源信僧都伝 ・ 今昔物語 ( 12 - 32 )
今は昔、
比叡山の横川(ヨカワ)に源信僧都(ゲンシンソウズ)という人がいた。生れは大和国葛下郡(カズラキノシモノコオリ)の人である。
父は卜部正親(ウラベノマサチカ)という。道心(ドウシン・仏道を信じようとする心。)は無いが心の正直な人であった。母は清原氏である。極めて道心が深い人であった。
夫婦には女の子がたくさんいたが男の子がいなかったので、その郡にある高尾寺という寺に詣でて、男の子が生まれるようにお祈り申し上げると、夢の中にその寺の住職が現れ、一つの玉を与えた、と見るや、たちどころに懐妊して、男の子を生んだ。
その男の子というのが、源信僧都である。
しだいに成長するにつけ、出家の思いが生じ、父母に願って出家を果たした。その後、仏道修業に励んだ。
あの高尾寺に籠りきりで、年に三度の斎戒を行っていたが、ある時夢を見た。ある堂の中に蔵があり、その蔵の中に様々な鏡があった。ある物は大きく、ある物は小さい。ある物は明るく、ある物は暗い。すると、一人の僧が出てきて、くもった鏡を取って源信に与えた。
源信は僧に、「この鏡は小さくてくもっています。私はどうすればいいのでしょう。あの大きくて明るい鏡を私に下さい」と言った。しかし、僧は小さくてくもった鏡を取って、源信に与えた。[ この部分欠字あり、一部推定。]
そして、「あの大きくて明るい鏡は、お前の分には合わない。お前の分は、この鏡だ。速やかに比叡山の横川に持って行き、よく磨くのだ」と言って与えた、かと思うと夢から覚めた。
横川とはどういう所なのか知らなかったが、ひとえに夢を信じて過ごしているうちに、かなりの日時が経ち、夢のことをすっかり忘れてしまった頃、ある機会があって、比叡山に上ることになった。
するとその時、横川の慈恵大僧正(ジエダイソウジョウ・第十八代天台座主。比叡山中興の祖といわれる。)がこの源信を見るや、以前から知っていた人のように待ち受けていて、弟子として顕密(ケンミツ・顕教と密教)の教義を教えたが、源信は天性聡明で、習うに従って、驚くほどの能力を示した。
自宗他宗(自宗は天台宗、他宗は奈良の旧宗派。)の顕教を習い、真言の密教を受けたが、深くその神髄を習得し、いずれも奥義を極めた。また、道心が深く、常に法華経を読誦していた。
こうして、数年を比叡山で過ごすうちに、学僧としての名声が高くなったので、前の一条院天皇(サキノイチジョウインノテンノウ・一条天皇のこと。後一条天皇と区別するための表記。)は、「源信というのはとても優れた人物だ」とお聞きになって、召し出され、源信は朝廷にお仕えし、僧都を賜った。
しかし、源信は、仏道を求める心が強く、ひたすら名声を捨てて、官職を辞して、遂に横川に隠棲してしまった。
その後は、静かに法華経を誦し念仏を唱えて、ひたすら後世の菩提を祈っていた。
一乗要決(イチジョウヨウケツ・源信の著作。三巻よりなる。)という書を著して、「一切衆生皆成仏」(全ての人間は仏と成るべき素質を備えている、といった意味。)の教義を説き、往生要集(三巻からなる。)という書を著して、往生極楽を願うべきことを教えた。
すると、夢の中に観音が現れ給い、笑みをたたえて金の蓮華をお授けになった。毘沙門は天蓋を捧げて傍らにお立ちになる、という夢を見た。
このような尊い事が多くあった。
やがて、年老いて、身に重い病を得て長い患いとなったが、法華経を読誦し念仏を唱えることを怠ることがなかった。
そうした時、隣の僧房の老僧の夢に、金色の僧が空より下りてきて、源信僧都に向かって心をこめて話しかけた。僧都もまた伏したままこの僧と語らっている、という具合に見たことを僧都に告げた。
また、ある人の夢には、百千万の蓮華が僧都がおいでになる近くに生じた。ある人がこの蓮華を見て尋ねた。「これはどういう蓮華ですか」と。すると、空に声があって、「これは妙音菩薩(ミョウオンボサツ・法華経の中で説かれている菩薩。この菩薩が娑婆世界に現れた時には、諸方が震動し、七宝の蓮華を降らし、妙なる音楽が鳴り響いたという。)が現れなさる時に生ずる蓮華なのだ。僧都は死後、西方浄土に向かう験(シルシ)である」と答えた、といった夢であった。
源信僧都は、最後の時に臨んで、首楞厳院(シュリョウゴンイン・横川の中心寺院。)の中の優れた学僧や聖人たちを集めて、「今生での対面はこれ限りである。もし、法文の中で疑問のある所があれば、それをお出しなさい」と告げた。
そこで、集まっていた人々は、法文の中の重要な意義について尋ね、疑いの部分を悟った。そして、僧都との別れを惜しみ、涙を流して悲しむこと限りなかった。
