『 見事な最期の姿 ・ 今昔物語 ( 7 - 25 ) 』
今は昔、
震旦の絳州(コウシュウ)に、唐の高宗(第三代皇帝。則天武后の夫。683年没。)の御代に一人の僧がいた。名を僧徹(ソウテツ・伝不詳)という。
幼少にして出家したが、慈悲深い心の持ち主で、ひたすら仏法を修行した。また、人に哀れみを掛けること限りなかった。
ある時、孫山(所在不詳。「孤山」の誤記とも。)の西の山間の入り込んでいる所に堂を造った。その場所は、多くの樹木が生い茂っていた。僧徹が住処にするのにふさわしい所であった。
さて、僧徹がその住処を出て行脚(アンギャ)していると、その山の間の地面に一つの穴を見つけた。その穴の内に一人の癩病の者がいた。全身に瘡が満ちていて、とても臭い。決して近付いてはならない。
ところが、この病んでいる人が、僧徹が通り過ぎるのを見て、声を掛けて食べ物を乞うた。僧徹はこれを哀れんで、穴より呼び出して、食べ物を与えて病める人に言った。「あなたを私の住処にお連れして、お世話させていただこうと思います。どうでしょうか」と。病める人は、それを聞いてたいへん喜んだ。
そこで、僧徹はその病める人を本の寺に連れて行って、すぐに地面に穴を掘って、病める人を住まわせて着る物や食事を与えて世話をした。(地面に穴を掘って住まわせたのは、病人の一般的な対処法らしい? )また、法華経を教えて、読誦させた。病める人は文字を学んで居らず、記憶力も劣っていてなかなか覚えられなかったが、僧徹は熱心に一字一句を心血を注いで教え、怠ることがなかった。
その結果、病める人はようやく法華経の半分(八巻のうちの四巻らしい)を習得した。
そうした時、病める人の夢に、一人の人が現れて、病める人に法華経を教えた。「自分は自然に覚えて、五、六巻を読誦した」と思ったところで、夢から覚めた。そして、自分の体を見てみると、瘡がすべて治っていた。
「これは、ひとえに法華経の験力のお陰だ」と信じて、まことに不思議で貴いことだと思った。その後、すべてを習得し、一部を読み終わると、髪・眉は皆もとのように生えた。
それから後は、病める人は、自らが人の病の治療をする人となり、僧徹に付き従った。
そこで、僧徹はこの人を、世間の病ある人のもとに遣わして、祈祷し治療したが、必ずその効験があった。つまり、この人は、以前はわが身の病を憂い、今は人の病を癒やした。
また、この僧徹の寺の辺りには水がなく、常に遠い山の下に下りて水を汲んでいた。そのため、僅かに一度の食事用の水を備えているだけであった。ところが、ある時、地面に窪んだ所があったが、突然水が湧き出した。それ以後、水に困ることがなくなった。
その頃、房の仁裕(ボウのニンユ・伝不詳)という人がいた。秦州の長官である。その人が、この泉が湧き出したことから、この僧徹の寺を陥泉寺(カンセンジ)と名付けた。
また、僧徹はもっぱら善事を勧めることを常に務めていた。遠近の人々は僧徹を崇め敬うこと、父母に対するようであった。
やがて、永徽(エイキ)二年(651)という年の正月、僧徹は弟子たちに、「私はまさに死のうとしている」と告げて、衣服を改め、縄床(ジョウショウ・縄や木綿を張った粗末な椅子。)に端座して、目を閉じて身動きしない。
その時、晴れている空から花が、まるで雪のように降ってきた。香ばしい匂いが部屋の中に満ちて消えない。また、その辺り二里ばかりの樹木の葉の上に、真っ白い物が現れた。まるで軽い粉のようである。三日後に常の色に戻った。
また、僧徹の身が冷えてから三年、なお端座していて、生きているかのようであった。また、臭き香りはなく、遺骸が腐乱することもなかった。ただ、目の中から涙が出ているだけである。
この話は、僧徹の弟子たち、並びに州の人が語るのを聞いて、
語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 前世の夫と出会う ・ 今昔物語 ( 7 - 26 ) 』
今は昔、
震旦の随の開皇の御代(581 - 600)に、魏州の刺史(シシ・長官)、博陵(ハクリョウ・北京の東方にあたる)の雀の産武(ジャクノサンブ・人名。雀は「崔」が正しいらしい。)という人がいた。
その産武がその州の巡察に出たが、ある里に至ると、突然驚き喜んで、供をしてい官人を呼んで、「わしは、前世において、この里に住んでいたが、女の身を受けていて人の妻になっていた。わしは今、その家の場所を思い出したのだ」と話すと、馬に乗っている従者一人を里に入れて、一軒の家に行かせ門を叩かせた。
家の主人がいた。年老いた者である。産武がやって来たわけを伝えると、家の主は、産武を家に呼び入れた。
産武は、その家に入り、部屋に上がると、まず壁の上を見た。地面から六、七尺(二メートルほどか)ばかりの所に、壁より高い所がある。
産武はそれを見て、家の主に話した。「わしは、昔、読誦し奉った法華経と、わしが使っていた金の釵(カンザシ)五隻(セキ・釵を数える単位)を、この壁の高い所に隠し置きました。その経典の第七巻(法華経はもともと七巻だった。)の終りの一枚が火に焼けて文字が消えていました。わしは、常にこの経典を読誦し奉っていたが、その第七巻の終りの焼けた所を書写し奉らんと思いながら、常に家業に追われているうちに、つい失念して書くことが出来ませんでした」と。
そして、すぐに人に壁を壊させて、経箱を取り出した。中には、本当に、第七巻の終りの一枚が焼けていた。また、金の釵を見ると、すべて産武の言うことに違いがなかった。
家の主は、これを聞いて、そもそもの由来を知らないので、不審に思って産武にそのわけを訊ねた。
産武は、「あなたは知らないのか。わしは、あなたの妻としてこの家にいたのだ。わしは、お産のために死んだのだ」と言った。家の主は、その事を聞いて、涙を流して泣き悲しんで、「まことに、亡くなった私の妻は、常にこの経典を読誦し奉っていました。また、この釵もあの妻の物です。あなたは、昔の私の妻で在(マシマ)したのだ。ただ、あの妻が亡くなる時、自ら髪を切りました。そして、それを置いておく所を隠して私に教えませんでした。あなた、ぜひその髪を置いた所を教えて下さい」と言った。産武は、近寄って、庭にある槐(エンジュ・落葉の高木)を指して、「わしが、お産にあたって、自ら髪を切って、この木の上の方にある穴の中に置いた。今もあるかどうか、試しに人を登らせて捜させてみよ」と言った。
家の主は、すぐに、産武の言うとおりに、人を登らせて穴を捜させて、その髪を見つけ出した。家の主はその髪を見て、泣き悲しむこと限りなかった。
産武は、昔のことを家の主に教えた後、深く信頼し合ってさまざまに語り合う様子は、かつての夫婦の時のようであった。そして、産武は、いろいろな財宝を家の主に与えて返って行った。
これを以て思うに、流転することなく人間界に生まれた人は、このように前世のことを覚えているのである。これはひとえに、法華経を読誦したが故に、ふたたび人間として生まれ、前世から因縁の厚いことを示したのである、
となむ伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 妻子を棄てて父に尽くす ・ 今昔物語 ( 7 - 27 ) 』
今は昔、
震旦に韋の仲珪(イのチュウケイ・伝不詳)という人がいた。正直な心の持ち主で、父母に孝行する心も深かった。また、兄弟を敬う心も持っていた。それゆえ、里の人々は皆、仲珪に好感を持っていた。
さて、仲珪が十七歳の年、郡の役人になった。
ところで、この人の父は、資陽郡という所の丞(ジョウ・副官)としてその地に務めていたが、年老いてもすぐには帰ってこなかった。そのうちに、武徳年間(618 - 626)の頃に仲珪の父は資陽郡において病気になった。子の仲珪は、官服を脱ぐ間もなく父の所に駆けつけ、大事に父の世話をした。その父は、しばらく患った後に亡くなってしまった。
その後、仲珪は妻子のもとを離れ、父の墓の辺りに庵を造ってそこに住み、専ら仏教を信奉して、法華経を読誦し奉った。昼は土を背負って墓を築き、夜は専ら法華経を読誦し奉って、父の後世を弔った。
こうして、誠心誠意三カ年を過ごしたが、家に帰ることがなかった。
ある夜のこと、一頭の虎が現れて、庵の前に来てうずくまって、経を読誦するのを聞いて、なかなか立ち去らない。仲珪はそれを見ても恐れることもなく、虎に言った。「私は、悪しき獣の道に向かう事は願っていない。虎よ、どういうわけがあって、やって来るのか」と言った。虎は、これを聞くと、すぐに立ち去った。
また、明くる朝、墓を廻ってみると、蓮花が七十二茎生えていた。墓の前の辺りは、きちんと並んで生えている。人がわざわざ植えたかのようである。茎は赤く、花は紫である。花の大きさは五寸ある。色や輝きはすばらしく、ふつうの花とは違っていた。
隣の里の人は、これを聞いてやって来て見て、その様子を遠近の人に伝えた。
州の長官である辛君(シンクン・伝不詳)、補佐役の沈裕(シンユ・伝不詳)という人など、この事を聞いて、共に墓の所にやって来て見ている間に、突然一羽の鳥が現れた。鴨に似た鳥である。
その鳥は、一尺ばかりの鯉を二匹くわえて飛んできて、辛君の前に下りると、魚を地面に置いて去って行った。辛君らは、これを見て、「不思議なことだ」と思った。そして、この蓮花を摘んで国王に奉り、事の次第を申し上げた。
「これは、ひとえに法華経の験力である」と言って、見聞きする人は皆、誉め尊んだのである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 法華経と観音の加護 ・ 今昔物語 ( 7 - 28 ) 』
今は昔、
震旦に中書の令(チュウショのリョウ・中書省の長官。政務の中枢を担う。)である峰の文本(岑文本(シンノブンポン)が正しく、有能な官吏であったらしい。)という人がいた。幼少の頃から仏法を信奉し、常に法華経の普門品(フモンボン・観音経のこと。)を読誦していた。
ある時、この人は、多くの従者と共に船に乗って、呉の江(ゴノエ・蘇州河)の中流を渡る途中で、突然船が壊れた。その為、船に乗っていた大勢の人は皆、水中に落ちて死んでしまった。ただ、文本だけは、水中で生きていて、今まさに死にそうになって苦しんでいたが、かすかに人の声が聞こえた。「速やかに仏を念ずれば、死ななくてすむだろう」と、その声が三度繰り返すのを聞いたところで、文本は波にもまれながらも浮き上がり、自然に北側の岸に着くことが出来た。
喜んで岸の上に登ったので、なんとかこの難から逃れられた。そこで、この「仏を念じ奉れ」と教えてくれた人を捜したが、どこにも教えた人は見当たらない。されば、これは、ひとえに法華経の験力であり、観音菩薩の助けなのだと知った。
その後、文本は、いよいよ信仰心を高めて、江陵において齋江(サイエ・僧を招いて施食する法会。)を催した。多くの僧がその家に集まる中に、一人の客僧がいた。
齋江が終ったあと、その僧は一人残って、文本に語った。「天下はまさに乱れようとしている。但し、君は、仏法を敬うが故に、その災いに巻き込まれることなく、安全に守られて富貴の身となるだろう」と言い終わると、走り出て去ってしまった。
その後、文本は、食事の間に、器の中に舎利(シャリ・釈迦の遺骨)が二粒あるのを見つけた。「これは不思議なことだ」と思って、さらに丁重に恭敬供養した。また、本当にかの僧が告げたことに違うことなく、天下に反乱が起こったが、文本はその災いに巻き込まれることなく、安全で富貴の身となった。
これもまた、ひとえに法華経の験力であり、観音菩薩の助けによるものである。前には、河を渡る時に船が壊れて水中に落ちたが死ぬことがなかった。後には、天下に乱が起こるもその災いに巻き込まれることなく、安全に守られて富貴の身となった。
されば、人はひたすらに仏法を信奉すべきである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 救われた妻 ・ 今昔物語 ( 7 - 29 ) 』
今は昔、
震旦の [ 欠字。「唐」が入る。] の御代に、都水署(治水を扱う役所)の長官に蘇長(ソチョウ・伝不詳)という人がいた。
武徳年間(618 - 626)の頃に、己州(コシュウ・巴州とも邑州とも。不詳。)の長官になった。そこで、妻子や従者を連れてその州に趣いたが、嘉陵の江(長江の支流)の中流を渡る途中、にわかに強風が吹き船が沈んでしまった。
その為、船に乗っていた男女六十余人、一瞬のうちに溺れて死んでしまった。
ところが、その中で、ただ蘇長の妻だけが生きて浮かび上がった。その妻は、常に法華経を読誦し奉っていた。
船がまさに水中に沈もうとする時、この妻は、法華経を入れている経箱を持ってきていたが、急いでそれを首に掛けて、誓願を立てて経箱と共に沈んだ。すでに船は沈み、船の中の人は蘇長をはじめ皆沈んでしまった。
ところが、皆死んでしまったが、この妻だけは沈むことがなかった。その為、波まかせに浮かんでいるうちに、自然に岸に着いた。また、その経箱も浮かんで岸に着いた。その箱を開けてみると、入れていた経典は、少しも濡れることなく汚れることもなかった。遠くの人も近くの人も、このことを見聞きした人は、法華経の験力が確かであることを知って、敬い尊び奉ったのである。
その経典は、今も揚州に在(マシ)ます。あの妻は、再婚して、人の妻になっている。そして、いよいよ法華経を篤く信奉し奉って、読誦し恭敬礼拝(クギョウライハイ)し奉った、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 地獄を見てきた男 ・ 今昔物語 ( 7 - 30 ) 』
今は昔、
震旦の唐の御代に、右衛門の校尉(王城警護の武官)である李の山竜(リノサンリョウ・伝不詳)と言う人がいた。もとは憑州(ヒョウシュウ)の人である。
武徳年間の頃(618 - 626)、突然亡くなった。家の人は泣き悲しむこと限りなかった。ところが、山竜の胸と掌(タナゴコロ・手のひら)だけは温かかった。
家の人は、これを不審に思い、しばらく葬儀をしなかった。
すると、七日を経て、遂に活(ヨミガエ)り、親族に語った。
「私が死んだ時、冥官(ミョウカン)に捕らえられて、ある役所に連れて行かれました。庁事(チョウジ・王城の警護にあたる役所。衛門府にあたる。)の建物は極めて大きい。その庭はたいへん広く、庭の中には引き据えられた人が大勢いました。ある者は手かせをされており、ある者は首かせと鎖で縛られており、全員が顔を北に向けて庭の中に満ちあふれていました。
その時、役人が私を庁舎に引き連れていった。見れば、首領らしい大王が一人いらっしゃった。高い座にすわっていました。その従者が大勢いて、その様子は、国王を百官が敬うのと同じのようでした。私は、役人に『あのお方はどなたか』と尋ねました。その役人は『あのお方は、この閻魔庁の大王であられる』と教えてくれました。それから、私は階段のもとに連れて行かれました。王は、『お前は、一生の間にどのような善根を積んだのか』と仰せられました。私は、『私の里の人が、講演を催した時、その度ごとに施主と同じくらいの供物を捧げました』と答えました。さらに王は、『お前の身には、いかなる善根を積んでいるのか』と訊ねられました。私は、『私は、法華経二巻を読誦しました』と答えました。すると王は、『それはたいへん貴い。速やかに階の上に登るがよい』と仰せられました。
