雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ランプの出湯   第六回

2010-05-18 18:21:44 | ランプの出湯
          ( 3 - 1 )

寝入って間もない時間に思えた。
私は、人の声で目が覚めた。寝不足で起こされたときの、あの気分の悪さが私の全身にあった。全身はまだ覚め切っておらず、しばらくの間は夢と現の区分がつかない状態でじっと身体を丸めていた。

意識が次第にはっきりしてきて、自分が信州の宿で寝ていることが分かってきた。部屋の中は真っ暗で、窓を打つ雨と風の音が激しかった。
腕時計の針が夜光塗料の光を微かに放っていた。おぼろげながら一時のあたりを指していた。

話し声は隣の部屋から聞こえていた。
階段を上がってきた最初の部屋があの男の部屋で、その隣が私の部屋である。今夜の宿泊客は、この二人だけのはずであった。

私は、昨日この宿に入ってからのことを思いだしながら、聞き耳を立てていた。別に積極的に盗み聞きするつもりではなかったが、微かに聞こえてくる話し声というものは、やはり気になるものである。

男が誰かと話をしているようであった。男の声はかなり鮮明に聞こえてきたが、相手の声は男よりずっと低く、ごく断片的にしか聞こえてこなかった。それでも、相手もどうやら男性らしいことは、時々聞こえてくる複数の笑い声から推察できた。

話の内容までは聞き取れなかったが、男の声は時々はっきりと伝わってきた。
「大丈夫なんだな」とか、「それは良かった」とか、「心配しなくていいんだな」といった言葉がかなりはっきりと聞き取れた。
相手の言葉は、不鮮明ながら「ありがとう」と聞き取れたものがあるくらいで、あとは男と一緒らしい短い笑い声だけであった。

息子さんが来ているのかな、と私は思った。聞こえてくる男の言葉遣いからそう判断したのだが、いずれにしてもそれほど深刻な会話ではなさそうである。
それにしても、この大雨の中をいつ来たのだろう・・・、などと思いながら、私は再び寝入った。

明るい日差しのようなものを感じて、私は目覚めた。同時に、寝過したかな、と思った。
サラリーマンの本能的な感覚かもしれないが、誰かに起こされたり人声や物音などで目覚めたとき、反射的に寝過したのではないかと感じることが私にはよくあった。この時も同じような感覚だったが、すぐに山に来ていることを思いだし、安堵のようなものを感じながら、雨が上がったのだと思った。

私は起き上がり、窓のカーテンを少し引いた。小さな窓には雨戸はなく、障子戸とガラス戸が設置されていた。
その障子戸を開けると、ガラス戸越しに外の景色がすでに明るくなっていた。太陽の姿はなく全体に煙っているようでもあるが、少し離れている山すそ辺りに白いもやのようなものがかかっているのが見えた。
腕時計は五時を指しており、四方を山に抱かれているこの辺りでは、日の出はまだ大分先のはずである。

その時、私は山道を行く男の姿を見た。もやがかかっているように見える辺りよりも少し高い所であるし、それほどはっきりと見えるわけではなく、男女の区別など分かるはずがないのだが、リュックサックを背負った姿は男性だと思った。
やがて、その姿は樹木の間に入ったのか、私の視界から消えた。そして、白いもやは薄れてゆき、そのあとは薄墨を流したようなものに変わっていった。

「まだ、早いんだ・・・」
私はひとり呟きながら再び横になった。

次に目覚めたのは七時少し前であった。身体が重く、すっきりとした寝起きではなかった。
昨日大分歩いたこともあるが、夜中と明け方に目が覚めたことが原因だと思った。普段は夜中に目を覚ますことなど滅多になかった。

私は横になったまま大きく伸びをし、反動をつけて立ち上がった。朝食は七時にお願いしていたから、あまり時間がなかった。
もっとも、天候次第ということになるが、天候さえ良ければできるだけ早く出発したかった。
今度はカーテンと障子戸を一緒に開いたが、激しい雨が降っていた。昨夜とあまり変わらないような天候らしく、少し不思議に思いながらも、山に登るのは無理だなと考えていた。

食堂に降りると、配膳はすでにされていて、男は席についていた。
私も挨拶をしながら並んで座った。宿の主人が味噌汁を運んできてくれた。そして、ご飯と味噌汁は全部食べていいよと言いながら、味噌汁の入っている鍋とお櫃を並べて置いてから食堂を出ていった。

私たちは揃って食事を始めた。魚の干物、山菜を炊き合わせたもの、それに漬物がおかずであった。大きめの皿にどっさりと盛られた漬物と、もろみのようなものがたくさん入っている味噌汁は格別の味であった。
男は私の挨拶に柔和な笑顔で応えたが、そのあとは静かに食事を始めていた。昨日の饒舌な男とは別人のようである。

「昨夜は、どなたかとご一緒だったのですか? いえ、話し声が聞こえたものですから」
「そうでしたか。睡眠の邪魔をしてしまったんですな・・・。息子と・・・、息子と一緒だったもんですから・・・」

「やはり、そうでしたか。お話の内容が聞こえたわけではないのですが、何だか楽しそうにお話しされていましたから」
「そうでしたか?」

「はい、時々一緒に楽しそうに笑われていましたから、親しい人だとは思っていました」
「笑い声まで聞こえましたか。迷惑かけましたな。久しぶりだったもんだから、ついつい話が弾んでしまって・・・。迷惑をかけましたな」

「いえ、そんなことありませんよ。私の方は、すぐにまた寝てしまいましたから。ご子息は、お食事まだなのでしょう?」
「いや、約束があるとかで、もう出掛けましたよ」

「そうですか、お忙しいのですね」
「まあ・・・」

会話はここで途切れた。食事をしながらの挨拶代わりのような会話なので、別に相手の意見や考えを確認するものではなかった。しかし私には、男が私との会話に乗り気でないのがはっきりと感じられた。
話し方も昨夜の親しげなものとは違っていた。私にしても、一種の愛想のようなつもりの会話なので、無理に続ける必要などなかった。

男は食事が終わると、朝のバスに乗ると言いながら席を立った。
そして、突然昨日の話の続きのように、実家には時々帰りなさいよ、と親しげな笑顔を見せた。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ランプの出湯   第七回 | トップ | ランプの出湯   第五回 »

コメントを投稿

ランプの出湯」カテゴリの最新記事