集まっていた人々が皆去ってから、慶祐阿闍梨(キョウユウアジャリ・伝不祥。横川の僧。)という人ひとりだけを残していて、密やかに語りかけた。「長年の間、私が造ってきた善根(ゼンコン・良い果報をもたらす行為。)を全て極楽に回向(エコウ・自分の修めた善行の結果である功徳を他に回すこと。)して、『上品下生(ジョウボンゲショウ・九品浄土の第三段階。上位三段階が極楽。)に生まれよう』と願っていたが、今ここに二人の天童がやって来て、『我らは兜率天(トソツテン・欲界六天の第四位。内外二院あり、内院に弥勒菩薩が住んでいる。)の弥勒の御使いです。聖人は、ひたすら法華経を信奉して、深く法華一乗(一乗は一つの乗物のこと。すべてを平等に悟りの世界へ導く、といった意味か?)の教義を悟られている。この功徳によって、兜率天に生まれ変わるでしょう。されば、我らは聖人を迎えるために参ったのです』と言ったのだ。私は天童に、『私は兜率天に生まれて、弥勒菩薩を拝み奉ることは、この上ない善根ですが、私が長年願っていることは、極楽世界に生まれて阿弥陀仏を拝み奉ることです。それゆえ、弥勒様、願わくば力をお与えくださって、私を極楽世界にお送りください。私は、極楽世界において弥勒様を拝み奉ります。天童方、早くお帰りになってこのことを弥勒様に申し上げてください』と答えると、天童は帰って行った」と。
慶祐阿闍梨はこれを聞いて、尊く思うも悲しむことこの上なかった。
また、源信僧都は、「近頃は時々観音様がお姿をお見せになる」とも語った。
慶祐阿闍梨は涙を流しながら答えた。「疑いなく極楽にお生まれになることでしょう」とお答えした。
その後、僧都は息絶えた。
その時、空に紫雲がたなびき、音楽が聞こえた。香ばしい香りが室内に満ちた。
寛仁元年(1017)六月十日の丑寅の時(午前三時頃)の頃のことである。享年七十六歳であった。
まことにこれは、稀に見る奇特な事である、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
* なお、本話には仏教関係の言葉が多出していますが、筆者の知識不足と、宗派や時代により意味が違うこともあるようで、誤読している部分があるかもしれませんのでご容赦ください。
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今は昔、
比叡山の横川(ヨカワ)に源信僧都(ゲンシンソウズ)という人がいた。生れは大和国葛下郡(カズラキノシモノコオリ)の人である。
父は卜部正親(ウラベノマサチカ)という。道心(ドウシン・仏道を信じようとする心。)は無いが心の正直な人であった。母は清原氏である。極めて道心が深い人であった。
夫婦には女の子がたくさんいたが男の子がいなかったので、その郡にある高尾寺という寺に詣でて、男の子が生まれるようにお祈り申し上げると、夢の中にその寺の住職が現れ、一つの玉を与えた、と見るや、たちどころに懐妊して、男の子を生んだ。
その男の子というのが、源信僧都である。
しだいに成長するにつけ、出家の思いが生じ、父母に願って出家を果たした。その後、仏道修業に励んだ。
あの高尾寺に籠りきりで、年に三度の斎戒を行っていたが、ある時夢を見た。ある堂の中に蔵があり、その蔵の中に様々な鏡があった。ある物は大きく、ある物は小さい。ある物は明るく、ある物は暗い。すると、一人の僧が出てきて、くもった鏡を取って源信に与えた。
源信は僧に、「この鏡は小さくてくもっています。私はどうすればいいのでしょう。あの大きくて明るい鏡を私に下さい」と言った。しかし、僧は小さくてくもった鏡を取って、源信に与えた。[ この部分欠字あり、一部推定。]
そして、「あの大きくて明るい鏡は、お前の分には合わない。お前の分は、この鏡だ。速やかに比叡山の横川に持って行き、よく磨くのだ」と言って与えた、かと思うと夢から覚めた。
横川とはどういう所なのか知らなかったが、ひとえに夢を信じて過ごしているうちに、かなりの日時が経ち、夢のことをすっかり忘れてしまった頃、ある機会があって、比叡山に上ることになった。
するとその時、横川の慈恵大僧正(ジエダイソウジョウ・第十八代天台座主。比叡山中興の祖といわれる。)がこの源信を見るや、以前から知っていた人のように待ち受けていて、弟子として顕密(ケンミツ・顕教と密教)の教義を教えたが、源信は天性聡明で、習うに従って、驚くほどの能力を示した。
自宗他宗(自宗は天台宗、他宗は奈良の旧宗派。)の顕教を習い、真言の密教を受けたが、深くその神髄を習得し、いずれも奥義を極めた。また、道心が深く、常に法華経を読誦していた。
こうして、数年を比叡山で過ごすうちに、学僧としての名声が高くなったので、前の一条院天皇(サキノイチジョウインノテンノウ・一条天皇のこと。後一条天皇と区別するための表記。)は、「源信というのはとても優れた人物だ」とお聞きになって、召し出され、源信は朝廷にお仕えし、僧都を賜った。
しかし、源信は、仏道を求める心が強く、ひたすら名声を捨てて、官職を辞して、遂に横川に隠棲してしまった。
