『 中宮定子 尼姿に ・ 望月の宴 ( 61 ) 』
さても、検非違使どもに囲まれての夜も、やがて明けたので、今日こそは最後のお別れだと、どなたもがお思いになるにつけても、今は太宰権師(ダザイノゴンノソチ)となられた伊周殿は立ち上がろうとなさらず、お声も惜しまずお泣きになる。
「いかに、いかに、すでに刻限ですぞ」と検非違使どもが大声で督促するので、中宮や母北の方(貴子)は伊周殿のお袖を捉えて、決して放そうとなさらない。
このような有様を奏上させると、「几帳でもって、宮の御前(中宮定子)を、引き離し奉れ」との宣旨が度々あるも、検非違使どもとて人の子なれば、中宮がいらっしゃる御邸に下賤の者が入り込んで、塗籠を壊し大騒ぎするだけでも畏れ多いことなのに、さらにどうして宮の御前の御手を引き離すことなど出来ようかと、まったく恐ろしいことだと思案の上、「この身の役目怠慢とお叱りを受け、免職ということにもなればまことに困ることになります。どうぞ、お早くお出まし下さい」と催促申し上げれば、今や抗する術もなくお出になられると、松君(伊周の男子、道雅の幼名。)が激しくお慕い申すので、うまくなだめて他所にお連れし、こういうところをお見せしないようになさった。
そして、中納言(隆家)は、柑子(コウジ・みかん)や橘の実、かきほをゐる(意味不詳)御器一つばかりを御餌袋(食料を携帯するときに用いる袋。)に入れて、筵張(ムシロバリ・粗末な造り)の車にお乗りになった。
師殿は、中宮の御前で車に乗るのは畏れ多いとお思いであったが、中宮や母北の方も続いてお立ち上がりになるので、近くまで御車を寄せてお乗りになったが、母北の方はそのまま師殿の御腰に抱きついて続いてご乗車なさるので、「母北の方、師の袖をしっかり捉えて、同乗しようとしています」と奏上させると、「まことにけしからぬ事である。引き離すように」と宣旨があったが、離れられる様子も見えない。
せめて、山崎(山城国と摂津国の国境にあたる地)まで何としても行く、と強引にお乗りになるので、どうすることも出来ず、仕方なくそのまま御車を引き出した。
長徳二年( 996 )四月二十四日のことであった。
師殿は筑紫の方角に赴くので、未申(ヒツジサル・南西)の方に向かわれている。
中納言は出雲の方角なので、丹波に向かう道からということで、戌亥(イヌイ・北西)の方に向かわれるが、それぞれの御車を門外に引き出すと共に、宮の御前は御鋏(ハサミ)を取って、自ら尼姿におなりになった。
帝には、「あの方々は配所に出立しました。宮の御前は尼になられました」と奏上すると、帝は、「哀れなことよ。宮はふつうの御身ではないものを。このように心を悩ませることになった」と思い続けられ、涙をおこぼしになられるのを隠していらっしゃる。昔の長恨歌(チョウゴンカ・玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を歌った詩。)の物語もこうした事を歌ったものかと、たいそう悲しく思っていらっしゃる。
伊周・隆家のお二人が配所に向かわれるのを世間の人々が見物するするさまは、少々の物見などを遙かに超えていた。見る人は涙を流し、しみじみとおいたわしくも悲しいことだ、などといった言葉ではとても及ばない情景であった。
中納言殿は、京の外れまで行くと、丹波との国境で御馬にお乗りになった。
御車は京へお返しになる。長い間仕えていた牛飼い童に、「この牛は、我が形見とせよ」と言って下げ渡されたので、童は地に伏して転げるようになって泣くさまは、無理ならぬこととは言え
悲しいことである。
御車は都に帰り、わが身は知らぬ山路に入って行くことは、並大抵な事ではない。
大江山という所において、中納言は宮の御前にお手紙をお書きになった。
「この地までは無事にやって来ることが出来ました。私は頼りにならない身ではありますが、今一度参上してお目にかからせていただくことなく終ってしまいそうなことが、たいそう苦しゅうございます。御有様が懐かしくございます」などと、切々と書き綴られて、
「 『 憂きことを 大江の山と 知りながら いとど深くも 入るわが身かな 』
と思わずにいられないのです」などとお書きになっている。
宮の御前は、深い悲しみに沈み、あれこれと思い悩まれ、正気さえ失せておいでである。御懐妊中でいらっしゃる上に、こうして尼にまでおなりになられたとは、と帝も女院(一条天皇生母詮子)も、返す返すも悲しいことと思し召しであられる。
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