雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

歴史散策  古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 4 )

2017-12-31 08:48:17 | 歴史散策
          歴史散策
            古代大伴氏の栄光と悲哀 ( 4 )

命から大伴へ

古代大伴氏の始祖については、いくつかの考え方がある。
研究者によって異なるという事になれば、「諸説ある」と表現すべきかと思われるが、大伴氏の始祖となれば、推察する資料は日本書紀や古事記などごく限られた文献の記事に絞られる。もちろん、様々な家系図などが伝えられているようであるが、それらが、日本書紀や古事記が描いている時代はもちろんのこと、それらが完成した時代より以前から伝えられているものとは考えにくい。つまり、限られた資料をどう推定するか、ということだと考えるのである。

さて、それはともかく、大伴氏の始祖については、ほとんどの文献は、日臣命(ヒノオミノミコト・後に道臣の命)か武日命(タケヒノミコト)、あるいはその両者としている。
本稿は、日本書紀に最初に大伴氏の遠祖と記されている天忍日命(アメノオシヒノミコト)を大伴氏の祖先が登場した時として書き進めているが、何分、天孫降臨に先導したとなれば、歴史としては如何にも遠すぎる気がする。もちろん、天忍日命を遠祖とするする文献も数多いが、天照大神を祖先とする話と同類と考えていただきたい。

そう考えた場合、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)に付き従って東征に加わった日臣命(道臣命)となれば、神武天皇と同時代の人物となるので、比較的現実感がある。但し、日臣命は天忍日命の曽孫とされており、また神武天皇も降臨してきたニニギノミコトの曽孫の子であるから、世代的には概ね合致するようには考えられる。ただ、日本書紀には、神武天皇が東征に至る時に、「天孫降臨から一百七十九万二千四百七十余歳」経ったと述懐しているので、その間の人々(あるいは神々)の年齢をどう考えればよいのか、という問題がある。
正しい答えは簡単であるように思われる。「余り固いことは言わない」ということのようだ。

今回の主人公である武日命(タケヒノミコト・大伴武日連)は、日臣命の七世孫とされている。日本書紀に登場するのは、第十一代垂仁(スイニン)天皇の御代であるから、世代的には、まあまあ容認できる範囲である。
垂仁天皇の父は第十代崇神(スジン)天皇であるが、実は、この天皇は歴史上の一つの分疑点にある天皇と考えられることがある。その一つは、日本書紀の記事の量が増えており、神武天皇は別格とすれば、第二代から第九代までの天皇の記事と充実度が格段に差があるのである。そして、もう一つは、記事の中に、「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」という表記があることである。使用されている意味は、治世に優れていることを称えてのことと考えられるが、それにしても「はつくにしらすすめらみこと、つまり、はじめて国を統治した天皇」とも読み取れる言葉は気になる。
これらの理由だけではないが、この天皇が実在した最初の天皇だとする説も根強く存在している。

従って、その子の垂仁天皇も実在性が高い、言い直せば、神から人間にかなり近くなった天皇といえるのではないだろうか。そういう前提に立って日本書紀を読むと、
『 (垂仁天皇)二十五年の春二月の丁巳の朔にして甲子(八日)に、阿倍臣が遠祖(トオツオヤ)武渟川別(タケヌナカワワケ)・和珥臣(ワニノオミ)が遠祖彦国葺(ヒコクニブク)・中臣連が遠祖大鹿島(オオカシマ)・物部連が遠祖十千根(トオチネ)・大伴連が遠祖武日(タケヒ)、五大夫(イツタリノマエツキミタチ)に詔(ミコトノリ)して曰く・・・ 』
という記事を見つけることができる。
この記事により、この五人が垂仁王朝の重臣であったとが分かるが、それはともかく、この記事の時点では、「武日」は、大伴氏の遠祖であって、大伴氏そのものではないと思われる記述がされているのである。つまり、この時は「武日命」なのである。
因みに、この「命(ミコト)」の意味であるが、一般的には「神または貴人の尊称」と説明されているが、日本書紀などに登場するような人物には、ほとんど付けられているようである。ただ、「尊(ミコト)」の方は、天皇あるいはそれに繋がる人物(神)が殆どである。

そして、この記事からかなり下った、景行天皇四十年の記事に、あの日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征に至る経緯が描かれてる。その中に、『 天皇、則ち吉備武彦と大伴武日連とに命(ミコトオオ)せて、・・・ 』と記されている。
つまり、この時点では、「武日」は、大伴の遠祖という表現ではなく、大伴氏として表記しているのである。しかし、その東征で恩賞を受けたという場面では、「大伴連が遠祖武日」と記されているのである。これらを推定すれば、この頃には、「武日は、命(ミコト)と大伴」が混在していたのかもしれない。あるいは、後世の人が記録する時点で、その辺りのことが漠然としていたのかもしれない。

この日本武尊(古事記では倭建命)は、第十二代景行天皇の皇子であるが、この時代最大のヒーローといえる人物である。古代史を学ぶ者にとって、筆者のような興味本位で学ぶ者にとっても、その悲劇的な伝説の数々は限りなく魅力を感じる人物である。ただ、この人物について述べるとなれば限りなく広がってしまうので、本稿では割愛することになる。
そして、武日命という人物は、この日本武尊と時代を共にする時期があり、まさに神代と実歴史が融合しあうような時代に、ロマンあふれる生涯を送った人物であったと推定されるのである。

さて、この武日命が活躍したのはいつ頃のことであったのか。
正確であるか否かは問わないことにして、日本書紀をベースに考えてみる。
まず、武日命が五大夫の一人に就いたとされる垂仁天皇の二十五年というのは、日本書紀をベースにすれば、西暦紀元前5年に当たる。そして、日本武尊東征の景行天皇四十年は、西暦110年に当たる。
この二つの記事から大雑把に表現すれば、西暦紀元前後、つまりキリスト誕生の前後に活躍した人物だということができる。ただ、この二つの記事の間には、115年という時間の差がある。武日命が五大夫に就いたのが何歳か分からないが、例えば二十歳と推定すれば、武日命は百三十五歳以上まで生きた人物ということになる。
因みに、垂仁天皇は在位99年、享年百四十歳であり、景行天皇は在位60年、享年百六歳とされている。
この二人の天皇と比べるならば、武日命が百三、四十歳まで活躍していたとしても異例ではないような気がする。

とはいえ、現代人の常識をベースにすれば、これらの人物の活躍期間には無理があるように思われる。そう考えるならば、三つの推定が出来るような気がする。
一つは、この時代の「日本書紀」や「古事記」の記録の大半は創作物だとする考え方である。
もう一つは、記事の多くは伝承に基づいているが、数人の業績が一人に集積されていたり、逆に時間が引き伸ばされているといった考え方である。
そしてもう一つは、若干の誤差や誇張や誤伝があるとしても、大筋としてそのまま受け入れようという考え方である。
本稿では、さらにもっと単純に、今から二千年ばかり前の頃、神代と人間の時代が渾沌した中で、命(ミコト)と呼ばれ大伴と呼ばれた武日という武人が、日本武尊のようなロマンあふれる生涯を送った、と考えたいと思うのである。
「歴史散策」などという表題を掲げながら乱暴すぎるとのご非難は覚悟してでのことであるが。

     ☆   ☆   ☆



     



 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 歴史散策  古代大伴氏の栄... | トップ | 歴史散策 古代大伴氏の栄光... »

コメントを投稿

歴史散策」カテゴリの最新記事