その後は、静かに法華経を誦し念仏を唱えて、ひたすら後世の菩提を祈っていた。
一乗要決(イチジョウヨウケツ・源信の著作。三巻よりなる。)という書を著して、「一切衆生皆成仏」(全ての人間は仏と成るべき素質を備えている、といった意味。)の教義を説き、往生要集(三巻からなる。)という書を著して、往生極楽を願うべきことを教えた。
すると、夢の中に観音が現れ給い、笑みをたたえて金の蓮華をお授けになった。毘沙門は天蓋を捧げて傍らにお立ちになる、という夢を見た。
このような尊い事が多くあった。
やがて、年老いて、身に重い病を得て長い患いとなったが、法華経を読誦し念仏を唱えることを怠ることがなかった。
そうした時、隣の僧房の老僧の夢に、金色の僧が空より下りてきて、源信僧都に向かって心をこめて話しかけた。僧都もまた伏したままこの僧と語らっている、という具合に見たことを僧都に告げた。
また、ある人の夢には、百千万の蓮華が僧都がおいでになる近くに生じた。ある人がこの蓮華を見て尋ねた。「これはどういう蓮華ですか」と。すると、空に声があって、「これは妙音菩薩(ミョウオンボサツ・法華経の中で説かれている菩薩。この菩薩が娑婆世界に現れた時には、諸方が震動し、七宝の蓮華を降らし、妙なる音楽が鳴り響いたという。)が現れなさる時に生ずる蓮華なのだ。僧都は死後、西方浄土に向かう験(シルシ)である」と答えた、といった夢であった。
源信僧都は、最後の時に臨んで、首楞厳院(シュリョウゴンイン・横川の中心寺院。)の中の優れた学僧や聖人たちを集めて、「今生での対面はこれ限りである。もし、法文の中で疑問のある所があれば、それをお出しなさい」と告げた。
そこで、集まっていた人々は、法文の中の重要な意義について尋ね、疑いの部分を悟った。そして、僧都との別れを惜しみ、涙を流して悲しむこと限りなかった。
集まっていた人々が皆去ってから、慶祐阿闍梨(キョウユウアジャリ・伝不祥。横川の僧。)という人ひとりだけを残していて、密やかに語りかけた。「長年の間、私が造ってきた善根(ゼンコン・良い果報をもたらす行為。)を全て極楽に回向(エコウ・自分の修めた善行の結果である功徳を他に回すこと。)して、『上品下生(ジョウボンゲショウ・九品浄土の第三段階。上位三段階が極楽。)に生まれよう』と願っていたが、今ここに二人の天童がやって来て、『我らは兜率天(トソツテン・欲界六天の第四位。内外二院あり、内院に弥勒菩薩が住んでいる。)の弥勒の御使いです。聖人は、ひたすら法華経を信奉して、深く法華一乗(一乗は一つの乗物のこと。すべてを平等に悟りの世界へ導く、といった意味か?)の教義を悟られている。この功徳によって、兜率天に生まれ変わるでしょう。されば、我らは聖人を迎えるために参ったのです』と言ったのだ。私は天童に、『私は兜率天に生まれて、弥勒菩薩を拝み奉ることは、この上ない善根ですが、私が長年願っていることは、極楽世界に生まれて阿弥陀仏を拝み奉ることです。それゆえ、弥勒様、願わくば力をお与えくださって、私を極楽世界にお送りください。私は、極楽世界において弥勒様を拝み奉ります。天童方、早くお帰りになってこのことを弥勒様に申し上げてください』と答えると、天童は帰って行った」と。
慶祐阿闍梨はこれを聞いて、尊く思うも悲しむことこの上なかった。
また、源信僧都は、「近頃は時々観音様がお姿をお見せになる」とも語った。
慶祐阿闍梨は涙を流しながら答えた。「疑いなく極楽にお生まれになることでしょう」とお答えした。
その後、僧都は息絶えた。
その時、空に紫雲がたなびき、音楽が聞こえた。香ばしい香りが室内に満ちた。
寛仁元年(1017)六月十日の丑寅の時(午前三時頃)の頃のことである。享年七十六歳であった。
まことにこれは、稀に見る奇特な事である、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
* なお、本話には仏教関係の言葉が多出していますが、筆者の知識不足と、宗派や時代により意味が違うこともあるようで、誤読している部分があるかもしれませんのでご容赦ください。
☆ ☆ ☆
私たち真宗人にとっては七高僧のお一方です。私は今は亡き母から和尚のお話を何度も
何度も聞かされました。和尚の母上がいてこそ、今も慕われるあの和尚があったのですね。
コロナ禍で何処にも行けないこのごろですが、落ち着いたら叡山や横川へ参詣したいと思
うことしきりでした。叡山にはまた格別の思いがあります。本日は叡山関連のURLにて。
失礼致しました。
源信和尚のお名前だけは承知していましたし、月参りをお願いしている時のお経で「源信広開一代教・・・」とお目にかかっているのですが、それだけのことで、本稿も、単なる物語として読んでいるというのが本音です。
今後ともご教示くださいませ。
ありがとうございました。