今年の一月は、とても長いような気がしています。
毎年この季節には、「一月行って、二月は逃げて、三月去って・・・」とよく言っていた母のことを思い出します。
お正月に始まる一月は、何歳になってもそれなりの気持ちの高ぶりがあり、テレビ大好き人間には楽しみも多く、慌ただしさを感じながらも中身の濃い一か月になる事が多いように思っています。ただ、その母の命日に当たる月であることもあって、やはり「悲喜こもごも」といった方が正しいのかも知れません。
今年が、何とはなく長く感じている一つは、きっと「トランプ政権」が誕生したことにあるような気がしています。
遠い国の大統領がどなたになろうと、どのような政策をなさろうと、私などには何の関係もないはずですが、現代の世界はそれほど単純ではなく、「103万円の壁」が少々動くことよりも、トランプ大統領の雄叫びの方が影響を受けそうな気がしてしまうのは、どういう事でしょうか。
もっと卑近な例をみても、フジテレビに関わる事件にしても、真相は分らないまでも、伝えられる情報に真偽が混在しているとしても、当会社の拙劣な会見に憤りを感じたり、「ああ、やっぱりナァ」と勝手な想像をめぐらしてみたり、人の心の中が複雑怪奇なのは私に限ったことではないはずです。
一月の私の心情を「悲喜こもごも」と表現しましたが、どうもこれは、「悲喜」に限ったことではないようです。
因みに、この「悲喜こもごも」という言葉は、辞書によりますと「悲しみと喜びが代わる代わるに起ること」となっています。この説明によれば、かなり広い場面で使えそうな気がしますが、本来この言葉は、「一人の心の中で、悲しみと喜びが代わる代わる起る、あるいは混在している状態を表す」もののようです。つまり、「悲しいAさんと、嬉しいBさんが一緒にいる」ような状態を指しているわけではないのです。
したがって、一人の心の中は、「悲喜」がこもごも(交々)しているだけではなく、時によっては、「慈しみと憎しみ」が同居していたり、「希望と落胆がこもごも」といった現実を経験することも珍しい事ではありません。
今世紀が、国家を統治する手法が揺らいでいる時代と、後世になって言われるのではないかという懸念がしています。
西欧を中心に、先進国の必須条件の一つに「民主主義に基づく政治」があったと思われます。そして、民主主義政治の根幹をなすのは「幅広い国民による選挙制度」だと思うのですが、その選挙制度そのもの、あるいは選挙による国民の分断などが強まっていることは否定できず、そうした手間暇をかけるよりも、優秀な独裁者により統治する方が合理的、と考える国家が増える傾向が散見されているような気がしてならないのです。
一人一人の心の中には、様々な感情が「こもごも」混在し、折々に現れ、私たちは時には喜び、時には涙しながらも、人の世の情けを噛みしめることができるような気がするのです。強い意志は必要ですが、他の何物も受け入れない一徹さは、決して豊かな社会を築くのに適していないはずです。
国家も同様で、いくら面倒でも、様々な価値観の人々が生きていける社会を構築すべきだと思うのですが、さて、その手法が揺らいでいることに恐さを感じるのです。
( 2025.01.28 )
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます