雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ランプの出湯   第五回

2010-05-18 18:22:10 | ランプの出湯
          ( 2 - 3 )

「あーあ・・・」
とんでもない「ランプの出湯」に、私はため息のようなものをつきながら電灯をつけた。驚くほど部屋全体が明るくなった。
バスの中といい、この宿に入ってからも全体に照明が弱かったらしく、私の目がそれに慣れていたらしく、裸電球の灯りがいやに強く感じられた。

私は荷物を広げてから、風呂に入ることにした。幸い、バスが旅館に横付けしてくれたこともあり雨に打たれたものはなかった。
「ランプの出湯」は、はかなく消え去っていたが、ひなびた出湯への期待は残っていた。

風呂場は、旅館本体の建物とは別にあり通路でつながれていた。そして、その風呂場は、私の予想を越えてというか、私が描いていたものとは相当違う形でひなびきっていた。
私が描いていた「ランプの出湯」は、谷川に面した辺りに自然の岩を固めた大きな露天風呂があり、豊かな温泉があふれていて、所々に置かれているランプは僅かに足元を照らすだけで、灯心は頼りなげに揺らいでいる。月はなく、満天の星が降り注ぐほどにきらめいている・・・。
まあ、それほどうまくはいかないという予感もあったが、現実は相当違うものであった。

広々とした・・・、というよりは、だだっ広いという感じの風呂場は、確かに野趣豊かなものではあった。
湯船と床部分は自然石を主体にセメントで固められ露天風呂風に仕上げられていて、材料さえあれば私でもできそうな手際に見えたが悪いものではなかった。
ただ、湯船は私の腰ほどの高さがあり、焚口が付いていた。その焚口で、うず高く積み上げられている薪を燃やしている裸の男がいた。

全体は露天風呂風の作りではあるが、全体が建物の中に収められていた。天井はクリーム色に塗られた板が張られていたが、その上はトタン板らしく、激しい雨がたたきつけられていて凄まじい音を立てていた。
そして、何よりも特徴的なことは、天井の一部が開けられていて、大きな白樺の木が空に向かっていた。

確かに豪快な作りではあったが、今日の天気では、そこから吹き込んでくる雨が飛沫になっていた。白樺の木と湯船の位置は、雨天の場合も考慮されているらしく配置されていたが、この雨では風呂場の半分は霧の中であった。

「いい湯加減になりましたよ」

茫然と風呂場全体を見渡していた私に、薪を燃やしていた男が声をかけてきた。
腰にタオルを巻いただけの姿で薪の番をしていたらしく、男は私に声をかけながら湯船に入った。私も湯船に近づき、桶で汲んだ湯をかぶった。確かに、良い湯加減になっていた。

「ここは温泉じゃなかったのですか?」
私も湯船に入りながら、男に尋ねた。

「そう、温泉ですよ・・・。ああ、わしが薪を焚いていたからだね。そこに入ってきているのが源泉だよ。そのままでは少しぬるいのでね」
「そうでしたか。確かにこのままでは入れませんね」

私は、竹を半分に割った樋から流れ込んでいる水を手で受けた。源泉だというが、温泉というより水に近いものであった。
それでも、しばらく手に受けていると水とは違う温もりが感じられた。

「冬だと結構暖かく感じるんだがね・・・。おひとりかい?」
「はい、ひとりです」

「このお天気じゃあ、大変だったね」
「ええ、今日は予定通り歩けましたが、あしたはちょっと無理なようですね」

「そうだねぇ。残念でしょうが、あまり無理はしない方がいいよ」

この後も私たちは湯船の中で話し合った。夕食も並んで食べながら話を続けた。
この夜の宿泊客は私たちだけだったので親しくなったともいえるが、私には不思議な雰囲気を持った人物のように感じられた。

男の年齢は五十代半ばに見えた。私の父より少し若い人だと思ったからである。
男は私に対して大変親切であった。山小屋のような小さな宿で大雨に閉じ込められたようになったたった二人だけの宿泊客だったから、親しく会話するのは当然なのかもしれない。
しかし、それにしても私や私の家族のことなどを本当に真剣に聞いてくるのである。特に、私と私の父のことについてみ興味があるらしく、いろいろ尋ねながら「山歩きもいいが、お父さんに顔を見せることも大切だよ」と何度も繰り返した。私が東京生活に慣れるに従って実家に帰る回数が減っていると話した時のことであった。

今考えてみると、ずいぶんとおせっかいな話であったように思うのだが、不思議と男に対して不愉快な感情は起こらなかった。
このような話をしながらの長い食事が終りかけたとき、突然電灯が消えた。薄暗い電灯だったが、消えてみると部屋の中は驚くほど暗くなった。
外の風雨の音が一段と大きくなったように聞こえてきた。

しばらくして、部屋の片隅に灯がともった。
「やっぱり、停電になってしまったなあ」と、宿の主人がカンテラのようなものを提げて私たちの席にやってきた。そして、私たちのために大きなランプを一つずつ用意して火をつけてくれた。

「これだけ雨風が強いと、停電するんじゃないかとは思っとったんですがね。今夜中は電気が無理だと思うで、このランプを使ってくれ、ね。いえね、最近でもランプを使いたいという客がいるもんだから、いつも準備はしているんですよ」

私と同じように「ランプの出湯」を求めてこの宿へ来る人も少なくないようであった。
実は私もそうだったと話すと、宿の主人は、これからもう一度風呂に入るように勧めてくれた。

「この天気だから情緒はないけれど、迫力はあるよ」
と、言うのである。
私と男は、宿の主人の勧めに従って、もう一度風呂に入ることにした。

それぞれが危なげにランプを提げて向かった風呂場は、宿の主人の言う通りの迫力に満ちた「ランプの出湯」であった。
ぬるめの湯が少し酔った身体に気持ちがよかった。
大きく開けられた天井から伸びている白樺は、激しく音を立てていた。そこから吹き込まれる雨は飛沫というには強烈過ぎて、その一部は湯船にまで降り注いでいた。

灯りは私たちが持ち込んだ二つのランプだけで、岩で組み上げられている湯船は先ほどとは違う姿となって浮かび上がっていた。
そして、男は、先程までの饒舌を忘れたかのように、湯船の中で黙然と腕を組んでいた。

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