『 淑景舎の女御 ・ 望月の宴 ( 42 ) 』
さて、今を時めく摂政道隆殿でございますが、そのご子息、大千代君と小千代君とのご出世競争はなかなかに微妙な状況が続いておりました。
本来ならば、長子である大千代君(道頼)が摂政殿の後継者として遇せられるべきと思われるのでございますが、摂政殿は三男の小千代君(伊周(コレチカ))を大切になさっておいででした。そのわけは様々噂もあるようですが、一番の理由は、小千代君のご生母は后候補となる四人の姫君を儲けられていて、定子さまは今上天皇(一条天皇)に入内なさっているということにあるとも言われております。
さらに、そうした事情を承知してでのことでございましょうか、大千代君は祖父に当たられる兼家殿の養子になられていますが、すでに他界なさっていて、有力な後継者を無くしているのでございます。かねがね摂政殿は、「道頼をわが子とは思っていない」と公言なさっているともされますので、何とも哀れなことでございます。
正暦四年のこの時(史実としては三年らしい。)、大千代君は中納言であられましたが、三歳下の小千代君は宰相中将であられることを摂政殿はご不満で、兄を飛び越える形で、大納言に就任させられました。
何とも強引な任命でございますが、大千代君にはまことに情けない思いでございましょう。
こうしているうちに、閑院の大将(朝光。兼通の子で、道隆らと従兄弟にあたる。)が重く患われて、大将の職を辞されたので、粟田殿(道兼。道隆の弟で道長の兄。)が代わって就かれた。小一条の右大将(済時。兼家らの従兄弟。)が左大将になり、粟田殿は右大将にお就きになった。
女院(詮子)が皇太后であられた時期に、正の亮(ショウのスケ・・意味分からない。)は、みな三位になり、めでたいことである。
粟田殿の御娘で、藤三位(藤典侍)が母である御君(尊子・後に一条帝の女御となる。)に裳着(モギ・成人した女性に初めて裳をつける儀式。女性の成人式で、十二歳から十四歳くらいに行うのがふつう。尊子はこの時十歳と考えられ、少し早いと思われる。)の儀式をあげて差し上げようと騒ぎ立てているので、粟田殿はそのようなつもりではなかったが、然るべき手配をお命じになった。
かくて、摂政殿(道隆)をば、帝が成人なさったので、関白殿と申し上げる。
中姫君(原子)は十四、五歳ばかりにおなりになった。東宮(居貞親王)に参内なさる有様は、華々しくご立派であった。
宣耀殿(センヨウデン・女御娍子。父済時の死後、後見が弱くなっていたが、東宮が三条天皇として即位したときには皇后となる。ただ、道長らからの圧迫が強かった。)は退出なさった。中姫君は淑景舎(シゲイシャ・後宮五舎の一つ。桐壺とも。)にお住まいになる。
何事もただこのように進められ、まことにめでたい限りである。
淑景舎の女御(原子。入内後すくに女御になったらしい。)のご気性も華やかで今風なので、はた目には恥ずかしいほどの御寵愛ぶりである。長い間、宣耀殿女御をご覧になられてきた東宮には、淑景舎女御は何につけ今風で新鮮なお方と思われたのであろう。
淑景舎の女御がそのように振る舞おうとなさっているわけではないが、御召物の重なっている裾の様子や、袖口など、たいそうすばらしいものと東宮はご覧になっている。
万事につけ、女房の服装なども、たくさんの人々が参り集まっているのだから、その善し悪しをはたの者が申し上げるべきではあるまい。
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