雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

冥途を行き来した男 ・ 今昔物語 ( 7 - 42 )

2022-08-20 08:20:33 | 今昔物語拾い読み ・ その2

       『 冥途を行き来した男 ・ 今昔物語 ( 7 - 42 ) 』


今は昔、
震旦に李の思一(リノシイツ・伝不詳)という人がいた。趙郡の人である。
朝廷に仕えて、大廟の丞(ダイミョウのジョウ・天子の霊廟を管理する補佐官。)になっていた。
貞観二十年 ( 646 ) という年の正月の八日、突然物を言えなくなってしまい、同月の十三日に死んでしまった。

ところが、数日経って蘇った。そして、家の人に語った。
「私が死んだ時、冥官(ミョウカン・冥途の役人)に縛られて、南を指して連れて行かれ、一つの門に入った。見てみると、門の内の南北に大きな一つの街があった。左右は狭い。さらに進んでいくと、官府の門舎があった。十里(四百メートルほどか?)ばかり行くと、東西の街に至った。街の広さは五十歩ほどである。大勢の獄卒がいて、多くの男女を追い立てている。南行して東西の街に至って、東へ行く。
私は、『ここにいるのは、どういった男女ですか』と尋ねた。冥官は、『これは皆、新しく死んだ者たちだ。それを閻魔庁に連れていって、裁きにかけようとしているのだ』と答えた。私は、さらに南行して大きな街を過ぎて、一つの官庁に至った。官庁の役人は、私に詰問して言った。『お前は、昔、十九歳であった時、ある生命を害している』と。私は、全く覚えていない旨、答えた。すると、すぐにその害された者を召して、その殺された時の月日について対面させた。私は、その日のことを覚えていて、『その害したという日、私は黄州の恵珉法師(エミンホウシ・伝不詳)の所で、涅槃経を講ずるのをお聞きしていました。どうして、そうした所で、生命を害することなどありましょぅか』と答えた。役人は、これを聞くと、恵珉法師の所在を尋ねた。ある人が、『恵珉法師はすでに亡くなって久しくなります。すでに、金粟世界(コンゾクセカイ・維摩居士が金粟如来となった仏国土。)に生まれています』と答えた。役人は、『その事を立証させるために、その恵珉法師が生まれた所に使いを出そうと思ったが、その世界は余りに遠く、すぐには辿り着けない。されば、思一を放免にして、しばらく家に還そう』と言って、私は蘇ったのだ」と。

思一の家は、請禅寺(伝未詳)という寺に近い。その寺の僧玄通(伝不詳)は、以前から思一と親しくしており、家にも訪ねてくる人である。
思一はすでに死んでしまったので、家の人は玄通を請じて経を読んでもらい、思一の没後を弔ってもらった。ところが、見れば、にわかに思一は蘇り、冥途のことを語ったのである。

そこで、玄通は思一に懺悔の法を教え、戒を授けた。さらに、家の人に勧めて、金剛般若経を転読(要所だけを略読すること。)すること五千遍行わせた。
その後、ある夕暮れ方に、思一はまた亡くなった。そして、明くる日、また甦って語った。
「私は、再び捕らえられて、前の所に連れて行かれた。役人は遠くから私を見て、大変喜びながら尋ねた。『お前は、家に還って、どのような功徳を修めたのか』と。私は、受戒・読経のことを具(ツブサ)に答えた。役人は、『それは、大きな善根である』と言った。
その時、見れば、一人の人がいて、一巻の経を持って、それを私に示して、『これこそが、金剛般若経です』と言う。私は、その経を受け取って、巻を開いてその題目を見ると、文字は人間界のものと異ならない。そこで、目を閉じて、心に願を立てた。『願わくば、経の義理(経に説かれている教えの意義。)を悟り、衆生のために講説したい』と。

すると、その人は、『あなたが発心なさったことは、大変すばらしいことです。昔、あなたに害された者も、きっと利益(リヤク)を得るでしょう』と言った。役人は、『お前は、ほんとうは冥界での命が尽きている。まさに人間界に生まれ変われることが出来るとはいえ、思一の家の人が思一の為に善根を修めた。それによって、未だ人間界を去らずして、遂には、欺いて思一の寿命を延ばそうと願っている。仕方のない処置なのだ。何とか、罪に従ってくれないか』と言う。
そう言い終わった時、突然二人の僧が現れた。そして、僧は『恵珉法師の使いとして、我等はここに来たのである』と言った。役人は、これを聞いて、驚き畏れて、立ち上がって二人の僧に向かい合った。僧は役人に、『思一は、昔、講法を聞いている。また、他人の命を殺していない。どういうわけで、むやみに罪を記録するのか』と言った。すると、冥途の役人は、思一を放免にした。
そこで、思一は二人の僧に連れられて、その所を出た。僧は、思一を送って家に還らせ、思一に『そなたは、清浄な心でもって善行を積みなさい』と言い終わると、姿が消えた」と。

