それにしても、すばらしい試合でした。
サッカーW杯カタール大会での、先日のスペイン戦です。
試合開始当初は、果たしてまともに戦えるのかと思われるほどの圧倒的な差でボールを持たれ、まだ寝ぼけ眼が覚めないうちにゴールされてしまいました。その後は、わが国にもチャンスもありましたが、ほぼ一方的に圧倒される試合内容で、よくも追加点を防ぐことが出来たものだと感じました。結果としては、前半を1点で抑えたことが勝利に結びついた一因だったのかもしれません。
ところが、後半に入ると、選手交代もあって、わが日本チームは怒濤のような攻めを見せ、後半わずか3分に堂安選手がドイツ戦に続く同点ゴールを放ち、その3分後には三笘選手の見事なアシストから田中選手の勝ち越しゴールが生れました。
あっという間の逆転でしたが、それから終了するまでの時間の、何と長いことか、時間の持つ不思議さを嫌と言うほど味わうことが出来ました。
それにしても、決勝ゴールを演出した三苫選手の執念のセンターリングは、まさに「紙一重」の差が明暗を分けたことになりました。
「紙一重」を辞書で調べますと、「紙一枚の厚さほどのわずかなへだたり」とあります。
この言葉は、私自身も使ったことがありますし、目にすることも珍しい事ではありません。しかし、そのいずれの場合も、割合気軽に使っているようにも思うのですが、今回ばかりは、「紙一重」の差が持つ意味、冷酷なまでの事実の姿、といった物を見せつけられたような気がします。
似たような言葉に「危機一髪」というのがあります。こちらは、「髪の毛一本ほどのわずかな差のところまで危険が迫ること。あぶないせとぎわ。」という意味ですが、こちらは髪の毛で微少であることを表現しようとしたのでしょう。
「紙一重」が表現する世界には、今回のような重大な是非を隔てる場合もありますが、単に「わずかな差」を表現するために用いられることもあります。その反対に、「ほとんど同じ」の意味として使われることもあります。
また、わずかな差を表現する手段として、「紙」の他にも、「髪の毛」や「塵」や「芥子粒」なども使われます。いずれも、わずかな差を表現するのに、さまざまな物を用いているのは、単に格好をつけるためとか、ドラマ性を演出するだけではなく、何かもっと大きな秘密が秘められているような気がしてならないのですが、どうもよく分かりません。
私たちの日常を考えてみますと、今回のサッカーの試合のような「紙一重」に遭遇する事など、まず無いように思われます。しかし、「紙一重」との出会いが無縁かといえば、決してそうではないようです。
私たちの日々は、私たちが歩いている道や時間や判断などとは、「紙一重」の違う道が広がっているのかもしれません。もしそうした道があるとしても、その多くは「紙一重程度の差」なのでしょうが、時には、そのわずかな差によって大過を免れたり、時には、絶好のチャンスを見逃している可能性もあるかもしれません。
まあ、例えそうだとしても、わずかなことに神経を尖らせていては、心豊かな生活など望めないように思うのですが、「紙一重」の差を軽視するのも正しくないことを、スペイン戦の一瞬は教えてくれているように思うのです。
( 2022.12.04 )
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