仰せに従って、私は庁舎に登りました。庁舎の東北に高い座がありました。王はその座を指して、私を行かせて、「お前は、あの座に登って法華経を読誦せよ」と仰せられました。私は、王の命令を承って、その座の近くに行きました。王は、さらに立ち上がって、「読誦する法師よ、座に登れ」と仰せられる。私は座に登り、王に向かい合って座りました。そして、『妙法蓮華経序品第一』と読誦を始めると、王は、「読誦の法師よ、速やかに止めよ」と仰せられる。私は、王の言葉に従って、すぐに止めて座から下りました。そして、階段の近くから庭を見ると、縛められていた多くの罪人は、全員いなくなっていて姿が見えなくなっていました。
すると、王は私に告げられました。『君が経を誦する功徳は、ただ君だけの利益(リヤク)ではなく、庭の中にいた多くの苦を受けていた者たちも、経を聞いたことで、全員が捕らわれの身を免れたのだ。まさにこれは、限りない善根ではないか。今、我は君を解き放つ。速やかに人間界に還るがよい』と。
私は、王の言葉を聞いて、王を礼拝して庁舎を出て還ろうとして、数十歩行くと、王はまた私を呼び戻して、私につけられている役人に、「この者を連れて、諸々の地獄を廻って見せてやれ」と命じられました。
役人は、すぐに私を連れて行きました。百余歩行ったと思うと、一つの鉄(クロガネ)の城がありました。とても広くて大きな城です。その上に屋根があり、その城を覆っています。側面にはたくさんの小さな窓があり、ある物は大きさが小さな盆ほどで、ある物は鉢ほどの大きさです。見ていると、多くの男女が飛んで窓の中に入り、出てくる者はいない。
私は不審に思って、役人に『これは如何なる所ですか』と尋ねました。役人は『これこそが、大地獄(八大地獄のこと。)だよ。獄舎の中にたくさんの仕切りがある。罪状に応じて刑が異なるのだ。あの多くの者たちは、前世の業(ゴウ)に基づいて、地獄に堕ちてその罪を受けるのである』と言う。
私はそれを聞いて、悲しくそして恐れて、『南無仏』と唱えました。そして、役人に『出ましょう』と言うと、役人はまた別の城門に連れて行きました。見てみると、一つの大きな釜に湯が沸いている。側に二人の人がいて、居眠りをしている。私は、その眠っている二人に尋ねると、その二人が『我等は、この釜の沸騰している湯の中に入れられています。苦しいこととても堪えられません。ところが、君が「南無仏」と唱えられるのを聞いて、地獄の中の罪人は皆、一日休むことが出来て、疲れから眠っていたのです』と言うのです。私は、また『南無仏』と唱えました。
役人は私に、『冥途の官庁は沢山ある。王は今、君を解き放された。だが、君がここから出て行くには、王に赦免状の交付を申し出なさい。もし赦免状がなければ、おそらく他の官庁の者は、そのいきさつを知らず、また君を捕らえようとします』と教えてくれました。
私は戻って、王にその書の交付をお願いしました。王は一行の書(フミ)を書いて、役人に渡して仰せられた。『五道等の署名を取るべし』と。
役人は、この仰せを承って、私を連れて二つの役所に行きました。それぞれに庁事がありました。従者なども前の所と同じでした。その役所の署名を求めると、それぞれ一行書いて私に渡してくれました。私は、それを持って出て門まで行くと、三人の役人がいて、私に、『王は、君を解き放された。我等は君を止めることはしない。但し、多少に関わらず、我等が欲しい物を送るのだ』と言う。すると、その言葉が終らないうちに、付いている役人が言いました。『王は君を解き放されましたが、この三人のことを知らなかったのです。この三人は、最初に君を捕らえた役人です。一人は棒主といって、棒でもって君の頭を撃ちました。次の一人は縄主といって、赤い縄でもって君を縛りました。最後の一人は袋主といって、袋でもって君の息を吸いました。君が人間界に還る事になったので、物を要求しているのです』と。
私は、とても怖ろしくなり、三人に感謝しながら、「私は愚かにもあなた方を知りませんでした。家に還りしだい贈り物を用意します。ただ、いずれの所にその贈り物を送ればいいのでしょうか。その方法が分かりません』と尋ねました。三人は、『水辺か、あるいは樹木の根元でそれを焼くのだ」と教えると、私を許して還らせてくれました」と。