こうして、思一は遂に蘇ったのである。今、確かに生きていることが分かる。

まずこの事を聞いた大理卿(追捕・裁判の役所の長官)である李の道祐は、使者を行かせて玄通に問い合わせて、この事を記したのである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読誦一筋の夫人 ・ 今昔物語 ( 7 - 43 )

2022-08-20 08:19:39 | 今昔物語拾い読み ・ その2

       『 読誦一筋の夫人 ・ 今昔物語 ( 7 - 43) 』


今は昔、
震旦に陳公の夫人(チンコウのブニン・伝不詳)がいた。豆盧の氏(ズルノウジ・六世紀中頃、北周明帝に仕えた一族の末裔。)で、芮公寛(ゼイコウカン・唐の大宗時代に左衛大将軍。
)の姉である。
その人は、心の中で福を願い、常に金剛般若経を読誦していた。

そのように読誦して長い年月が過ぎたが、ある日の日暮れ方になって経を読んでいた。
まだ経典の一枚ほども読み終わらないうちに、夫人は、にわかに頭が痛み出し、とても堪えられなくなった。両手両足が役立たなくなり、倒れ込んでますます苦しんだ。
夫人は心の中で、「わたしは、にわかに重い病にかかったようだ。もしこのまま死ねば、遂にこの経を読み終えることが出来ない」と思って、起き上がって経を読もうとしたが、前にある灯はすでに消えていた。

そこで夫人は、自ら起って灯に火を灯すことは無理なので、従者の女を呼んで火を灯すよう命じたが、しばらくしてその命じた女が戻ってきて、「家の中には元になる火がありません」と言う。それを聞いて夫人は、なお、他の人の家に行かせて火を求めさせたが、やはり、火はなかった。
夫人はたいそう残念に思い嘆いていたが、ふと外を見ると、庭の中に灯が見えた。そして、その灯は、庭から前の階段を上ってまっすぐ寝ている床の前まで来た。その灯は、床から三尺ばかり浮いていた。灯を持っている人の姿は見えないが、真昼のように明るい。
夫人はこれを見て驚き、たいそう喜んだ。
頭の痛みもなくなった。そこで、経を取って読誦を始めたが、しばらく経って、家の人が火が消えたことを聞いて、きりもみして火をおこし、その火をお堂に持ってきたが、庭の中に現れた灯は、たちまち見えなくなってしまった。
夫人は経を読み終わり、「不思議なことだ」と心の中で思った。

その後、毎日読誦すること五遍に及んだ。
あるとき、夫人の弟の芮公が病を得て、まさに死にそうになった。夫人は、芮公の所に見舞いに行くと、芮公は夫人に、「私は、夫人の読経の験力によって、寿命が百歳あり、今まさに死んで善所(極楽)に生まれます」と話した。
夫人の年が八十歳の時に    ( 以下 欠文 )

     ☆   ☆   ☆ 

* どうも、中途半端な所で欠文になっていますが、当初から、ここで打ち切られていたようです。その理由は、弟が百歳で死のうとしていて、姉の夫人が八十歳ではつじつまが合わないので、中断させたままになったようです。
この物語の原典は、夫人を「姉(イモウト)」と読ませているらしくて、妹の方が正しいのかも知れません。

     ☆   ☆   ☆  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自由気ままの聖人 ・ 今昔物語 ( 7 - 44 )

2022-08-20 08:18:55 | 今昔物語拾い読み ・ その2

       『 自由気ままの聖人 ・ 今昔物語 ( 7 - 44 ) 』


今は昔、
河東(カトウ・山西省。黄河東部をいう。)に僧がいた。名を道英(ドウエイ・華厳経の学僧。636 年没。)という。
若い時から禅行(ゼンギョウ・心を集中して安静統一させる修行。)を修行して怠ることがなかった。但し、身だしなみや衣服などは構わなかった。
ところが、道英は知識が広く、経教の深い義理を良く理解し悟らないものは無かった。一度聞くことで悟ることは並ぶ者とてない。
されば、遠近の僧尼たちは、挙ってやって来て経典の疑問の解決を乞うた。道英は容易く答えて、「あなた方が疑問に思う所を、よくよく思惟(シユイ・考えめぐらすこと)しなさい」と言って、義(真理、といった意味か?)を教えた。
すぐに理解できた者は、喜んで返った。未だ理解できない者は、何度もやって来て義について尋ねたが、道英は、質問に応じてその要点を説いて教えた。それによって、全員が理解して喜んで返っていった。

このようにして何年かが過ぎた頃、道英は、多くの人と共に船に乗って黄河という河を渡る時、河の真ん中で突然船が沈み、乗っている人は皆、水に落ちて死んでしまいそうである。
陸にいた道俗(出家者と在家者)の人々は、道英が沈むのを見て、河の岸から眺めて大騒ぎした。時期は、冬の終りのことで、水は澄んでいて凍てついていた。両岸はどちらもそそり立っている。ところが、道英は水の中を歩いて岸まで来ると、凍っている表面を打ち破って岸に上がった。
岸にいた人々は、これを見て喜びながらも驚き、争って自分の衣服を脱ぎ、道英の濡れた身体を覆わんとしたが、道英はそれを受け取ろうとせず、「私の身体の内はとても熱い。あなた方の衣服で覆って下さることはない」と言って、ゆっくりと歩いて帰っていった。
全く寒そうな様子がない。身体を見ると、まるで火で炙られたようである。人々は皆、これを見て「不思議なことだ」と思い合った。

また、道英は、ある時には、牛を飼っていて、車を引かせて人を乗せた。また、自ら蒜(ヒル・ネギやニラやニンニクの類い。)を食べ、ある時には俗人の衣服を着た。頭の髪は二、三寸もある。どれもこれも僧らしくなかった。
また、仁寿寺(ニンジュジ・伝不詳)に行くと、その寺のドウソン(河東の人らしい。41話に登場している。)は、この道英を見て敬い尊んで、その寺に迎えたが、日暮れになると食事を要求した。
ドウソンは、「聖人は食事をなさることが無いといいますが、あえて人から嫌われるために求められているのですか」と尋ねた。
道英はそれを聞くと、笑みを浮かべながら、「あなたは、遂に、胸の動悸が激しくなり、少しも休むことなく動いて、飢えのために自ら苦しもうとなさっている」と言った。
ドウソンは、その言葉を聞いて、嘆くこと限りなくして、遂には死んでしまった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石造りの経典を刻む ・ 今昔物語 ( 7 - 45 )

2022-08-20 08:18:09 | 今昔物語拾い読み ・ その2


       『 石造りの経典を刻む ・ 今昔物語 ( 7 - 45 ) 』


今は昔、
震旦の幽洲(ユウシュウ)という所に、知苑(チオン・伝不詳)という僧がいた。生来優秀で、経典の教えを熱心に学び、ひろく衆生を救済することを願った。

その人は、随の大業(ダイゴウ・605 - 616 )の時に、発心して石の経蔵を造った。これは、ただ一心に、法の教えが途絶えた時に、遙か未来の世に法を伝える為である。
幽洲の北の山に、巌を穿って、石の室(ムロ)を造った。四方の壁を磨いて、その面に経文を刻んだ。また、四角い石を磨いて、その面にも経文を刻んで、多くの室の内に納めた。このように、室ごとにいっぱいにして、石で以て入り口を塞いだ。鉄で以て塞ぐより堅固だからである。

その頃、内史侍郎(ナイシジロウ・長安地方を治める次官。)の簫璃(ショウリ)という人がいた。仏法を厚く信奉していた。
簫璃は、この知苑が石の経蔵を造って経教を納め置くことを行っていることを尊び、[ 欠字。「后」が入るらしい。]に申し上げて、絹千匹(一匹はニ反)を布施とした。また、銭を布施して事業を助成させた。また、簫璃も絹五百匹を布施した。
さらに、国王を始めとして、百姓などすべての者がこの事を聞いて、争うように布施すること雨が降るかのようであった。
これによって、知苑はそれらの布施を集めて、その事業を思い通りに完成させた。
その経蔵を建てるのに関わった大工が大勢いた。そこで、道俗の者たちが集まってきて、その巌の前に木造の仏堂や食堂・廊(ロウ・寝室のことらしい)を造ろうとしたが、その所に木材や瓦などを集めることが難しく、計画を進めようとしていた者たちは困り嘆いた。仏のために集まっている物と物々交換して資材を集めようとしたが、そのための費用が多すぎて、未だに完成させることが出来なかったが、ある夜、突然雨が降り出し、雷が鳴り、山を振動させるほどであった。

