『 伊周の帰京 ・ 望月の宴 ( 74 ) 』
あの筑紫においては、赤瘡(はしか)がこの地でも流行していたので、帥殿(伊周)は帰京をお急ぎであったが、大弐(藤原有国。伊周の父道隆に冷遇された経緯がある。)が「この時期をやり過ごしてから上京なさい。道中は大変恐ろしい状況です。お送りに参上する下人どもも大変難儀するでしょう」などと申したので、それも道理だと思われて、あせる気持ちを抑えて待機なさって、世間で病が少し治まってから出立なさった。
この間に、二位(高階成忠。伊周や定子らの母方の祖父。)がこの病で亡くなられたのである。たいそう悲しいことばかりである。
こうして帥殿が上京なさることが出来るのも、ひとえに若宮ご誕生のお陰だと、しみじみと嬉しく思いながら上京なさった。陸路での旅なので、もうお着きの頃だと、今か今かと京ではお待ち申し上げている。
十二月(長徳四年( 998 )。史実とは違うようだ。)に帥殿は到着なさった。
あの致仕(チシ・官職を辞すること)の大納言殿(源重光。伊周の舅。)のお邸にお入りになった。北の方(伊周の室。源重光の娘。)を始めとして、邸内の人々の流すうれし涙は尋常でない。
邸の有様などは、昔と違って、寂しく荒れ果てていた。北の方も何も申し上げることが出来ず、ただ涙に暮れてお会いなさっている。松君(伊周の子の道雅の幼名)がたいそう大きく成長されているのを掻き撫でて、ひどくお泣きになるので、松君も何と思われたか、目をこすり、たいそう嬉しそうにされているのも、しみじみと伝わってきて、いかにもと思われる。
帥殿が、
『 浅茅生と 荒れにけれども ふる里の 松は木高(コダカ)く なりにけるかな 』
( 庭は浅茅生(アサジフ・背の低いちがや)となって 荒れ果ててしまったが このふるさとの 松だけは大きく 成長したものだ )
と詠まれた。
さらに、帥殿が、
『 来しかたの 生(イキ)の松原 いきて来て 古き都を 見るぞ悲しき 』
( やって来た所にある 生の松原(福岡市にある。筑紫の歌枕。)の名のように 生きながらえてきて ふるさとの都を 見るのは 切ないことだ )
と仰せになられると、北の方は、
『 そのかみの 生の松原 いきてきて 身ながらあらぬ 心地せしかな 』
( 筑紫にお立ちになったあの時 あなたは生の松原の方に行かれましたが その名のように生きてお帰り下さいましたが あの当時は わが身がわが身と思えないほど 悲しい心地でした )
と、お返しになられた。
「何はともあれ、中宮(定子)の御所に参上しよう」とて、急いでお出かけになるにつけても、女君は涙に濡れていらっしゃる。
中宮は、単衣の御衣の袖も絞るほどである。そして、「何事も落ち着いてからに致しましょう」とお申しになる。
宮たち(脩子内親王と敦康親王)が、それぞれにたいそう可愛らしくあられるので、まずは一の宮(敦康親王)をお抱き申し上げたく思ったが、「祖父成忠が亡くなり、喪に服す身なので、慎まねばと思いまして」と申されるご様子も、まことにこの世は無常にもので、平穏に誰もが御命を保っておられることこそ、一番ありがたいことなのだといった風にお見えになる。
故上(伊周らの母貴子)の御事を繰り返し申されては、誰もがたいそうお泣きになる。
嬉しいにつけ、悲しいにつけ、何事につけ涙は同じと見えるのも、感無量のご様子である。
そのころの吉日を選んで、故北の方(貴子)の御墓を拝むために、帥殿と中納言(隆家)殿がそろって桜本(地名)にお参りになった。
しみじみと悲しく思われて、ご存命であればと涙を溢れさせている。
折しも、雪が激しく降ってくる。
中納言殿は、
『 露ばかり 匂ひとどめて 散りにける 桜がもとを 見るぞ悲しき 』
( ほんの少しばかり 色香をとどめて 散っていった 桜の木を 見るのは 何と悲しいことか )
帥殿は、
『 桜もと 降るあは雪を 花と見て 折るにも袖ぞ ぬれまさりける 』
( 桜本の御墓に 降る淡雪を 花に見立てて 枝を折ろうとしても 涙に濡れた袖が さらに濡れまさることだ )
あれこれとしみじみ故御母の御霊にお話し申し上げて、泣く泣くお帰りになった。
ぜひとも今は、この地に御堂を建てさせようと、決心なさるのであった。
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