雅工房 作品集

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歴史散策 古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 3 )

2017-12-31 08:48:57 | 歴史散策
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            古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 3 ) 

日臣命(ヒノオミノミコト・後に道臣命) 

「日向三代(ヒムカサンダイ/ヒュウガサンダイ)」と表現されることのある時代がある。
ヤマト王朝につながる神代の時代を指していると考えられるが、一般に呼ばれる名前に従えば、「ニニギノミコト」「ホヲリノミコト」「ウカヤフキアエズノミコト」の三代の御代のことである。

「ニニギノミコト」の正確な名前は、前回で登場した天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト・他にも呼び名がある)である。
ニニギノミコトは、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ・木花佐区夜比売とも)という美女に出会う。早速その父に結婚を申し出たところ、父(大山祇神オオヤマツミノカミ)は、姉の磐長媛(イワナガヒメ)の二人の姫を奉ることにした。
ところが、妹は大変な美女であるが姉はとてつもなく醜かった。ニニギノミコトは、姉は避けて、妹だけを召して契られた。そして、一夜にして懐妊した。
それを知った姉は大いに恥じて、呪いをかけて、「もし私を避けずに召していれば、生まれてくる子の命は盤石のように長らえたものを。それを、そうされず妹だけをお召しになった。それゆえ、生まれてくる子は、きっと、木の花が散るように短い命で終わることでしょう」と言った。
「一説には、世の人の命が短いのは、これが由縁だと伝えている」と、日本書紀は記している。

ところが、「私は天孫(ニニギノミコトを指す)の御子を身籠りました。勝手にお生みするわけには参りません」とコノハナサクヤヒメが伝えると、ニニギノミコトは、「自分は天孫の子だとはいえ、一夜で懐妊させることなど出来るだろうか。私の子ではないのではないか」と言った。
コノハナサクヤヒメは大いに恥じ恨んで、すぐに戸口の無い産室を作り、誓約した。「私が身籠った子がもし他の神の子であるならば必ず不幸な事が起こるでしょう。まことに天孫の御子であるならば、必ず無事に生まれるでしょう」と言って、ただちに産室に入って、火を付けて産室を焼いた。
そして、燃え盛る産室の中で三人の男の子を生む。炎が始めに起こった時生まれた子は火酢芹命(ホノスセリノミコト)、炎が盛んになった時に生まれた子は火明命(ホノアカリノミコト)、その次に生んだ子は彦火火出見尊(ヒコホホデミノノミコト)である。
但し、日本書紀には、いくつかの伝承が載せられていて、生まれてきた子供の順や名前には差異がある。また、ある伝承では、コノハナサクヤヒメが子供を生み終えた後、「私の生んだ子も、私自身も少しも損なうところが無い。天孫よ、ご覧になったでしょう」と言うのに対して、ニニギノミコトは、「私はもとより我が子と分かっていた。しかし、疑う者がいるので、この御子たちが皆自分の子であること、また天神は一夜にして身籠らせる霊力があることを示すためだったのだ」といった説明をしている。何だか現代でも聞かれそうないいわけである。

「ホオリノミコト」とは、古事記に記載されている名前で「火遠理命」と書かれているが、前記のヒコホホデミノミコトと同一人物である。本稿は日本書紀をベースにしているが、この人物については「ホオリノミコト」で記すことにする。
さて、ホオリノミコトという人物は、古事記や日本書紀に興味がある人以外にはなじみが薄いと思われるが、昔話などの「海彦・山彦」の山彦のモデルとされる人物である。一般に知られている物語のような経緯を辿って、失くした兄の釣り針を求めて竜宮城を彷彿とさせるような所に行き着く。そして、海神(ワタツミ)の娘 豊玉姫(トヨタマヒメ)を妻として、浦島太郎のような三年を過ごす。
やがて故郷のことを思い出して一人帰るが、身籠ったトヨタマヒメは、夫の故郷で子供を生みたいので産屋を作ってほしいと伝えてきた。ホオリノミコトは、早速海辺に鵜の羽で屋根を葺いて産屋を作ったが、まだ完成し終わらないうちに、トヨタマヒメは自ら大亀に乗り、妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を連れて、海を照らしてやって来た。そして、完成を待ちきれず産屋に入ったが、「私はすぐにも子を生みます。どうぞ、決してご覧にならないでください」と念を押した。
しかし、その言葉を不思議に思ったホオリノミコトが密かに覗き見ると、トヨタマヒメは八尋の大鰐に化身していた。
覗き見されたことを知ったトヨタマヒメ深く恥じ、そして恨んだ。御子が生まれた後にホオリノミコトが「名前は如何にするか」と尋ねると、「『彦波瀲武鵜鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコト)』名付けてください」と申し上げると、ただちに海を渡って帰って行った。

こうして生まれた子が、「日向三代」の三代目の人物「ウカヤフキアエズノミコト」である。
トヨタマヒメが去った後、ホオリノミコトは婦人たちを召して、乳母・湯母(チオモ・ユオモ・・父や湯を飲ませる役)などの助けを受けて子供を養育した。「これが奪を雇って子を育てる由縁である」と日本書紀は記している。
さて、実家に帰ったトヨタマヒメは、我が子が端麗な子に育っていることを聞くにつけ、愛おしさが増し、地上に戻って養育したいと思うが、そうするわけにもいかず、妹のタマヨリヒメを行かせて養育させることにした。
やがて、ウカヤフキアエズノミコトは、母の妹であるタマヨリヒメを妻として、四人の皇子を儲けた。四人の誕生の順については、諸説が記されているが、その中の一人が、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)、後の神武天皇である。

カムヤマトイワレヒコノミコトは、十五歳にして太子(ヒツギノミコ)となり、日向国で暮らしていたが、四十五歳になった時、諸兄や子らに語ったと記されている。すなわち、「我が天祖(アマツオヤ)ニニギノミコトが天降ってから、一百七十九万二千四百七十余歳が過ぎた。しかし、いまだに天の恵みがいきわたっていない。・・・」
ということで、古老の言葉を受けて東征が始まるのである。日本書紀に従えば、紀元前667年のことになる。
四年ほどの厳しい旅程の後、ようやく大和に入ろうとするがここでも難渋する。その時、天照大神のお告げで頭八咫烏(ヤタガラス)の先導を得て道なき道を進んだ。
この時に、大伴氏の遠祖(トオツオヤ)日臣命(ヒノオミノミコト)は、大来米を率いて、大きな兵車の将軍として、山を踏み道を開いて、烏の行方を求めて、これを仰ぎ見ながら後を追って行った。そして、遂に莵田の下県(ウダのシモアガタ・奈良県宇陀郡)に至ったのである。
カムヤマトイワレヒコノミコトは、日臣命の功績を誉めて、「汝、忠にしてまた勇あり。また、よく導きの功あり。これを以って、汝の名を改め道臣(ミチノオミ)と為(セ)む」と仰せられた。

この道臣命は、天忍日命(アメノオシヒノミコト)の曽孫とされている。天忍日命はニニギノミコトに従っているので、カムヤマトイワレヒコノミコトの大和入りまで、そば近くで仕えていたのである。
この期間がどれほど長いかを考えてみたが、四代で百年とか百五十年とか計算してみたのだが、カムヤマトイワレヒコノミコトの言葉が正しいとすれば、一百七十九万年余という事になってしまうので、王家にしろ、大伴の祖先にしろ、それぞれ何歳まで生きたのかということになってしまう。
やはり、「日向三代」の時代は、神代の範疇としか考えようがないのだが、大伴氏がいかな古くから王家に有力武人として仕えていた証左にはなると考えるのである。

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