明くる朝、見れば山の麓に大きな松柏(ショウハク・主として針葉樹を指す。)が千株ほど、水に流されてきて道の辺りに積み上がっていた。
山の東側には材木になるような木は少なく、松柏は極めて少ない。道俗の者たちは驚いて大騒ぎするが、それらの木がどこから流されてきたのか分からなかった。流されてきた跡を辿っていくと、遙か向こうの西の山の峰が崩れ木が倒れて、この場所まで流されてきたのであった。
遠近の人々は、皆、この事を見聞きして、感動すること限りなかった。そして、これらはすべて、神の助けだと知ったのである。

知苑は、大工を行かせて、必要なだけの木を選び取って、余った木は近隣の村落に分け与えた。されば、村の者たちは大喜びして、大工と共に堂の建造の手助けをしたので、いずれも思い通りの建物を造ることが出来た。
知苑が造った石の経は、すでに七つの石室に満ちていて、知苑はかねてからの宿願を果たしたことを喜びながら、亡くなった。
その後は、知苑の弟子たちが、その功績を受け継いで、さらに熱心に勤めを怠ることがなかった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閻魔王に招かれた僧 ・ 今昔物語 ( 7 - 46 )

2022-08-20 08:17:39 | 今昔物語拾い読み ・ その2

       『 閻魔王に招かれた僧 ・ 今昔物語 ( 7 - 46 ) 』


今は昔
震旦の京師(ケイシ・都。ここでは随の都、長安。)に真寂寺(シンジャクジ・当時栄えていた寺らしい。)という寺があった。その寺に恵如禅師(エニョゼンジ・三階教の始祖信行の弟子。)という僧が住んでいた。
若い時から熱心に仏法を信仰して、ひたすら仏道を修行することを怠ることがなかった。

ある時、恵如は弟子に、「決してわしを起こしてはならない」と命じて、全く動かずに座っていた。弟子は、もう目を覚ますかと待っていたが、七日の間動かない。
弟子たちが皆集まって心配していると、智恵のある人が言うには、「この人は、三昧の定(サンマイノジョウ・禅定とも。心を集中して瞑想すること。)に入っていらっしゃる」ということであった。
そして、七日目になって、恵如は目を見開くと泣き出した。弟子たちや寺の僧たちは、その様子を不思議に思い、そのわけを訊ねた。
恵如はそれに答えて、「皆さん、まずは私の足を見て下され」と言って、足を見させた。見てみると、足はひどく焼けていて、赤くただれていて痛がること限りなかった。
足を見た人は、「これは、どういうことだ。これまでは、足に問題はなかった。それが突然ただれたとはどういうことだ」と訊いた。

恵如は、「私は、閻魔王に招かれて、王の許に参上しました。王の命により、仏道を行い、七日ですべて終えた時、王が仰せられた。『お前は、死んだ父母の様子を見たいかどうか』と。私が『是非見たいと思います』と答えますと、王は人を遣わせて呼びにやると、一匹の亀がやって来ました。そして私の足の裏を舐ると、目から涙を流して去って行きました。王は、『どうして、あと一人は連れてこないのか』と仰せられると、使いの者は、『もう一人は、極めて罪が重いので、連れてくることが出来ません』と答えました。王は私に、『どうしても、見たいかどうか』と訊ねられました。私は、『是非見たいと思います』と答えますと、王は、『それでは、使いの者と共に行って、見てくるがよい』と仰せられました。
そこで、使いの者は私を地獄に連れて行きました。地獄の門は、固く閉じられていて開きません。使いの者は、地獄の門の外から、大声を挙げて呼ぶと、内側から答える声がありました。すると、使いの者は私に、「お前は、この場から遠く離れて、この門のそばに立っていてはいけない』と教えてくれました。
私が教えられた通り遠く離れると、地獄の門が開きました。すると、地獄の猛火が門から流れ出てきました。その火は、鍛治師の槌に打たれて飛び散る星のようにほとばしり、その中の一つの星が私の足に飛び着きました。私は驚いて、これを払い落として、目を挙げて地獄の門を見ますと、鉄(クロガネ)の湯の中に百人の頭があるのを見ただけで、門は閉まってしまいました。とうとう、会うことが出来ませんでした」と語った。
これを聞いて、集まっている人は皆、不思議な思いを感じながらも、尊び合うこと限りなかった。

