毎年のことながら、十二月の声を聞くと、月日の流れる早さを思い知らされます。
一年は、おまけの年もありますが、ふつうは三百六十五日、一年は十二ヶ月と決まっていますが、『時』の流れる早さは微妙に違っていて、十二月は他の月とは違うスピードで流れるような気がしてなりません。
一年を十二ヶ月に区切った先人の知恵は、月の満ち欠けから生み出されたものでしょうが、一年を生きる上で、実に大きな働きをしているように感じます。もし、一年に「月」という区分けがなくて、三百六十五日を通しで過ごすとなりますと、一年は、何とも変化に乏しいものになったような気がします。
「今日は、令和六年の三百三十六日か・・」などと言い出しますと、少々悪ふざけが過ぎるかもしれませんが。
お陰様で私たちが頂戴している十二ヶ月には、それぞれ顔を持っているように思います。
一月には一月の顔が、二月には二月の顔が、そして、三月以降も同様で、季節を反映したり、行事に彩られたり、時には、それぞれの私的な事情なども影響を与えます。そうした中で、十二月は、一年の終りの月ということもあって、他の月とは少し違う顔を持っているような気もします。
十二月のことを師走と呼ぶことがありますが、こうした異名は各月にあります。十二月の場合も、少し調べるだけでも十個を遙かに超えます。幾つか挙げてみますと、「師走(シワス)」「極月(ゴクツキ)」「暮来月(クレコヅキ)」「春待月(ハルマチヅキ)」「限月(カギリツキ)」「弟月(オトトツキ)」「親子月(オヤコツキ)」など、まだまだあります。読み方も数種類あるようですが、意味の分りにくいものもあります。
例えば「師走」ですが、現在の私たちは、「普段ゆったりとしている師(僧侶または先生)でも、十二月になると忙しく走り回るから」といった意味で理解しているのがほとんどですが、実は、平安時代の頃には、すでにこの言葉の語源は不明だとされていたようなのです。
「弟月」も、いくつかの説明がされているようですが、「一年で一番末の月だから」というのには納得出来ます。
「親子月」も同様ですが、「旧年十二月を親、新年一月を子と見たてて」と言われるとよく分りますが、「十二月は星が多く見える時で、月を親、星たちを子と見たてて」と言うのもあり、私はこの説明が好きです。
少々くどくなりましたが、複数の名前や性格を持っているのは、何も「月」に限ったことでなく、物や人や自然現象などにも多く見られます。ダイナマイトなどもそうですし、私たちの命の古里ともいうべき海もそうでしょう。
中でも人間様は、顔も心も腹も、時と場合によって、二つも三つも持っているようです。名探偵などは変装上手ですし、かの江戸川乱歩氏の名作には怪人二十面相が登場しますし、寄席芸に至っては、百面相さえ演じられます。
政治家などは、幾つの顔を持ち、幾つの腹を持っているのか知りませんが、心根などは厚いベールで包み込んで、幾つもの顔とそれと見せない腹芸を駆使できないことには一丁前の政治家とは言えないのかもしれません。
私たち自身も、時には、顔も心も腹も変化しているようです。
あまり激しく変化する人とは、お近づきになりたくないような気もしますが、まったく変化しない「一本気」というのも、付き合いにくいものです。
観音様は、衆生を救うためには、姿を変えて現れるといわれていますから、顔や姿を変えることは、必ずしも良くないことではないのですが、近しい人との間では、あまり揺れ動くことのない付き合いをしたいものです。
ただ、相手には、顔も心も揺らぎはほどほどで、腹芸といえば見え見えの愛嬌程度というのを望むのですが、さて、自分自身の方はといえば、「こんな仕打ちを受けて、にっこり笑えというのか」という気持ちを抑えるだけの表情も腹芸も、もちろん心根も持ち合わせていないのですよ、ねぇ・・・。
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