時の風習と思われる。それはともかく、この部分でも、大伴室屋は大連として政権の中枢にあり、しかも天皇にごく近い地位であることがよく分かる記事といえる。

四人の将軍たちは新羅に入り、村や町を打ち破って進軍した・・・、と日本書紀の記事は続いているが、実は相当の苦戦であったらしい。主将格の紀小弓宿禰は激戦を重ね戦病死し、蘇我韓子宿禰は内紛から同僚の大磐宿禰(オオイワノスクネ)に討たれている。室屋の子である大伴談連も戦死している。
政権の中枢に君臨していたと考えられる大伴氏にとっても、この出征は厳しいものであった。
同時に、紀小弓宿禰の喪に従って帰国した吉備上道采女大海は、小弓を葬る場所について室屋に相談しており、それに対して韓奴(カラヤッコ・よく分からないが、よりは身分が高いらしい。)六人を献上している。これも、単に六人ではなく、部民を形成していったと思われる。

雄略天皇二十三年の八月、天皇が崩御した。日本書紀から推定すれば、室屋は八十歳は過ぎていると推定される。
死に臨んで天皇は、大伴室屋大連と東漢掬直(ヤマトノアヤノツカノアタイ)に遺詔し、後事を託し、星川皇子の謀反を懸念していることを告げる。
雄略天皇が崩御すると天皇が懸念した通り、星川皇子(清寧天皇と異母兄弟。母は吉備稚媛)が謀反を起こし、室屋は東漢掬直に命じて星川皇子を討った。この時、吉備上道臣(キビノカミノミトノオミ)等が軍船四十艘で星川皇子を救おうとしたが、すでに討たれた後でそのまま引き返した。
冬十月、大伴室屋大連は、臣・連等を率いて、璽(ミシルシ・皇位を示す印)を皇太子(清寧天皇)に奉った。

皇太子は清寧天皇として即位するが、それとともに、大伴室屋大連を大連として(あらためて大連の職位に就かせたという意味らしい。)平群真鳥大臣を大臣とした。
清寧天皇二年の二月には、室屋を諸国に遣わして、白髪部舎人(シラカベノトネリ)・白髪部膳夫(シラカベノカシワデ)・白髪部靱負(シラカベノユケイ)を置いた。(白髪天皇{清寧天皇}に子供がいなかったため、自分の名前を残すために舎人や御蔵を各地に置かせたもの。)

清寧天皇の記事には、二年の十一月に後に天皇となる市辺押磐皇子(イチノヘノオシワノミコ・第十七代履中天皇の長子)の忘れ形見の二人を迎えることが記されているが、大伴室屋は登場していない。おそらくこの前後で没したと推定される。
日本書紀に基づく推定であるが、室屋は相当長命であり、長く権力の中枢にあった人物と考えられる。

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