さらに、恵如は、「王は私に、絹三十疋(疋は二反にあたる。)を与えて下さると仰せになりましたが、私は固く辞退しまして、受け取りませんでした」と語った。
ところが、目覚めた後、自分の僧坊に戻ってみると、その絹が床の上に置かれていた。その焼けた足には、大きさは丸い銭のようで、完治するまでに百余日を要した。

その真寂寺は、後に化度寺(ケドジ・実際は別の寺らしい。)というのは、この寺のことである。
この事は、その寺の縁起に記されているのを見て書き伝えられている、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五戒を破る ・今昔物語 ( 7 - 47 )

2022-08-20 08:17:05 | 今昔物語拾い読み ・ その2

       『 五戒を破る ・ 今昔物語 ( 7 - 47 ) 』


今は昔、
震旦の[ 欠字。王朝名が入るが不詳。]代に、東宮の右監門兵曹参軍(皇太子の宮殿警護に当たる役所の、兵事を司る参謀。)である邵の師弁(ショウのシベン)という人がいた。
未だ、弱冠(ジャッカン・若いこと。二十歳を指すことも。)の時に、にわかに病にかかり、亡くなった。父母は泣き悲しんだが、どうすることも出来なかった。

ところが、三日経った夜半の頃に蘇(ヨミガエ)った。父母はそれを見て喜ぶこと限りなかった。
すると、師弁は自ら語り始めた。
「私が死んだ時、多くの人がやって来て私を捕らえて、引き立てて行き閻魔庁の大門を入りました。見てみますと、私と同じように捕らえられた者が百人余りおりました。皆重なって歩き、北向きに立っています。ほぼ六列になっていました。
その列の前に行く者がいました。体は肥えていて色が白く、立派な衣服を着ていて、見るからに気高くて高貴な人のようでした。その後ろには、だんだん痩せてみすぼらしい者が続き、ある者は首かせと鉄の鎖に繋がれ、ある者は帯も締めず(だらしない服装のことか?)、皆重なり合って歩いています。私は、三列目の東側の三番目に立たされました。私も同じように帯を締めておらず、多くの者と重なって立っていました。とても怖ろしく、どうすればよいのか分からず、ただ、心を込めて仏を念じ奉りました。

その時、生きていた時に知り合っていた僧の姿を見つけました。その僧は、私たちを取り囲んでいる兵者(ツワモノ)の所に来て囲いの中に入ろうとしました。兵者はこの僧を見て、止めることなく中に入れました。その僧は、私の許にやって来て言いました。『あなたは、生きていた時、功徳を修めていない。今はどうか』と。私は、『どうぞ、私を憐れんでお助け下さい』と言いました。僧は、『すぐに、あなたを助けよう。ここから逃れることが出来れば、心を込めてひたすら戒律を保ちなさい』と言いました。私は、『ここから逃れることが出来ましたら、ひたすら戒律を保ちます』と答えました。

やがて、官人(閻魔庁の役人)がやって来て、この捕らえられている者たちを役所の中に入れて、順に尋問を始めました。私の番になった時、先ほどの僧がなお居て、官人に対して私の善業を話してくれました。この弁明のお陰で、私は放免されました。
すると、その僧は私を連れて出ました。門の外まで来ますと、私のために五戒(仏法信奉者が守るべき基本の戒律。)を説き聞かせて下さり、瓶の水を私の額に濯いでから、『あなたは、日が西に傾く頃、蘇るでしょう』と言って下さり、黄色の衣を一着下さって、『あなたはこれを着て家に帰り、清浄な所に置きなさい』と教えて下さった後で、帰るべき道を示して下さいました。
私は、教えられたようにこの衣を着て、家に帰り着くことが出来ました。まずは、衣をたたんで床の隅の上に置きます」と。

そして、目を開き体を動かした。
父母や家の人たちは、それを見て驚き大騒ぎし、怖れをなして、「何と、死んだはずの屍が起き上がろうとしている」と言い合った。ただ、母だけは師弁のそばから離れることなく寄り添っていた。そして、「お前は蘇ったのか」と尋ねた。師弁は、「日が西に傾いたので、私は蘇ったのです」と答えた。ただ、心の内で、まだ真昼のはずだと思って母に尋ねた。母は、「ただ今は真夜中ですよ」と言った。そこで、冥界と現世は夜昼が逆転していることを知った。
その後、しだいに意識がはっきりしてきて、ようやく日が西に傾く頃になると、遂に食事をとることが出来て、以前のようになった。
なお、僧から授かった衣を見てみると、床の上にあった。師弁が起き上がる時になると、衣はいつの間にか消えていた。ただ、その所に光があって、七日目になってその光は消えた。
(このあたりの内容は、最初に『蘇った』としているのと、時間的に矛盾がある。)