そこで、山竜が家に還ろうと思うと共に活ったのである。
辺りを見ると、家の人が泣きながら、自分を葬るための道具を用意している。山竜の魂が、自分の屍に寄り添うと、そこで活った。
その後、紙を切って銭帛(センハク・冥界用に紙で作ったお金)を造り、それに酒肉を添えて、山竜自ら水の辺りにおいてそれらを焼いた。すると、たちまち三人が現れて、「君は約束を違わず、我等のために食物を添えて贈ってくれた」と言い終わると、三人は姿を消した。
その後、山竜は、高徳の僧にこの事を語ったのを、
その僧が語り伝へたる也とや。
☆ ☆ ☆
* 本話の最後は、定型の形とは少し違う形になっています。定型以外の稿は時々登場しますが、その理由は分かりません。
☆ ☆ ☆
『 声明が地獄に届く ・ 今昔物語 ( 7 - 31 ) 』
今は昔、
震旦の北斉(ホクセイ・文宣帝が建国 ( 550 - 577 ) )の時代、一人の男がいた。姓は梁(リョウ)といい、屋敷は大きく豊かで、財産も多く持っていた。
その人が、遂に死に臨む時になって、妻子に語った。「わしは、生きていた間、従者や馬を大切に可愛がって世話をしてきた。されば、従者はよく仕え、馬にも長く乗っていて、皆わしの思い通りに仕えてくれた。今わしが死ねば、従者も馬も皆同じように殺してくれ。もし、それらを殺さなければ、わしは死んだ後、何を乗り物とし、誰を従者にすればよいのか」と。
そこで、その人がまさに死なんとする時に、家の者は、遺言されたように、袋に土を入れて彼の従者の男の上に乗せて押し殺した。しかし、馬はまだ殺さなかった。
ところが、それから四日経って、その従者が生き返って、家の者に語った。
「私は殺されましたが、思いもよらないことでした。ただ、たちまちのうちに閻魔庁の門前に至りました。門番の人は、私を門前に留めて、一晩過ごさせました。明くる朝、見てみますと、亡くなられたご主人がおりました。その身体は縛られていて、いかめしい獄卒がご主人を取り囲んで、役所に引き入れようとしていましたが、その時私を見て、『わしが死ぬ時、その後も従者として使おうと思って、「お前を殺せ」と言い置いたのだ。家の者は、わしの遺言を守ってお前を殺したのだが、今わしはそれによる責め苦を受けていて、お前を使うことなど出来ない。されば、わしは、役人に申し上げて、お前を許してもらおうと思っている』と言い置いて、連れて行かれました。
私は門の外から中の様子を窺い見ますと、閻魔庁の役人が、ご主人を取り囲んでいる獄卒たちに『昨日、身体の脂をしぼり取ったか』と訊ねられた。獄卒は『八升を押し取りました』と答えました。役人は『では、すぐに連れ帰って、さらに一斗六升を押し取れ』と命じられた。すると、ご主人はまた引き出されました。その時は、何もおっしゃらずに引き出されて行きました。
ところが、次の日もまた連れてこられましたが、その時のご主人は、大変嬉しそうな表情で、私に『これから、お前のことをお願いするからな』と仰せられました。
そして、昨日と同じようにのぞき見ていますと、また役人は獄卒に『脂を押し取ったか』と訊ねると、獄卒は『押し取っていません』と答えました。役人がそのわけを訊ねますと、獄卒が答えました。『この人が死んでから三日目に、家の人たちが、この人のために僧を招いて法事を行いました。経唄(キョウバイ・経文に韻律をつけて朗詠すること。声明。)の声を聞くごとに、脂を搾る鉄の梁が簡単に折れてしまい、脂を押し出すことが出来なかったのです』と。
それを聞くと役人は、『しばらく連れて行け』と命じました。その時、ご主人は役人に申されました。『従者には罪がないので許して下さい』と。
役人は、すぐに私を呼び寄せて、『お前は、罪がないので許す。速やかに還るがよい』と仰せられました。
そこで、ご主人と共に門を出ましたが、その時ご主人が申されました。『お前は、速やかに還って、わしの妻子にこの事を伝えてくれ。「お前たちの追善供養のお陰によって、わしは堪えがたい苦しみを免れることが出来たが、その罪はなお残されている。お前たちは、速やかに心を込めて法華経を書写し、仏像を造立してわしの苦しみを救ってくれ。願わくば、この罪を許されたいのだ。今日からは、他(仏教以外の)の祭祀を設けてはならない」と。それによって、わしの罪に役立つのだ』と仰せになられました。そして、その後別れました」と言って、その様子を詳しく語った。
家の人は、この話を聞いて、ますます信仰心を起こして、その日から忌日を定めて法事を行った。家の財物を注ぎ込んで功徳を行い、一族力を合わせて熱心に善根を積んだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 些細な罪の報い ・ 今昔物語 ( 7 - 32 ) 』
今は昔、
震旦の[ 欠字。「随」が該当する。]の時代、清斉寺(ショウセイジ・伝不詳)という寺に、道明・玄渚(ゲンショ・共に伝不詳。)という二人の僧が住んでいた。
道明が、先に亡くなった。
その後、玄渚が少し経ってから、ある所に出かけたとき、ある寺の近くを過ぎようとしたが、その寺の大門の所に、亡くなった一緒に学んでいた道明が立っていた。
玄渚はその姿を見て不思議に思い、近寄って道明に訊ねた。「あなたは、清斉寺に住んでいらっしゃった道明さまではありませんか」と。
すると、「そうです」と答えた。玄渚が、「そのお方は、すでに亡くなったお方ですよ」と言うと、道明は「その通りです。ところが、死んだ後、この寺に住んでいるのです」と言う。
玄渚はそれを聞いて、「奇妙なことだ」と思っていると、道明は玄渚を案内して、自分の住処に連れていった。玄渚は怖ろしく思ったが、道明の言うことに従った。
玄渚は道明と共に寺に入った。多くの堂舎があった。堂の後ろの方に僧坊がある。その僧坊の一つに案内された。
そして、長年のつもる話を交わしているうちに、夜となった。
その時、道明が、「私は、この前にあるお堂に、夜ごとに少々勤めることがあります。それに出て、明け方に帰ってきます。ただ、私がお堂にいる間、決してその様子を見てはなりません」と言って、出かけて行った。
玄渚は、道明がそう言ってはいたが、一体何が行われているのか不審に思って、そのお堂に行き、後ろの方の壁にあった穴から[ 欠字あるも不詳。]覗いてみると、床に多くの僧が並んで座っている。すると、背がとても高く異形の童が現れたが、大きな鍋に何か物を入れて持ってきていた。また、並んで座っている僧たちの前ごとにも大きな器がある。
童は、鍋に入っている物を汲んで僧の器ごとに入れている。見てみると、銅(アカガネ)の湯であった。[ 欠字あるも不詳。]僧たちは、この器に満ちている湯を取って、皆飲[ 欠字あるも不詳。]合ったが、辛苦悩乱すること限りなかった。飲むに従って、体は赤くなって光っている。それぞれが苦しみ惑うこと、云はむ[ 欠字あるも不詳。]方無し。(とても言葉で言い表しようがない。・・なお、このあたりに4カ所の欠字があるが、すべて文字を入れなくても意味が通じるので、紙質などの関係によるもので、欠字はなかったのかもしれない。)
玄渚は、この様子を見た後、元の僧坊に戻って座っていると、明け方になると、道明が帰ってきた。その姿は、見るからに堪えがたい様子である。
玄渚は道明に、「見てはいけないと聞いておりましたが、不審に思いましたので、お堂に行き、壁の穴より覗きましたところ、あなた方の様子が皆見えましたが、とても堪えられません。それにしましても、あなたは清斉寺に住んでおりました時、戒律を守り犯すことなどありませんでした。なにゆえにこのような罪があったのでしょうか」と訊ねた。
道明は、「私には、あなたがご覧になられたように、それほどの罪はありません。ただ、ある人の袈裟を染めようと思って、他人の薪を一束借りて、それを返さないままに死んでしまいました。その罪によって、この苦しみを受けているのです。あなたは、速やかに帰って、私のこの苦しみから救うために、法華経を書写して供養し奉って下さい。それをお願いするために、あなたをお呼びしたのです」と答えた。
これを聞いて、玄渚は清斉寺に帰り、慈悲の心を起こして、たちまちのうちに法華経を書写して、あの道明の為に供養したのである。
その玄渚の夢に、道明が現れて告げた。
「あなたが法華経を書写し供養し奉ってくれましたので、私はあの苦しみをすでに免れています。このご恩は、生々世々に渡り忘れません」と言って、微笑みを浮かべて返っていった、と見たところで夢から覚めた。
玄渚は、その後、あの道明がいた寺が怪しく思えたので、その寺を尋ねて行ったが、僧は一人も住んでおらず、以前から荒れ果てた所であった。
その時に玄渚は、道明がこの事を自分に告げるために、示した事なのだと思って、返っていった。
ほんの少しばかりの罪によって受けた報いは、法華経の験力によって免れることが出来たのだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
『 欠話 ・ 今昔物語 7 -- 33 ~ 40 ) 』
第33話から第40話までは、すべて欠話になっています。
おそらく、当初から存在していなかったようです。
☆ ☆ ☆
『 獅子吼菩薩品で死す ・ 今昔物語 ( 7 - 41 ) 』
今は昔、
震旦の蒲州(ホシュウ)という所に仁寿寺(ニンジュジ・伝不詳)という寺があった。
その寺にドウソン(道懸とも、道慧とも。)という僧が住んでいた。
若い時から知恵があり心が広く、人に慈愛の心で接した。その為、その地方の人々は、挙ってドウソンを崇め尊んだ。この人は、生涯において、涅槃経を講じ奉ること八千余回に及ぶ。
その当時、崔の義真(サイノギシン・伝不詳)という人がいた。虞郷(グキョウ・山西省)の令(長官)としてその郷にいたが、郷の人を通してドウソンを招いて経を講じさせた。
ドウソンは、高座に上り涅槃経の題名を読み始めるや、すぐに涙を流して感激して、多くの人々に語り始めた。
「仏がこの世を去られたのは遙かに遠い時である。されば、仏のすばらしい言葉は絶えてしまった。愚かなる身に伝えられているところでは、良い言葉で語り伝えることが出来ず、ただ真摯な心で敬い奉る。それぞれが悟るべきである。但し、獅子の所(涅槃経の獅子吼菩薩品第十一)まで講じたら終りとする。日も暮れる。願わくば、自らの心に留めておくべし」と説教したが、人々は、何事を説いているのか理解できなかった。
そして、獅子の所まで説いたところで、ドウソンは苦しむこともなく死んだ。
その時、その法会の場にいた道俗男女は、皆、驚き大騒ぎとなった。義真とその一族の者たちは集まって、南山(終南山。仏法の聖地として著名。)という所に、ドウソンの遺体を隠し埋めて、それぞれ去って行った。これは、[ 欠字。数字が入るが不詳。]月のことである。
その後、十一月になると、地面は凍てついたが、そのドウソンの屍が地中から出て来た。その地面には花が生えてきた。蓮花のようで小さい花である。頭及び手足に各々一つの花がある。
義真はこれを不思議に思って、人を配して護らせたが、その者が夜になって疲れて眠っている間に、誰かが頭の花を盗みに来て折り取った。しかし、翌朝見てみると、再び体を囲むように花が生え出ていた。その数五十余茎であった。そして、七日経つと、萎んで枯れてしまった。
義真ならびに郷の道俗の者は、皆、これを見て、不思議なことだと尊ぶこと限りなくして、
語り伝へたる也けりとや。
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