その後、師弁は、心を尽くして五戒を保ち、破ることがなかった。
ところが、数年経った頃、親しい友が「猪の肉を食べなさい」と勧めた。師弁の心は拙くて、肉切れを一つ食べた。
その夜、師弁は夢の中で、自分の身が突然変じて羅刹(ラセツ・人を喰う悪鬼。)となった。爪や歯が長く伸びて、生きた猪を捕らえて喰らおうとしているのを見たところで、明け方となり夢から覚めた。
その後、口の中から生臭い唾を吐き、血を吐き出した。すぐさま従者を呼んでこれを見せたが、口の中に固まった血が満ちていて、極めて生臭い。
師弁は、驚くと共に恐れをなして、その後はまた肉食を断った。

ところが、また、師弁の長年連れ添っている妻がいたが、その妻が是非にと肉食を勧めたので、また食べてしまった。
今度は、久しくその咎はなかったが、その後五、六年過ぎてから、遂に師弁の鼻に大きな瘡が出来た。数日経つうちに、激しくただれて、死に至るまで治ることがなかった。これは、疑いもなく戒律を破った咎であることを知って、昼夜朝暮に恐れ惑ったが、決して完治することがなかった。

これを以て思うに、後世の助けは有り難いことである。それを戒律を破って、愚かにも食欲にひかれて、前の冥途でのことを忘れて、後の世の苦しみを思わなかったとは、まことに愚かなことだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥界に赴いた僧 ・ 今昔物語 ( 7 - 48 )

2022-08-20 08:12:44 | 今昔物語拾い読み ・ その2

       『 冥界に赴いた僧 ・ 今昔物語 ( 7 - 48 ) 』


今は昔、
震旦の華洲の鄭懸に張の法義(チョウのホウギ・伝不詳)という人がいた。若い頃は、身は貧しくして礼法(礼儀、といった意味か?)を知らなかった。

貞観十年(636)という年、法義は華州に行き、山の木を伐っていたが、ふと見ると、一人の僧が巌の洞の中に座っていた。
法義は、この人を見て近寄って話しかけたが、やがて日が暮れて、帰ることが出来なくなったので、そこに泊まった。
僧は、松柏(ショウハク・主として針葉樹を指す。)の脂(ヤニ)の粉末を法義に食べさせた。そして、僧は法義に、「私は仏道に暗くして、この所に住んで久しくなった。別に、世の中の人に知られたいとも思わない。されば、あなたは里に出てからも、ここに私が住んでいることを人に話さないで欲しい」と言い終わってから、法義のために在家の者(出家者でない者を指しているらしい?)は罪業があることを説き聞かせ諭した。
「人は死ねば、誰もが悪道(三悪道。地獄道・餓鬼道・畜生道の三道。)に趣く。それゆえ、あなたも、真の心を尽くして懺悔し、罪を滅しなさい」と言い教えて、湯浴みさせ、清浄にさせて、僧は自分の衣を脱いで着せた。
明くる朝、法義は、懺悔して別れた。法義は家に帰って後、この事を人に語ることはなかった。

その後、十九年を経て、法義は病を得て、たちまちのうちに死んでしまった。
家の人は、貧しいために、棺桶を用意することが出来ず、法義の体をそのまま土葬にした。薪(タキギ)で以て屍体の上にかぶせた。
ところが、法義は蘇(ヨミガエ)り、自ら薪を押し開いて、抜け出て家に帰った。家の人は、法義を見ると、驚きおびえながら問いただした。法義は蘇ったことを話した。法義の言葉を聞いて、家の人は皆大喜びした。

そして、法義は語った。
「私が初めて死んだ時、二人の人が現れて、私を捕らえて空を飛んでいって、閻魔庁に至り、大門を入って行きました。さらに、町の南を巡って十里ばかり行くと、左右がすべて官庁の建物になりました。門や高い建物が向かい合っていて、その数はとても多い。
私が一の建物に行くと役人がいました。私を捕らえてきた青い衣を着た使者は、役人に向かって言いました。『これは、華州の張の法義です』と。役人は、『本来は、三日を期限に連れてくるべきではないか。どうしてこれほど遅れて、七日もかかったのか』と訊ねました。使者は、『法義の家の犬が悪いのです。さらに呪師(ジュシ)がおりまして呪神に私を打たせたのです。大変な目に遭いました』と言って、上半身裸になって背中を見せました。背中が青く腫れていました。

役人は、『お前たちは、怠慢による過ちが多い。されば、各々に杖二十を与える』と言い終わると、使者の背中から血が流れ地面にしたたり落ちました。さらに役人は、『また、「これは、法義の罪」として記録せよ。記録の担当者はその旨を記した文書を判官(裁判官)に届けよ』と命じました。
判官は、主典(下級の役人)を呼び寄せて、私の案(フダ・生前の罪状を記録した書き付け。)を受け取りました。その中に記されている札はとても多くて、一つの床にあふれるほどでした。
主典は、私の前でそれを開いて、中味を審査しています。その札の数は多く、中には朱で印している物もありました。その朱が印されている物を私に示して、『貞観十一年(637)に、お前が父になした咎は、禾を苅る(この部分、意味が分からないので、「まだ審査していない」と推定しましたが、誤訳かもしれません。)。つまり、お前は目を怒らせて密かに父を罵ったが、親不孝の罪に当たる。その罰は、杖八十にあたる』と告げました。

審判は、まだ最初の一条が終えただけですが、その時、昔、巌の洞穴にいた僧がやって来るのが見えました。判官は、その僧の前に立って、『何の御用で参られたのか』と訊ねました。僧は、『張の法義は、我が弟子である。その罪の懺悔はし終わり、罪は滅除している。冥府の六役所の案の中に、そして一の案の中にすべてが含まれている。今召し出されているが、殺してしまわないでくれ(このあたりも、誤訳の可能性があります。)』と言ってくれました。
主典は、「懺悔したことは、この案の上に記録されている。但し、目を怒らせて父を罵ったことは、懺悔した後のことである』と言う。僧は、「そうおっしゃるなら、案を取ってそれを審査されよ。善行があれば、それで帳消しにしよう』と申し出ました。

判官は、主典に私を閻魔王の所に連れて行かせました。
見てみますと、閻魔王の宮殿は大きく、警護の官人は数千にも及びます。僧は、私について来てくれていました。
閻魔王は僧を見て、立ち上がって仰せられました。『師よ、直(トノイ・閻魔庁にも宿直の僧がいたらしい。護持僧に当たるもので、閻魔庁を皇帝の王宮と同等に扱っていたようである。)に当たっていて参られたのか』と。僧は、『まだ直に当たっておりませんが、私の弟子の張の法義という者がおりまして、その者のことで参りました。その者には、多くの罪があります。私は全部審査しましたが、未だ死には相当しません』と申し上げました。主典は、私が目を怒らせて父を罵ったことを閻魔王に申し上げました。
閻魔王は、『目を怒らせて父を罵ったことは、懺悔の後のことである。許すべきでない。ただ、そうではあるが、師がやって来て七日ばかり請われるので、速やかに許すがよい』と仰せられました。 

そこで、私は僧に申し上げました。『七日は決して長くはありません。私は、これから後にまた来ました時に、お会いできないのではないかと心配です。願わくば、このままここに置いて下さい』と。すると僧は、「七日というのは七年のことです。あなたは早く返りなさい』と言われるので、ここを出ることを頼みました。
僧は、閻魔王の筆を借り受けて、私の掌に一字を書きました。また、王に印を借りて押して『早く行きなさい。家に帰って熱心に善行を修めなさい。もし、後にここに来て、私が見えなければ、すぐに掌の印を見せなさい。私は、大切にあなたを見守りましょう』と仰せられました。

私はこれを聞いて、そこを出ました。僧は家を教えてくれて入らせようとしてくれましたが、私は、暗くて入ることが出来ませんでした。すると、使者が私を押したので、遂に蘇ったのです。意識がしだいに戻ってきて、『自分は土の中にいるのだ』と分かりました。ただ、乗っている物はとても軽いので、手で押し開いて出て来たのです」
と語った。

その後、山に入って、前の僧について、熱心に仏道を修行した。掌の中の印は見えなくなり、その所は瘡となり、最期まで治る
ことがなかった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月の消費者物価は2.4%の上昇

2022-08-19 19:07:50 | 日々これ好日

      『 7月の消費者物価は2.4%の上昇 』

    7月も 消費者物価は2%以上上昇し
    4月以降連続で 2%以上が定着してきた感じ 
    2%以上の物価上昇を 経済対策の中心に据えてきた方々は
    目標達成と 大いばりなのでしょうねぇ
    それにしては 何の恩恵も感じられないような気がするのは
    貧乏人の ひがみでしょうか
    まさか 『この上昇は よくない上昇だ』などとご高説を展開し
    『次は5%の物価上昇を目指す』と 大見得を切るのではないでしょうねぇ

                       ☆☆☆
      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都の辰巳

2022-08-19 08:00:41 | 古今和歌集の歌人たち

      『 都の辰巳 』

   わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む
          世をうぢ山と 人はいふなり

             作者  喜撰法師

( 巻第十八 雑歌下  NO.983 )
          わがいほは みやこのたつみ しかぞすむ
                   よをうぢやまと ひとはいふなり


* 歌意は、「 私の庵は 都の東南に当たる そこで このように穏やかに過ごしている しかし その宇治山を 「世を憂し」と世を厭う人が入る山だと 人々は言っているそうです 」といったような意味で、法師らしい淡々とした歌なのでしょう。
なお、「しかぞすむ」は「然ぞすむ」で、「このように過ごしていますよ」といった意味です。
ただ、私は、「しかぞすむ」を、ずっと「鹿ぞ住む」だと思っていました。その後、学ぶ機会があって唖然としたのですが、今も、「鹿ぞ住む」の方が優れていると思っていて、「鹿が住んでいるような のどかな宇治山を 世間の人は『憂し山』と言うのですよ」と受け取ってしまうのです。専門家の方からはお叱りを受けるかも知れませんが。

* 作者の喜撰法師には、伝承らしいものは皆無です。謎多き人物というより、個人的には、その存在さえ疑問を感じています。
もちろん、生没年は不詳ですが、平安時代初期の真言宗の僧であったというのが、ほぼ定説のようです。山城国の乙訓郡(宇治市あたり)の生まれで、出家後醍醐山に入り、後に宇治山に隠棲したとされています。そうだとすれば、この歌は、その時期に詠まれたということになります。
そして、やがて仙人に変じたということですから、どこまで信用するかは、難しいところです。

* 喜撰法師の歌は、この歌の他には、玉葉和歌集にある、
 『 木の間より 見ゆるは谷の 蛍かも いさりに海人の 海へ行くかも 』
との二首だけです。この二首だけで歌風など論じるには無理がありますが、比較的平易で分かりやすい歌のように感じます。
古今和歌集の仮名序には、後に六歌仙と呼ばれることになる歌人の一人に、紀貫之は喜撰法師は加えており、「ことばかすかにして、はじめをわりたしかならず、いはば 秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし。詠める歌 多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず」と評しています。
その程度のことなら、わざわざ六人の中に加えなくてもよいのに、と思ってしまうのですが、この歌には何とも捨て難い魅力があるということかもしれません。

* 喜撰法師の出自について、桓武天皇の末裔などというのもあるらしいですが、とても根拠のあるものとは思われません。さらに、紀貫之の変名だというのもあるらしいですが、もし当時にそのような噂があったとすれば、少々たちが悪すぎるような気もします。
いずれにしましても、掲題の和歌は、小倉百人一首にも入っていることもあって、現代の私たちには大変馴染み深い古歌の一つになっています。
この作者については、あまり消息などを追わないで、「もしかすると仙人になったのかもしれない法師」の歌だと考えたいと思うのです。

     ☆   ☆   ☆ 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五輪がらみの汚職に失望

2022-08-18 18:37:29 | 日々これ好日

      『 五輪がらみの汚職に失望 』

    五輪がらみのお金の流れ 汚職に発展しそうだ
    予想していたことではあるが やはり失望したが
    むしろ これなど 氷山の一角ではないのか
    と 思ってしまう
    徹底した捜査と もっと広く調査をして欲しいと思う
    スポーツが絡むと うっかり 爽やかさを感じてしまうが
    その裏では 利権やお金が動いている例も 少なくないようだ
    少なくとも 今後10年程度は 五輪などの招致には
    絶対手を上げないで欲しい と思うが
    きっと 利権やお金の魅力が 
    こんな希望など 吹き飛ばしてしまうことだろう ナァ ・・・

                    ☆☆☆
    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする